シャッター音は"小さな死"だと思った話。

私はとにかく忘れっぽい。昨日の夕飯とか、誰に何を話したとか、請求書の郵送期日とか、気がつくとぼうっとしていてすぐに忘れてしまう。誰かと喧嘩をして、「ぜったい許さないぞ」と心に誓っても、翌朝すっかり忘れていて、いつものように馴れ馴れしく話しかけてしまったりする。

今日は原美術館の「そこにある、時間―ドイツ銀行コレクションの現代写真」展に行ってきた。原美術館って品川駅から15分、北品川駅からも8分と、けっこう歩いたところにある。道すがら、こんな庭園の緑も楽しめるので、散歩しつつの美術館デートにはけっこうお勧めの場所。

1970年〜最近にいたるまでの写真芸術を「写真とは何か」という切り口から展示している。時間を切り取り、三次元を二次元に落とし込む。言われてみれば、写真芸術というのは不思議な工程を経て成り立っている。

ひとつだけ、私にしては、昨日のことのように思い出せる風景の記憶がある。小学生の頃に見た夕暮れ時の東京湾だ。父親の仕事関係で、生まれて初めてディナークルーズというものに乗り、その船上からの景色だった。空が赤く、海に反射し、遠くに見えるビル群が夜のライトで輝いていた。幼心に「こんなに美しい風景はこの先もうずっと見られないだろう」と感じ、脳裏に焼き付けようと目をカッと見開いた。「忘れないように、忘れないように…」と、まばたきをするのも惜しむほどに。そのとき私は写真を撮ることが、その記憶を薄めてしまう要因になるというのを、無意識ながらに実感していた。

写真を撮ることで、時間というものが、指の間から滑り落ちていく砂塵のように、つかみどころがない幻想だということを嫌でも痛感してしまう。記憶という立場で捉えるならば、それは保存ではなく、消失だ。その一瞬はシャッター音とともに消え去り、そして、不思議と、その前後が色鮮やかに浮き上がる。

「そこにある、時間」展にて数多の写真作品を眺めながら、自分が自然と「シャッターを切った後に動く被写体」を想像していることに気づいた。切り取られたその一瞬ではなく、被写体が息を吹き返すその瞬間を待っているようだった。むしろ、そのような小さな死をくりかえすことが、生き生きとした思い出を保ち続ける方法なのかもしれない。つかみどころのない時間に緩急をつけていくような感覚だ。

もう少し、自分から写真を撮ってみようか。なんとなく、思い出を脳裏に残しておくためにカメラは必要なのかもしれない。ここに書いておけば、明日の私も忘れないでしょう。

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園田もなか

日々のつれづれ忘備録

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