批評再生塾道場破り−『もししがないサラリーマンが東浩紀の『ゲンロン0-観光客の哲学』を読んだら』

 三浦半島のガイドブックを手に取って本屋のレジに向かうと、目を引くタイトルの本が平積みにされているのに気がついた。『ゲンロン0-観光客の哲学』。観光客の哲学だなんて仰々しいなぁ。観光地ではこのようなことを考えるべきだと書いてあるのだろう。えー観光地に行ってまで色々考えたくない。忙しい中で時間を作ってようやく作った余暇なので、愉快なことをしていたい。それに今はその時間も作れないからガイドブックを読んで気分だけでも観光したつもりになろうと思っているところなのに。それでも「観光客の哲学」という言葉が心に引っかかる。この本を読めばより深く観光を楽しめるかもしれない。そして手が『ゲンロン0-観光客の哲学』に伸びていく。

 2010年から2011年に掛けて1つのブームが発生した。ドラッカーブームである。そのきっかけになったのは2009年末に出版された『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』。ドラッカーのマネジメントに従って組織化された野球部が勝ち進んでいく物語が描かれ、表紙や挿絵にはアニメ調のキャラクターが描かれている本である。物語はとてもベタである。そしてあまり実践的でもない。ビジネス書のカテゴリーでありながらラノベみたいな内容なのだ。私がAmazonで買った中古の本には、ジャンル:ラノベと書いてあるシールが貼られていた。多くの人がこの本をラノベとして受け取っていたということだろう。アニメ化もされ、かつてAKB48に所属した前田敦子主演で映画化もされた。そして『もしドラ』という言葉と共にドラッカーは世の中に浸透していった。それはドラッカーを小難しいものから平易なものへ、一部の人のものから一般の人のものへと変化させていくことになった。その結果、ドラッカーの関連セミナーが増え、ドラッカーの関連書籍も増え、ついにはコンビニの棚にまで置かれるほどの広がりを見せた。
 『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』の著者は岩崎夏海。執筆時の彼は小説家ではなかった。そしてドラッカーの研究者でもなかった。2005年から2007年までAKB48のアシスタントプロデューサーを勤めていた人物である。もう一度言うが、この本の物語は、体の弱いマネージャーが途中で死んでしまいその死への手向けのために勝利を目指すというベタなものだ。そして野球部をチーム分けして責任分担をするのであるが、そこに具体的な記載がない。なのであまり実践的でもない。それでもチームごとに責任を分担して競わせるなどの記述からはAKB48ってこのように作ってきたんだなぁという実感を感じることができるのである。彼は自分の経験を元に門外漢のことについて情熱だけで無責任に描き切った「観光客」と言えるだろう。彼はドラッガーのマネジメントをラノベのように描くことで、ビジネスの世界とAKB48の浸透している世の中を繋いでしまった。そのような変革を起こしてしまった。『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』は「観光客」が世の中を変革した実例であると言っても良い。そしてこのような変革のことをドラッカーは「イノベーション」というのである。

 「イノベーション」とはまったく新しくものを生み出して変革を起こすことではない。今あるものに別の意味づけをすることで変革を起こすことである。そしてその「イノベーション」を「観光客」によって起こすことができることを『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』がすでに証明している。『ゲンロン0-観光客の哲学』で「イノベーション」を起こすには「観光客」が情熱を持って『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』のように書けば良い。そして私は批評を仕事にしていないしがないサラリーマン、つまり「観光客」である。それならば「イノベーション」を起こすことに挑戦してみようと思って書き始めたのが冒頭の段落の文章である。タイトルはもちろん『もししがないサラリーマンが東浩紀の『ゲンロン0-観光客の哲学』を読んだら』と決めてある。でも書き始めてはたと気がつく。すでに「観光客」が『ゲンロン0-観光客の哲学』について論じているじゃないかと。それも最強の「観光客」が。その最強の「観光客」とは誰かというと東浩紀本人である。
 
 『ゲンロン0-観光客の哲学』の目次を見ると、この本が観光客の哲学と家族の哲学の二章から構成されていることが分かる。この本を東浩紀がどのような視点で語っているかで分割してみると三つに分けられると思うのだ。
 一つ目は「批評家」の視点。これはいうまでもない。彼は『存在論的、郵便的-ジャック・デリダについて』や『動物的ポストモダン-オタクから見た日本社会』、『一般意志2.0』、『弱いつながり-検索ワードを探す旅』などの本を書いた批評家である。彼のメインフィールドは「批評」であり、世の中の人々が彼に抱くイメージは「批評家」である。では『ゲンロン0-観光客の哲学』の中での「批評家」の立場はどこに描かれているかと言うと、二章から四章の郵便的マルチチュードの解説あたりまである。ルソーを基点に始まる文章は、思想家の言葉を三段、四段と段階を踏んで客観的で平易な一般的な言葉に落とし込んでいくことで、とても理解しやすいものになっている。そしてその文章からは哲学者、思想家、批評家といった人々が世の中とどのように向かい合い、どのように言葉を生み出してきたのかということが色鮮やかに読み取れるのだ。「観光客の哲学」を考え出した東浩紀本人も当然その中に含まれている。
 二つ目は「観光客」の視点。これは四章の「観光客の哲学」とは何かを論じた後、それをどのように使っていくのかを論じている部分から家族の哲学を論じた最後までである。この部分では彼がホームとしている批評や哲学とは違う分野に踏み込んでいって、そこで知った内容を踏まえて新しいアイデアを披露している。とても熱のこもった文章だ。だがそれはちゃんと検証しきれていない主観的なものであり、納得はしづらい。「批評家」としての視点で描いたような染みこんでくるようなものではない。だが、熱意のこもった主観的な文章であるが故、東浩紀という存在を感じるものとなっている。
このように「批評家」の視点と「観光客」の視点で書かれた文章はかなり違う。「批評家」の視点を理性的な「人間的」の視点、「観光客」の視点を感情的な「動物的」の視点と言ってもいいかもしれない。相反する視点が一つの本で論じられているので、東浩紀は分裂しているという意見も出てきてもおかしくない。

