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【小説】時空の旅人

【時空の旅人】

ここはどこなのか、どうやって来たのか、まったくわからない。ただ確かに言えるのは、ここは私がまったく知らないところだということと、この幻みたいな世界には確かに人が生き、生活しているのだということだ。

 金の髪と青い目を持つその人たちは、これまで見たこともないようなきらびやかな服を身にまとっている。真っ白い壁、美しい装飾、どこまでも続く廊下にはふかふかで真っ赤な絨毯が敷かれている。 これは夢なのか。むしろ夢であってほしいとすら思えるのに、頬をひねってみても一向に目は覚めない。

 そんな世界で私は、彼と出会った――

少し黄ばんだ原稿用紙に綴られた物語をそこまで一気に読んでから、部屋に蚊が飛んでいることに気づいた須藤亜希は眉をひそめた。

「おばあちゃん亡くなったよ。遺品整理してるから、亜希もきたら」

そう母から連絡を受けて実家へ帰ってきた。就職を機に家を出たのは3年前だが、祖母の部屋に入るのはもう思い出せないくらい久しぶりだ。亜希が家を出るだいぶ前から体調を崩し、病院や施設を行ったり来たりしていた祖母が最後にこの部屋で微笑んでいたのを見たのは、いつだっただろうか。もうはっきりとは思い出せなかった。

部屋を見回すと、薄く埃をかぶったダンボール箱や本などが目につく。その中でひときわ目を引いたのが、この部屋にはひどく不釣り合いに見える陶器の器だ。他のもの同様に埃っぽくなってはいるものの、それでも祖母が最後まで手に取って眺めていたもののように思えた。いつも祖母が座っていた場所のすぐそばに置かれていたせいかもしれない。

それは全体的にまるみのある形をしていて、蓋のようなものがかぶせてある。何かを入れる容れ物のようだ。その蓋らしきものをそっと持ち上げると、中には蚊取り線香の燃えカスが残っていた。

「ちょっ、おばあちゃんてば! これ、蚊取り線香入れじゃないでしょ!?」

まさかこんな仰々しい陶器の容れ物から、蚊取り線香が出てくるとは。亜希は思わず吹き出していた。

ひとしきり笑った後によくよく眺めてみると、品の良い薄紫色をベースに、ところどころ金色の装飾が施されている。どことなくやんごとなきオーラを醸し出しているこれは、おそらく“香炉”だろう。これとは形も模様もまったく違うが、友達がお香にハマっていたときに見せてもらった覚えがある。それと似ているのだ。もちろん、蚊取り線香を置くためのものでないことは確かだった。

いつも柔らかく微笑んでいて、でもちょっぴり天然で……。祖母なら、立派な香炉に蚊取り線香を置いて使うくらいのことはしてもおかしくない、そう思えた。亜希は祖母が大好きだった。体調を崩してからは顔を合わせる機会も減ってしまったが、子どものときなどは特に、しょっちゅうこの部屋に遊びに来ては話し相手になってもらったものだった。

祖母と過ごした子ども時代を思い返すと、自然と頬が緩む。確かに祖母はお話を作るのが好きで、亜希を寝かしつけるときにはよく自作のお話を聞かせてくれたものだった。もっとも、こうして物語を書き溜めていたことは知らなかったけれど――と、何年も一緒に住んでいた祖母の秘密を今更になって知ってしまったようで、亜希はどこかくすぐったいような気持ちがしていた。

耳元では時折ぷうん、という蚊の飛ぶ音が聞こえるが、姿が見えない。亜希は部屋に置かれていたダンボール箱の中から蚊取り線香の缶を見つけると、そこから渦巻きを1つ取って香炉にセットし、火をつけた。途端、もくもくと白い煙が立ち上り、懐かしいにおいが部屋いっぱいに広がる。

――子どもの頃の、夏休みのにおいだ。

懐かしさに目を細めながら、うっすらと香炉に積もった埃を手ではらうと、さらに綺麗な薄紫色があらわれた。最後の仕上げにふっと息を吹きかけたその瞬間、亜希の目の前は真っ白になり、空中に放り出されるような浮遊感に包まれていた。



「なんか変だ」と思った次の瞬間には、どん、というお尻への衝撃が襲ってきた。どこか高いところから落っこちて、尻もちをついたようだった。

――って、え?

あたりを見渡すと、見たこともない光景が広がっている。ついさっきまでいたはずの祖母の部屋ではもちろんなく、かといって今まで来たことのあるどの場所にも当てはまらない。突然の出来事に、亜希はしばし身動きが取れずにかたまっていた。

真っ白な壁、重厚な扉、きらきらと輝くシャンデリア、毛足が長くふわふわとした真っ赤な絨毯。お城のようだ。直感的に亜希はそう感じたが、本物のお城に足を踏み入れたことなどもちろんない。なんとなく、あくまでもイメージ上のお城みたいな場所だと感じた。

そこまで考えてからふと、つい最近こんな場所を想像したことに思い当たる。そうだ、祖母の遺した原稿用紙。『時空の旅人』とタイトルがつけられた物語の舞台とよく似ているのだ。

だからこんな夢を見たんだ、きっと。亜希はそう思い込もうとした。これが本当に夢なのか自信は持てなかったけれど、そうとでも考えなきゃ辻褄が合わない。さっきまで確かに、おばあちゃんの部屋にいたんだ。それがどうして、こんなことに……。

