私に、慈悲の心を

最近、毎朝している瞑想を、“観察瞑想”から“慈悲の瞑想”に切り替えた。観察瞑想とは、簡単に言えば、心に去来するものをただひたすら傍観していくもの。慈悲の瞑想は、自分および万物の幸せを祈るもの(Google社の慈悲のプラクティスというプログラムとほぼ同じらしいですね。見たことないので知らないですが)。

高校時代になんとなく始めてコツをつかみ、気分が向いたときにやる程度のまま今この歳になり、最近になって仕事にいい影響をもたらすことを実感し、毎朝の習慣にするようになった。

瞑想というのは、端的にいえば、自分と向かい合う時間だ。自分と向かい合う、響きだけなら簡単そうだけど、それって自分を目の前に置くということ。つまりは、自分を限りなく客観視するということだ。

目を閉じ、呼吸に意識を向け、湧き上がる思考や外界の音を、ただひたすらに傍観する。自分の思考というのは、自分が考えるために考えているのではなく、自然と湧き上がってくるものなのだということをそこで実感する。

そして、自分は思っている以上に自分に厳しく当たっているということを知る。瞑想中に意識が別のところにいっていたりすると、「なんでちゃんとできないんだ」と自分を責める声が湧き上がるのだ。

何かを失敗したとき、失言をしたとき、思っていたよりもうまくいかなかったとき、私たちは自分に、知らず知らずのうちに「なんてダメなやつなんだ」という刻印を押している。「そんなことをしてはいけない」「そんなことを言ったら嫌われる」「こうすべきなのに(私はできてない)」……。

しかし、もし他者が同じことをしたとして、あなたや私はそんなにも目くじらをたてて怒るだろうか。多少「なんだあいつ」とか「許せないな」と思っても、それによって相手の存在を抹消するほど怒ることもなければ、大概が、(自分に対してよりは)比較的穏便に受け流すのだ。もしくは諦めてしまう。

前回、自分をお粗末に扱うな、という話を書いた。これは、そのままこれにも当てはまる。意外と私たちは自分を大切にしているようで、お粗末に扱っていることが多い。自分だからといって辛く当たる必要もない。「自分」を客観視して、「自分」の幸せをまず祈るのだ。

自分のいいところはまるで答えられないのに、悪いところは無限に出てはこないか? 「無理しなくていいよ」と言われたとき、必要以上に救われた気持ちになってはいないか? 知らず知らずのうちに肩に力が入ってはいないか? どこか後ろめたく怖気づいてはいないか?

「自分」とは、あなたや私の目の前の相手や、通りすがりのひと、嫌いなあいつ、大好きな両親、テレビで笑いをとる芸人、遠く海の向こうにいる彼ら、と同じ存在なのだ。自分だけが特別ではなく、自分だけが許されないわけではなく、自分だけが孤独を感じる必要もない。

まずは、自分の幸せを。虐げられる自分に気づき、慈悲の心を。

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