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「定型と発話、叙景と記録」

千種創一『砂丘律』評
吉田恭大

また言ってほしい。海見ましょうよって。Coronaの瓶がランプみたいだ。
もう服も乾いただろう、行こうか Perrieの瓶へ吸殻おとし

双子のような二首を挙げる。それぞれ他者からの呼びかけ「海を見ましょうよ」、他者への呼びかけ「行こうか」を起点に、一首が成立しており、それが定型に落とし込まれた際に句跨りや破調として存在感を主張する。

韻律を撓めて主張される個々のフレーズは、それを詩語として持ちこんだ作者の視点を感じずにはいられない。

あっ、ビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の

さらに複雑な構造の歌。敢えてシーンを想像してみよう。
携帯電話で海の写真を撮ろうとしていた「君」が、設定を間違えていて、その一瞬だけ撮影されてしまった「短い動画」。
偶然残された記録であるということ。それを一首が記憶として再生しつづけ、作品化される。

定型に先行して挿入される発話。それに加えて、歌の情景に先行して引用される記録が、歌集には頻出する。

 茄子にぎる手の映りこむ一枚は朝だとわかる すごくありがとう
 かろうじて氷と読めるお祭りの写真でだいぶ記憶が尖る
 一葉の写真のせいで組みなおす鳥居と鳥居の後の写真を

引用される記録。どれも撮影された情景そのものではなくて、それを見ている側の感情に重点が置かれている。
読者は記憶を追体験することなく、記録によって呼び起こされた、主体の感情を提示されているに過ぎない。

 防犯カメラはしらないだろう、僕が往きも帰りも虹を見たこと
 ぼかしたら油彩のようになる畦を君と歩いたではないですか
 冬の淡い陽のなか君は写真機を構えてすこし後ずさりする

「防犯カメラ」という匿名の視点。君と共有するための「油彩のように」という比喩。「写真機を構えて」いる景そのものを歌にする、入れ子のような構造。
感情的な情景そのものを詠むのではなく、記録から感情を呼び起こす、その過程を見せる。それにより全ての景は過去になり、それを掬いあげ、眺める作者の手つきが現在の読者に提示される。
それは一見客観的な記録のようでいて、歌の中では作者のエゴのもと、どこまでも主観的な記憶になる。

瓦礫を背に男が叫ぶ映像のなかに降りちる落葉みている
予備役が招集されたとテロップの赤、画面(ルビ:モニター)の下方を染める
開花でも語るみたいに戦線は小さな動画に北上をする

 中東の情勢を詠んだ歌にも、同様の手法が多く取られている。ここでも、ニュース映像の記録としての生々しさではなく、それを扱う作者の意識に注目したい。短歌は現実の切片であり、現実もまた短歌の切片なのだから。私たちは本来それだけで、十分すぎるほど感傷的だ。

で、どつちがリアルだと思ふ。ここからの街のあかりとこのたばこ火と

(塔2016年5月号掲載より加筆修正)

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