ひとは予想以上に“侮蔑されること”に敏感なのだ

あっちにも喋りたいことがあるだろうが、こっちにも喋りたいことがある。どういう話し方で、どういうテンポなら楽しく会話ができるのか? まだその手探りの段階で、いきなり相手の個性をゴリ押しされると、強い拒絶反応が起きる。相手に対して、どういう分人になるのか? それは、相手の影響を受けつつ、こちらにも自発性がなければ受け入れられない。俺はこういう人間だから、お前はそれに従えと強要することは暴力である。(平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』より)

昔、友人と些細な喧嘩をした際に、「私は絶対に変わらないから」と言われて絶望したことを覚えている。そのセリフに一種の拒絶や抑圧を感じ、なんだか「私はお前じゃなくてもいいんだよ」と言われたような気分になってしまったのだった。

ただ、じゃあ、私がそれに対して何か反論をしたのかといえば、答えはNoだ。結局、行き場のないモヤモヤをなかったことにして、「変わらないんだ。じゃあ、まあ仕方ないね」と、消化不良のまま喧嘩が終わった。

本当のことを言えば、私は多分ショックの原因に気づいていた。でも、伝えるという選択肢が頭になかったゆえ、言葉にしようという気力すら残っていなかったのだ。

最近読んだ本に、人間関係からくるストレスの対処法として、以下のようなものがあった。

“「遠慮」で自分を抑えるのではなく、「配慮」しながら意見を述べる”(古川聡『宇宙飛行士に学ぶ心の鍛え方』より)

遠慮すると、仕事だけではなくストレスも溜め込んでしまう。それは結局自分だけではなく、まわりまわって周囲に迷惑がかかる、という話で、自分のコミュニケーションを省みるのにも大変役に立った。

たとえば、「こんな些細なことで連絡したら迷惑かな」と、つい仕事の進捗報告を躊躇してしまうときがある。ただ、自分が依頼する側になればわかることだが、よほど仕事がバリバリにできるキレ者でもない限りは、逐一、拙い言葉でもいいから連絡がほしい。連絡をくれないひとほど、なぜか納期まで破ったり、誤字脱字だらけの難解なものを納品してきたりする。だったら、途中で相談の場を設けてほしいのだ。

これは正直、自戒もこめて振り返ることではあるのだけど。結局は、相手に配慮しているように見えて、「こんなつまらないことで連絡をする奴だと思われたくない」とか、「面倒臭そうな対応をされたくない」とか、そういう自分本意の思考に陥っていることに気づく。

そもそも、「こんな連絡を相手は受け止めてくれないだろう」と低く見積もっている時点で、だいぶ相手に失礼な話なのだ。

では、かつて友達と喧嘩をしていたときの私はどうだったろう。たぶん、「こんなことを言っても相手は理解できないだろう」とか、「わかっても相手には変わる力がないだろう」とか、そういうことを考えて遠慮をしていたはずだ。

「私は変わらない」と主張して押し付けることは暴力だし、相手の存在を無視しているという時点で侮蔑だ。しかし、歩み寄る努力もせずに、相手のことを低く見積もり遠慮することも、立派な侮蔑ではないか?

結局私は侮蔑に対して侮蔑で返していた。子供だったなあと思うと同時に、この歳になっても、まわりには同じようなことしてるひとはたくさんいるなあとも思う。

相手を尊重し、遠慮せずに配慮する。たぶんこれだけで大概のコミュニケーションは円滑に進むのではないだろうか。

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