アンチロマン的ヤクザ映画の可能性

いま、シネマヴェーラでやくざ映画特集「滅びの美学 任侠映画の世界」やっていて、ひととおり観てきて フィクションは現実社会では実現されにくい問題の願望充足であるという立場に立ってみるならば、ほんとに絶望的な気分になる・・・ 50年近く経過して いまだにその状況が変わっていないことが暗示されるからだ

多くのやくざ映画では、先代から引き継いできたシマを守る古い気質の親分が主人公の「親」であり、古いシマを潰して新しい商売で利権拡張しようとする新興ヤクザが、汚い手を使って古い親分と組を取り込もうとする まあパソナ=竹中平蔵が自由化の目的で「既得利権」を解体してゆくのと同じような構図 やくざ映画で「新興勢力」として、土建業者とからんだ新興ヤクザが官僚や政治に食い込んでゆくレントシーキングのような動きが描かれていることが多い(ここらへんたぶん先行研究あるだろうが未確認である、ご教示を乞う。とりあえずメモ)

これらのヤクザ映画が60〜70年代興り、大衆にウケていたということは、現実面で「よい保守」が失われてゆくことに対して、せめてフィクションの世界で溜飲を下げたいというニーズが非常に強かったという可能性がある 三島由紀夫が共感したのもその一端だったのかも

しかしヤクザ映画のカタルシスは、けっきょく「カチコミ」つまりテロリズムでしか解決されないシカケになっており、おそらくそういった極端かつ非現実的な解決策しかありえない、ということは、オーディエンスには現実的な解決策がなかったという無力感の裏返しであったのだろう

当時若い全共闘世代がヤクザ映画に喝采を送っていたという話もきくが、彼らは無力感はあまりなかったように思われる すると現在の異世界勇者ものにあるような「チート設定」ファンタジイに近い、全能感を疑似体験するための装置としてヤクザ映画を体験してたのかもしれない。そのメンタリティももう少ししらべてみたい

しかしだれもが「カチコミ」で物事が解決することを現実でも望んでいたのだろうか 地道で持続的な解決をはかる、アンチロマン的ヤクザ映画はなかったのだろうか

少し前の時代には、黒澤明「生きる」は官僚の立場から「自らの死をひきかえに社会を少しだけ変える」物語であった ほかにもあるだろう 現在では「解体屋ゲン」がアンチロマン的ヤクザ映画に近いターゲットを持っていると言えるかもしれない(この作品はたくさんのテーマを抱えているのでそれだけに限定されるものではないが)

現実社会での無力感や手詰まり感 50年以上変わらないメンタリティなどををみても これは非常に困難なテーマである しかしそれゆえいまだに未開拓のまま残されている分野だろう