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自分で作るご飯はだいたい美味い

まずくても、そこそこ食べられる。

一人暮らしをして気づいたのは、自分が思っていた以上に食にこだわりがないということだった。栄養さえ取れてれば、同じ食事パターンを延々と繰り返せる。毎日のように、豆腐とモチと野菜と肉を全てあんかけでとじて一皿に盛り付けて食べていた。食べるというか、摂取していた。味付けは、めんつゆのみ。

「女子力」とか「インスタ映え」いう言葉が存在しない世界線の話である。見た目はあれだけど、腹に入れば一緒だし、洗い物も楽だ。毎回平皿の上にチョモランマのごとくそびえる白い物体を見ながら、「美味しいけど人に出せた料理じゃないな」と思っていた。

ただ、最近になってひとつ気づいたことがある。

「他人は手の込んだ見栄えのいい料理よりも、シンプルでわかりやすい料理の方が箸を進めてくれる」ということだ。

よほど腕のある料理人でもない限りは、みんなの知ってるカレーとか、生姜焼きとか、ハンバーグとかの方がウケがいい。私も、お呼ばれしたときに真っ先に手をつけるのは、そういう分かりやすい料理だな、と思う。単純に、味の想像がつくから、なんか安心なのだ。

シンプルな塩おにぎりとかね(あ、人が握ったものが食べれない人もいたっけ)。

自分が作った料理なら、どんなに見栄えが悪くても、味の想像がつくから安心して食べられる。でも、友人や恋人に喜んでもらうとなると、もう一捻り必要になる。そしてそれは、創意工夫というよりは、相手のストレスを軽減するような簡素化とわかりやすさの方が優先度として高い。

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これはたぶん、文章でも一緒だ。iPhoneのメモや、好き放題に書きなぐった日記は自分にとっては面白い。文脈がすでに理解できていて、ストレスもかからないからだ。それを他人に読ませるものにするには、相手に「わかりやすく」「シンプルに」「面白そうだ」と、「食欲」ならぬ「読欲」をわかせねばならない。

料理も文章も「お出しするもの」として作ると、色々と気がつく。

・この量じゃお腹いっぱいになるんじゃないか(読みきれないんじゃないか)
・味が薄すぎてアクセントがないんじゃないか(途中でつまらないと離脱されるんじゃないか)
・見た目や味付けにこだわりすぎて相手にストレスを抱かせていないか(自己満足の情報過多になっていないか?)

……それは、自分のためだけに作っているときよりも疲れる。書き上げたときにグッタリする。

でも、なんだかクセになる。一度喜んでもらうと、また人のために作ってみたくなる。そういう感じでダラダラと続けている。料理も、書き仕事も。

ちなみに、このブログのためにチョモランマな白い塊の写真を探したが、一枚もなかった。そもそもシェアする気もないのだ。

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