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分断を乗り越えるために

2019年、個人として最も大きなイベントは、海外に出て共同生活を始めたことだろう。

私は夏から約半年間、デンマークにある成人教育機関フォルケホイスコーレに滞在している。中でも私が通う学校は30以上の国から100人ほどの生徒が集まる、デンマーク唯一のインターナショナル・フォルケホイスコーレだ。国籍だけでなく年齢も性別もバラバラな生徒たちが、寝食を共にしながら学んでいる。

異国の地での生活、ダイバーシティーの学校で学んだのは、人間は多面的で、みんな違うことだ。

国籍だけで語れない個人

学校では異文化理解にフォーカスしたクラスがあることに加え、日常会話のなかで「この話題に対して日本ではどう考えてるの?」と聞かれる場面がよくある。お互いの国の文化や状況をシェアして、全然違うなあと驚いたり、そういう考え方もあるのかあと感嘆したりする。

そのような場において、私は「日本人であること」(もしくはアジア人であること)を自然と意識する。今まで無意識にとっていた行動・言動が「日本人らしさ」を体現していたのかとハッと気づかされる。

同じ言語を使い、似たようなシステムで育ってきているのだから、日本人として共有している文化やマインドがあることは確かだ。でも、ズームインして物事を見てみると、同じ日本人でも感じること、体験してきたことはかなり違う。

なのに時々、他者から期待される「日本人像」に自ら合わせにいってしまう自分がいて、なんだかなーと思っていた。私は言うほどお寿司が好きではないし、組織の上下関係に順従でないタイプだし、結構自分勝手にキャリアを歩んでいるほうだ。

置かれる環境によって自分を測る物差しは変わっていく。それは仕様がないことなのだけど、自分が"大きなもの"に内包されてしまうことにムムム…と感じてしまうのだ。

この違和感は、学校の外でもよく感じた。むしろ、外の世界の方が残酷に、現実を突きつけてくる。

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とある休日、ヨーロッパの国へ週末旅。

友人と入ったバーで同じ席になった女性が、真向かいの私に向かって一言。「私は日本人が嫌い」と言い放った。

目の前にドーーンと、超えられない壁を建てられた感覚。全身がこわばって震え、そこからはすべての言動が挙動不審になった。

「私」という個人を見ようともせずに「日本人」というトンデモなく大きな括りに飲み込まれたことが不条理で、なんとも言えない無力感に包まれた。
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よくよく話を聞くと、政治がらみの問題ではなく、プライベートで日本人とうまくいかなかったトラウマが背景にあったそうだ。彼女にとって、目の前にいる人間が日本人だったことは大きな問題だったのかもしれない。でも、国籍という要素だけで全体最適化して一人の人間を判断するのは、少々傲慢なのではないだろうか。

「分かりやすさ」の弊害

上の例はかなり極端だが、私も色眼鏡で相手を見てしまうときがある。自分が抱いていた○○人のイメージから外れると驚いたり、勝手に残念に思ったりする。その時、「ああ、私は自分の基準で相手を判断していたんだな」と自覚する。

なぜ、人を容易にカテゴリライズしてしまうのか。理由はシンプルで、いちいち頭や心を使わずに済むからだ。自分が知っているパターンで相手を認識すれば、簡単に相手を分かった気になれる。

ただ、この分かりやすさには弊害がある。国籍や性別、世代といった大きな括りにカテゴライズすることで、背景にある細かい文脈が削ぎ落とされてしまう。

「○○人だからこうであるはずだ」
「女(もしくは男)だから、その道を進むべきだ」
「この世代はチャレンジを嫌う」

一度こういう先入観に取り憑かれてしまうと、目の前にいる個人をまっさらな眼差しで捉えるのは難しい。国籍、性別、世代を超えて分かり合えるかもしれないのに、寄り添うプロセスをすっ飛ばして「あなたはこうだよね」と決めつけてしまう。なんてもったいないんだろう。

最悪の場合、「あの人は私と違う世界の人間だから関わらない」という極端な考えに行き着き、分断をもたらす。もしかしたら、その先に美しいドラマが待っているかもしれないのに。

私たちは何層にも重なった文脈のうえで生きている

一人の人間は思っている以上に複雑だ。誰もが生きていく過程でいろんな所属を持ち、肩書きを身につけては脱ぎ捨てていく。

△ こんな風に、個人の中でアメーバ上に文脈が重なりあっているイメージ

私たちは縦軸と横軸をひいて4タイプに分けられるほど二次元で生きていないし、ましてやたった一面で切り取ることなんてできないのだ。

よく考えれば当たり前のことなのに、悲しいかな、いとも簡単に忘れてしまう。自分が持っている枠で誰かを決めつけてしまうことも、他人の枠で判断されたことが「自分のすべてだ」と思い込んでしまうことも、日常レベルでよくあるのだ。

「みんな違う」を前提に、みんなの居場所をつくるには

それでも、出来るなら多くの人と分かり合いたいし、一人で成し遂げられないことをみんなで肩を組んで叶えたいとも思う。

そのためには、みんな違うーー まずは、その大前提を一人ひとりが理解する。自分が持っている色眼鏡を外すことができたら、個人の声に耳を傾ける。簡単なことに聞こえるかもしれないけれど、これが意識しないと、けっこう難しい。

冒頭に話を戻すが、私が滞在しているフォルケホイスコーレでは国ごとの文化を理解することはもちろん、何より個人へのリスペクトを大事にしている。その活動を一つ、ご紹介したい。

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学校で数回、「ライフストーリー」という時間が設けられている。10人ほどのグループで円を作り、出生から今までのストーリーを一人ひとり順々に共有する場だ。

どんな場所で生まれて、家族とはどのような関係で、学校生活で何を大切にして、将来をどう見据えているのかーー。

話し手以外はただ耳を傾け、その人の一生に想いを馳せる。話が終わったら、その人に対して一つ質問をする。

一人ひとり全く異なる道を歩んできているけれど、将来の夢が不透明で悩んでいること、学校での偏差値競争にウンザリしていること。国、年齢、育ってきた境遇は違うのに、話を聞くと結構似たような悩みを持っていることに気づく。
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個人を立体的に、さまざまな切り口で眺めたとき、自分と相手との間に小さな小さな重なりが見えてくる。相手と私は違うけれど、角度を変えれば同じ悩みや、同じ喜びの沸点を持っている。それに気づくことができた時は嬉しくて、もっと相手を知りたくなる。

この体験を与えてくれた学校には感謝しているし、私にとっては確実に大きな気づきだった。

自分や誰かを第三者に説明するためには、日本人だとかどこぞの所属だとか、そういう表現は便宜上これからも必要だろう。ただ、一人の人間として、色眼鏡を取っ払っていろんな視点で相手を見つめていきたい。

純粋な好奇心こそ、分断を乗り越える一歩だと私は思っている。

本記事は、「書く」を学び合い、「書く」と共に生きる人たちの共同体『sentence(センテンス)』で開催中のアドベントカレンダー企画にて、2019年の振り返りをテーマにした記事です。
#書くと共に生きる #2019年振り返り

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