 三つ目は「批評家」でもあり「観光客」であり、この世の中で生活している存在。つまり東浩紀という人間そのものである。人間の東浩紀はこの世の中で食事を取り、布団の中で眠り、ある時は批評を書くために徹夜をし、ある時は仕事の疲れを癒やすために旅行にも出かける。そしてある時は怒り、ある時は悲しみ、ある時は酔っ払って上機嫌になる。このような日常を生活している存在の視点をこの文章では「生活者」と命名して進めることとする。では、その「生活者」の視点とはどこにあるのか。それは一章と付論である。一章では一般的な意味での観光についてが語られている。それは「語るに値しない」と論じられてきた観光はそもそも啓蒙活動的側面を持っていたこと、そのうえで観光について改めて考えてみたいという宣言がなされている。そして付論には東浩紀が今まで何をやってきたのか、そして『ゲンロン0-観光客の哲学』は今までやってきた著書たちの続編として書かれているという宣言もなされている。
つまり『ゲンロン0-観光客の哲学』は、東浩紀は「生活者」の視点で自己紹介とやりたいことを語り、「批評家」の視点で「観光客の哲学」を導き出し、「観光客」の視点で新たな気づきを見出そうという姿勢を見せている本である。それは東浩紀による思想の旅の半生を綴った自伝であり、私小説としても読むことができる。そしてそれは「批評家」が「観光客」になっていく様が描かれているので、「観光客」を扱った作品だということも可能であろうと思うのである。もし「批評家」で収まるのなら、「家族の哲学」は不要である。あえて未完成の「家族の哲学」を入れているということは、「観光客」とはこういうものだという姿勢を東浩紀自身が意図的に見せていると私は思うのだ。
 『ゲンロン0-観光客の哲学』は最強の「観光客」が書いた本である。もしそうであるなら、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』のように広まり、世の中に「イノベーション」を起こす可能性は充分にある。だがそれはやはり難しいなと思うのだ。それは多くの人が『ゲンロン0-観光客の哲学』を人文学の本として読んでいるからだ。それではやはり人文学に興味のある人にしか届かない。それに「観光客の哲学」というものを生み出した人物が、たとえ別の意味を見出したとしても、それは「イノベーション」という価値の再評価ではなく、価値の拡大なのではないかと思われる。「イノベーション」を起こせるのはやはり他者である「観光客」なのだろう。たとえ最強の「観光客」であっても、当事者である限り本当の意味での「観光客」にはなれないのである。
それでは『ゲンロン0-観光客の哲学』で「イノベーション」を起こすためには、どのような「観光客」が必要なのだろうか。それは三つの条件を満たした存在であると私は思う。まずは『ゲンロン0-観光客の哲学』を読んでいること。次は『ゲンロン0-観光客の哲学』をすごいと思っていること。最後は『ゲンロン0-観光客の哲学』のすごさを人に伝えようとすること。ごく当たり前の条件である。誰でもなれるじゃんと言われれば、そうだよ「観光客」には誰でもなれるんだよと私は思う。ブログやSNSに感想をあげることだって、読んだ上での解釈を語るのであれば「観光客」の行動なのだ。当然この文章も「観光客」としての行動の一つである。このようなあまたの「観光客」による活動の中から『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』のようなものが現れたら、世の中に「イノベーション」が起きるかもしれないのである。あれ、もしかするとこれが「郵便的マルチチュード」なのか。もしそうならドラッガーと東浩紀を接続することが可能じゃないか。そして「観光客」はイノベーションを起こす存在「イノベーター」でもあると言えてしまう。誤配かもしれないけれど「観光客の哲学」がビジネスの世界でも適用できる可能性が十分にあるということだ。「観光客」の可能性ってすごいなぁ。そのことにとてもワクワクさせられる。

 『ゲンロン0-観光客の哲学』を読み終えて、観光したい気分がよりなってきた。観光とは今いる場所とは違う場所に行くことだと思っていたけれど、それだけではなかったんだ。本を読み、人の話を聴く。これもまた観光なのだなと。そういえば色んな業種の人が集まるセミナーに参加した時、他の業種の人の話を聴いた話はとても楽しかった。人に触れるというのもまた観光なのだ。だからもっと踏み込んだ観光をしてみたい。なので五反田にやってきた。東浩紀の行っている批評再生塾に行くためだ。もっと色々聴いてみたい、知ってみたい。その衝動に突き動かされて聴講生として参加することにしたのだ。なぜ聴講生かと言えば、お金がない、時間もないというのが大きな理由なのだけど、「観光客」という立場を担保したいなぁというのも実はある。出席も提出も強制されない無責任な立場で、先生方の話を聴く。そしてその話を無責任に理解をしていく。そして自分なりの新たな発見をするということを楽しみたいと思う。そしてそれらの体験をブログに書いてみようかな。「観光客」だからこそできることは色々あるはずなのだ。なので、色々と遊んでみようと思う。もしかすると、そこから何かが生まれるかもしれないのだから。

 

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