ディテールの積み重ねと画面が地味な題材を強烈にドライブしてゆく 〜 アルフォンソ・キュアロン監督「ROMA/ローマ」

下高井戸シネマで「ROMA/ローマ」観てきた。「ゼロ・グラビティ」を撮ったアルフォンソ・キュアロン監督、2018年。オンライン配信のNetflixが配給した作品としても話題になったが、これはまたすごい映画であった。

ディテールの積み重ねと画で、きわめて地味に思える題材を強烈にドライブしてゆく。どのシーンも写真作品のようだ。

映画音楽はほぼなく、場面でかかっている音楽や環境音がBGM的に重なる。「メロンの気持ち」をレコードでかけ、みんなで並んで踊るシーン。

背景で一つの動きがあり、前景でもう一つのドラマが演じられるという二重進行の構図が多い。鈴木清順「野獣の青春」でスクリーンの手前で宍戸錠がヤクザと渡り合うシーンを思い出すが、清順に限った技法ではないだろう。なんと呼ぶのだろうか?

「ROMA」というタイトルの意味が分からず、イタリアを舞台にした映画かと思って予備知識なく観ていると、スペイン語を話しているし、ヴェラ・クルスなどの地名が出てくるので違うことに気づいた。スペイン語で別の意味があるのかとも思ったが、そうではなくてメキシコの地名であり、おそらくその他の意味も込められているらしい(参考記事:【Netflix】映画『ROMA/ローマ』──タイトルの意味、そしてメキシコ人にとっての『ROMA』とは)。

現代の作品なので、人種差別などもっとシビアなシーンが出てくるかと思ったが、抑制されている。監督個人のノスタルジーがベースになってるせいもあるのだろう。

これは昭和30年代邦画に近い、倫理的表現の枠組みともいえる。どうも、左幸子の顔が連想されると思ったら、これはまさにメキシコ版「女中ッ子」(1955年、田坂具隆 監督)である。

キュアロン監督が「女中ッ子」観ているのかは分からないが、日本フリークのギレルモ・デル・トロ監督と交流もあるようなので、可能性はゼロでもなさそうだ。

もうひとつ連想されるのは、「エンドレス・ポエトリー」などアレハンドロ・ホドロフスキーの自伝的近作である。こちらはチリである。

ともかく2時間強の尺が全く苦にならなかった作品。機会があれば再見してみたい。