回り道をし続けて、知らず知らずの身の丈

「メメント・モリ」ーー“死を想え”。すっかり耳にたこの言葉であるけれど、最近改めてこの言葉のもつ力を感じて、たまに自分につぶやくようにしている。メメント・モリ。死を想え。“わたし”がいなくなった後も世界はただ変わりなく存在し続けるという事実を知れ。

あなたの話し相手は、あなたのことに対して持つ興味の百倍もの興味を、自分自身のことに対して持っているのである。中国で百万人が餓死する大飢饉が起こっても、当人にとっては、自分の歯痛のほうがはるかに重大な事件なのだ。(D・カーネギー「人を動かす技術」)

ふと、ライターになりたてで、初めての対面取材をしたときを思い出した。わたしはもう顔が真っ青になるくらい緊張していて、前夜もソワソワがおさまらず写経じみたことをし、当日は3時間早くついてしまってスタバで味の無いサンドイッチを噛み締めながら、何度も何度も脳内でシミュレーションをしていた。

そのときにわたしがどうしてそこまで緊張していたか。それは、今思えば「何かやらかしたらどうしよう」という自分本意の不安からだった。取材中に質問することを忘れたら?うまく相槌が打てなかったら?相手がわたしのことをつまらない人間だと思って口を閉ざしたら?……「〜たらどうしよう」という不安は大概が杞憂に終わる。結果的には、その不安から下調べも準備もしっかりできていたし、楽しくなんの問題もなく取材が終わった。

今だと思う。なぜ、「わたしは相手の立場でものを考えていなかった?」。たとえば、もし自分が取材を受ける側だったら、どんな不安や緊張をもつだろう。同じように「つまらない人間だと思われたら?」なんて杞憂に終わる心配をしているかもしれない。インタビューは学芸会じゃないのだから、わたしはきちんと相手の立場に立って、その不安をすくいながら、コミュニケーションをすべきだったのだ。

想像力が欠如すればするほど、頭の中は自分のことでいっぱいになる。自分が世界の主人公のような気がして、スポットライトが当たっているような気がして、万能である“べき”ように感じる。

今なら思えるのだ。ああ、なんて窮屈な生き方なんだろう!

私たちは等しく不安を抱えた存在であり、いまわたしが「こいつ仕事できないなと思われたらどうしよう」なんて馬鹿げた(しかし大変ありきたりな)不安に苛まれるとき、同じように相手は何かしらの不安やコンプレックスに頭がいっぱいかもしれない。相手は相手の世界の中で主人公なのだ。

実は私たちは自分が万能ではないことを知っている。自分の身の丈を知ること、思っている以上にできないこと、を知る不安を抱えている。その思いが強ければ強いほど、一歩を踏み出す決断が鈍くなる。

好きなひとをデートに誘うのをためらったり、大きな仕事を受ける機会をみすみす逃したり、どこか遠くに行きたいと言いながら家に居続けるとき、わたしたちは“現実の身の丈”を知ることよりも、“脳内の理想の自分”にすがりたがっている。

焦る必要はないけれど、回り道をしている暇もないよな。メメント・モリ。我々は等しく不安を抱え、等しく死に向かい、等しく世界の主人公ではない。死を想え。“わたし”がいなくなった後も世界はただ変わりなく存在し続けるという事実を知れ。だからこそ、我々が気にするしがらみはすべて瑣末なものである。

なんか色々とびびっちゃって、二の足を踏む自分に言ってみた。メメント・モリ。“わたし”を殺せ。


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