そのときだ。扉の外から足音が聞こえてきた。急いでいるのか、かなりテンポが早い。

亜希は咄嗟に、部屋の隅に身を隠した。幸いにもこの部屋は物置にでもされているのか、人が日常的に使用している気配はなく、その代わりにたくさんの荷物が積まれていたので、身を隠すにはちょうどよかった。

亜希の予想した通りに部屋の扉が開けられ、最初に金髪の男性、遅れて女性が入ってきた。先に入ってきた男性が身につけているのは、まるで映画に出てくる王子様みたいな服。ベルベット素材というのだろうか、上着は光沢のある起毛素材を使った燕尾服で、襟元には豪華な金色の刺繍が施されてきらきら光っている。亜希のいるところから顔はよく見えないが、日本人らしい顔立ちでないことは確かだった。それに対して、後から入ってきた女性はやけに日本的だった。真っ黒な髪を低い位置で1本のおさげにまとめて、やけに丈の長い生成り色のワンピースを着ている。デザインは妙に古めかしい。しかしそれよりも亜希の気を引いたのは、その女性自身だった。

――あの人、どこかで見たことあるような……

もっと女性の顔をよく見ようと身じろぎした瞬間、男性の切なげな声が部屋に響いた。

「……アキ」

亜希は思わず手で口元を覆う。息が止まるかと思った。けれど男性は亜希の方を見る素振りなどこれっぽっちも見せず、代わりに目の前にいる女性を熱っぽく見つめている。「アキ」と呼ばれた女性もまた、潤んだ瞳で男性を見つめ返していた。やがて2人はどちらからともなく抱き合い、男性はまた同じ名前を呼ぶ。

「アキ……どうしても行ってしまうの?」

「……ええ」

「ずっとここに、ぼくのそばにいてくれないの?」

アキと呼ばれた女性は男性の胸をそっと押し返すと、その目をまっすぐに見て言った。

「言ったでしょう。ここに来るのは、これが最後。私には私の、あなたにはあなたの生きる世界があるのだから」

その目には涙がいっぱい溜まっていて、今にもあふれてこぼれ落ちそうだ。けれども迷いや揺らぎのない、確かな決意を宿した眼差しだった。てのひらで顔を覆っている男性の表情は読めないけれど、泣いているように見えた。肩が小さく揺れ、何かを押し殺すような息づかいだけが聞こえてくる。

「アレク、あなたのこと、大好きだった。たとえもう会えないとしても、ずっと忘れないわ。この世界であなたと出会えた奇跡を、おばあちゃんになるまで覚えているから」

“アキ”は“アレク”の胸に顔を埋め、背中にぎゅっと腕を回してぴったりとくっついた。まるで愛する人の香りを、体温を、鼓動を自分の体に刻み込むかのように。アレクは、そんなアキの髪の毛を優しく何度も撫でている。

「ぼくもきみが大好きだよ、アキ。きみが突然空から落ちてきたあの日からずっと、きみのことを想わなかった日はない。これからも、ずっとそうだろう」

「うん」

「本当に、もう戻ってこないの?」

「……うん。もうそろそろ、時間よ」

再び見つめ合った2人の頬には、涙が光っている。アレクはその長い指でアキの涙を拭い、そのまま顎へ滑らせる。そしてそのまま顔が近づいて、くちびるとくちびるがぶつかった。

「……アキエ。離れていても、ずっと愛しているよ。忘れない」

その瞬間、アキの姿がぱあっと光って、それを見たアレクが泣きながら何かを叫んで、視界がぐにゃりと歪んで――思わず、わたしは手を伸ばしていた。

「おばあちゃん、待って!」

――……最後の瞬間に目が合った“アキ”の顔には、大好きなおばあちゃんの面影があった。



再びお尻に痛みが走ったと思ったら、そこは祖母の部屋だった。窓の外はすっかり暗くなっていて、つけたばかりだったはずの蚊取り線香はすべて燃え尽きていた。

「……夢だったのかな」

つぶやいた瞬間、首筋に生あたたかいものが流れているのに気づく。涙だ。ずいぶんリアルな夢を見たものだ、そう自分を納得させようとしたけれど、あれは本当に夢だったのだろうか。

手の甲で涙を拭いながら首を傾げた亜希だったが、床に散らばっていた原稿用紙の最後のページを見て息が止まりそうになった。

――この不思議な香炉で香を焚き、ある手順を踏むと、時空を超えたここではない世界へ旅することができるんだよ。

さも大真面目なことを言っているような顔をして、骨董品店の主人はそう言った。私はまさかあ、と笑ったが、なんとなく興味が湧いたので香炉とお香を買って帰ることにしたのだった。 興味本位で主人の言った通りの手順を踏んだ私は時空の旅人となり、不思議な世界へ飛ばされた。

そしてそこである一人の男性と出会い、恋に落ちたのだ。

 けれど私があちらの世界に留まれるのは、香が焚かれている間だけ。時が来れば自動的に元の世界に戻ってきてしまう。私は彼に会いたいがために何度も時空を旅したが、所詮生きる世界の違うもの同士。結ばれることはないし、あってはならないことなのだと悟ったのだ。

そこで私は、恋心とともにすべてを終わらせることにした。
私には私の住む世界が、彼には彼の住む世界があるのだから。
お互いにとって、これが最良の方法だと信じて。

それでも、私は。彼を、アレクを、心から愛していたのだ。
あの幻のような不確かな日々のなかで、それだけがたった一つ、私の真実だった。

 須藤 秋江

今回のお題「旅」「蚊取り線香」

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