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糸島ショローの今日もお散歩日和「海辺で猫の亡骸を見つけたら」

いつも海辺散歩のはずだった

昨日は朝から地域清掃でたっぷり肉体労働をし、けっこうヘロヘロな状態にもかかわらず、夕方には「海に行かねば」と思ったのだった。
なぜ「行かねば」と思ったのか?
いつもは「行こう」と思うだけなのに……。

あじさい公園近くの海辺から、裸足になって歩き出す。
サンダルはショルダーバッグに入れ、ジーンズを膝上までたくし上げて、波打ち際を歩く。
4時過ぎだが、海辺には初夏のような光景が広がっている。
親子連れが海の中でたわむれ、水着の若者もチラホラ見える。
今日は誰もいない海ではない。
いつものように、喜八荘に向かって、海辺を南下していく。
シーグラスがあれば拾い、タコ貝は落ちていないかと浜辺を見渡す。

スタート地点

こんなにきれいな海岸なんだもの、もっと人がいてもおかしくないと思う。
和歌山では海に近かったものの、海岸線を歩く体験はそう多くなかった。
ずっと望んでいたのはこの海岸線。
ジャック・ニコルソン主演の映画で、主人公が海辺で白い石を拾い集めるシーンがあった(と思う)。あの映画の海岸線が理想だった。
ここは、あれに近い。
もっとも福吉海岸には石はほとんどないけれど。

さて、人はどんどん減っていき、中間地点の流木ベンチ付近では、いつもの誰もいない海になった。
途中、波打ち際にやや大きめな物体が、波に洗われているのが見えた。
なんだろう?
「紋甲イカの大きいのも打ち寄せられることがある」とスジョン先生が言ってた。
「でも食べられない」
そうだよなぁ、そんなの拾って食べないわ、ワカメなら食べるけど。
トンビが上空から、何度か下降して、その物体を観察しているようだ。
まっ、いいか~、とそのときはやり過ごし、終点地点まで行った。

白い猫だった

疲れていたけど、やっぱり来てよかった。
今日という日の、この海は今だけだもの。
さぁ、戻って、猫たちにごはんを出そう。
引き返しながら、ふと、あの物体の正体が知りたくなった。
氣になったら見ずにはいられない。
「好奇心が猫をも殺す」というけれど、誰もいない波打ち際にあったのは体長60㎝程の白い猫らしき亡骸だった。
「らしき」と書いたのは、毛がほとんどなかったからだ。
しかし、しっぽの先はサマーカットの際のライオンしっぽ状だ。
海水で浸かったいた時間が長いのか、からだはパンパンになっている。
すぐに、どこかに埋めてなければ、と思った。
さっき、トンビが狙っていたのだ。
原因より、今やるべきこと。
まず、運ぶ手段だ。
漂流物が集まる、いわゆる吹き溜まりのような場所が近くにあった。
あそこに行けば、なにかしら運ぶのに適したものが見つかるはず。
サンダルを履いて、松林近くを物色することものの数分で、大きな割れた竹を見つけた。
これに乗せればいい。
長さ2mほどの竹をずるずる引きずって、浜辺の白猫まで戻る。

ワタシのお散歩バッグには、常にミニスコップ、グローブが入っている。
グローブをつけ、白猫を竹の上に乗せる。
タプタプした亡骸、よしよし、すぐに土に埋めてやるからね。
うまく乗った。
白猫を乗せた竹を引きずって、松の木の根元付近まで運ぶ。
たしか、ネットフリックス映画「ちひろさん」という作品で、主人公がカモメ?の死体を埋葬するシーンがあった。「死体を埋めると、妙にラーメンが食べたくなる」みたいなセリフがあったっけ。

ミニスコップで砂を掘る。
大きな亡骸なので、広く掘る。
あぁ、猫楠でも墓堀をやったなぁ……。
あそこの土は掘るのが大変だった。
砂浜は難なく掘れて、白猫の亡骸はみずみずしい状態のまま、埋めることができた。
砂土をかぶせて、上に太めの流木を置く。
最後に手を合わせて、仕事は終わった。

海辺という境界線


これをするために、海に来たようにも感じた。
呼ばれたのか、ジブン?

ひとまず、やれることはやった。
少なくとも見て見ぬふりはしなかった。
感情的なゆらぎはなく、どちらかというと、こうした事態に遭遇してしまう己はやはり猫と縁があるのかもしれないという感慨がのこった。

こうしたことを、特に驚きもなく、淡々と対処するのは、寺に育ったせいなのか?
浜辺のブリコラージュはビーチクリーンをやっていたおかげかも。
あの白猫については、これから情報が集まるかもしれないし、集まらないかもしれない。
いずれにしても亡骸がトンビにつつかれることないだろう。
うーん、これって自然界においては余計なおせっかいだったか?

そして、浜辺という境界線。
海と陸の境、2つの領域が交わる場所。
そこにかかわったことは、今後どんなふうに影響してくるのか?

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