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2/6 『昔話の深層』河合隼雄

おはようございます。
幼いころから昔話が大好きだった河合隼雄先生が、ユング派の心理療法家になったのは必然だったとしか言いようがない。
「人生はじぶんの物語を作ること」
本書を読むと、河合先生のこの言葉にいっそうの説得力が増す。

鈴木康司さんの絵が素晴らしい

しかし、それにしても幼いころから幾度も読んだお話がひとのこころの深層にかくもつながっているとは、このことである。
「なぜ、なぜ」と思っていたことがするりするりとほどけてゆく。
なぜ、ものぐさが成功をおさめるのか?
なぜ、母親は娘を殺そうとするのか?
なぜ、西洋と日本では「覗いてはいけない」対象が逆なのか?
なぜ、放浪の旅に出なければならないのか?

印象深い例をひとつ。
グリム童話『賢い百姓娘』から。
自我の内部でそれを豊かにする知識と、自我の存在を深く基礎づける知恵の比較です。

なぞなぞが出され、お金持ちと百姓娘がそれに答えます。
「一番肥えているものはなぁんだ」
お金持ち:ベーコン
百姓娘:大地
「一番甘いものはなぁんだ」
お金持ち:蜂蜜
百姓娘:眠り
「一番白いものはなぁんだ」
お金持ち:牛乳
百姓娘:太陽
「一番高いものはなぁんだ」
お金持ち:教会の塔
百姓娘:星

どうです、お金持ちの答えは間違いではないけれど、百姓娘の答えに比べると現実的。百姓娘は次元が違うんですね。

本の隅々までスズキコージワールド

もうひとつ、男性と女性について、興味深い説明がありました。
男女カップルの場合、それぞれの自我、それぞれの影、男女それぞれのアニマ・アニムス(男性にはアニマ、女性にはアニムス)が加わって、6人の男女の組み合わせとなる。
たとえばワタシ南里本人、そしてワタシの影(無意識と考えていい)、南里の中のアニムス(男性性)と、同様に相手側の3者ということですね。
そりゃ複雑になって当然と思いませんか。
こういうことは中学生くらいのときに教えてほしかったわ~。
本人だけかと思っていたら、あと2人もいたんですね。
そうゆうことか、と腑に落ちること山盛りです。
65歳で知っては遅すぎる、ハハハ。
昔話の中にはこういう要素が含まれているんですって。
だてに語り継がれているわけではない。

最終章にあった言葉も、これから生きていくのに励みになりました。
日本人は自我の確立という点で、 西洋人より劣っているにしても自己の存在を知ることにおいては勝っていたと考えるならば、 自我と自己の関係は日本における人間と自然の関係と同じく、対立することなく 共存するものとしてあり 、曖昧な中に存在する統合感のようなものによって保たれていると見ることができる。

これだけ読むと、ちょっと小難しく感じられるかもしれませんが、ぶっちゃけ、日本人の欠点として指摘されがちな曖昧さとか自我のなさが、実は案外深いところではいいバランスをとってるのかもよ、ってことですね。
世界中を股にかけて活躍されていた河合先生が、よその国の方に「日本人はこういう特性があるんですわ」と説明されているシーンが目に浮かびます。
ユング研究所で学ばれても、ユング手法をそのまま日本に持ち込まなかったところに、河合センセの面目躍如たるものがある。
「わかりまへんなぁ」
が生涯の口癖だった河合隼雄。

ニンゲンはそうそう簡単に分かるもんではない、と。
知識を積み上げ知恵を深めるほどにその思いは強くなっていったのだろうと。
分からないからオモロイのです。

分かったふうのことを言うヒトからは距離を置く。
コレが最近のワタシのスタンスでもあります。


▼ここから余談

昨日は『ベルサイユのばら』第2巻で3度涙をぬぐい、部分的に記憶していたものの、あれ、こんなにあっけなくオスカルもアンドレも死んでしまうの、という感がぬぐえませんでした。どうもここ最近の映画ドラマにおいて、不死身の主人公に慣れてしまった弊害かと。

華流『風起隴西』24話も完走しました。面白かったけれど、スパイの攻防が超複雑でした。なにより問題は顔の判別がつきにくく、途中から「チェン・クンを鑑賞するだけにしよ~」と視聴目的を変更せざるを得なかった。また見るかと言われたら、「もうけっこう」。とはいえ、チェン・クンはシブくてかっこよかった。どんな役柄もこなせる俳優さん、「永遠の男神」といわれるだけある。
そして「14日間無料」という●mazonの姑息なサブスク作戦にも負けず、視聴完走後に即「継続しない」設定にしました。
この設定が簡単に見つけにくい仕組みになっている。「カード引き落としの連絡なし」という危険な戦略、●mazonにはさんざん煮え湯を飲まされているのでワタシもだいぶ慎重になりました。

ではでは、今日もご機嫌元氣な1日を。

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