タバコふかして「あんた子どもねえ」と笑う人間は、大人ではなく屍だ

昔、「大人になりたい」と嘆く私に、知人は「大人になるっていうのは、何かをすることではない。捨てることなんだよ」と言った。「あれもこれも」と鼻息荒くする自分から、離れていく。確かにな、と首がちぎれんばかりに頷いていた。

昨日、学生時代にともに同人をしていた友人と、最近小説を書けなくなってしまった、という話をした。特段忙しいわけではなく(忙しいと言ったって、たかが知れている)、「書きたいもの」が分からなくなってしまった。誰かに見せたいという気力さえ、無い。

「最近イラッとしたことは何ですか?」と質問され、答えに窮した。昨日、先週、先月、と振り返っても、思い当たる節が無かった。

穏やかで心が大海のように広い人間だから、というわけではない。実際は、イラッとすることなんて日々溢れてるはずなのだ。しかし、明らかに昔と違うのは、そのイラつきを見過ごすようになった。忘れてしまうことができるようになった。

私の小説を書くモチベーションは、常に憤りに支えられていた。小説だけではない。何かを書こうとする時、私は何かを許せなくて憤っていた。目の前の現実をどうにか変えたい、という思いが筆を走らせていた。

若気の至り的な傲慢さから解き放たれたのをよしとするべきだろうか。確かに、昔よりもずっと生きやすくなった。しかし、「人は変わらない」ゆえに「私が変わる以外にない」と、あらゆることを諦めて、たどり着くところはどこだろう。

なんとなく最近、必ずしも「諦める」ことが大人になることではないような気がして仕方ないのだ。たぶん、諦めた、その先にある創作のモチベーションこそが目指すべき場所なのではないかと。

だいぶ抽象的だけど、まだきちんと言葉にして理解できていないけど。「どうせ何も変わらない」と世界を知った風な人間は、どうしても私にとって魅力的ではないのだ。

大人を通り越して、生きた屍のようになる前に。


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