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大人になるって

わたしは昔からちょっとぽやんとしたところがある人間で、時にはそれはフリだったりもしたのだけれど、やっぱり基本的にはどこか抜けている。そういうタイプだった。

だから周りの人のことも、どちらかというと性善説で見てるところがある。まったくの善人だととらえるよりは、「嫌なところもあるけれど、こんないいところもあるじゃない。ほら、根っからの悪人じゃないんだよ」というとらえ方をする、というか。

そんな性格のせいか、若い頃はみんなとわかり合いたい願望が強かった。話せばわかる、だってみんな根っからの嫌な奴じゃないんだし、色や形は違っても同じこころを持つ人間なのだから、と。

そんなの幻想だ。頭をガンと殴られたような衝撃とともに、あるとき突然にその気づきは訪れ、そこからわたしは少しずつ「他人とわかり合う」ことをあきらめるようになった。よく言えば、ほどよい距離感を保ちながら他人と接することができるようになった。少しずつ、少しずつだけれど。

それによって格段に生きやすくなったことは認める。これが大人の正しい姿なのだなと確かに肌で理解した。それでも本当のことを言えば、ほんのひとかけらの寂しさは拭い去れない。ずっと。

自分を理解してほしい、相手の深いところまで知りたい。そのうえでお互いにわかり合いたい。わたしの中のどこかにまだ、そんな青い願望が残っているのだろう。そんなことは不可能だとも、無理やりしようとすればするほどこじれる可能性が高くなることも知っている。知っているから、その気持ちはもう外には出さないけれど。

誤解されたときに「そういうことじゃないよ」と声をあげることは、もしかしたら簡単なことかもしれない。現に若かったわたしは、そうやってお互いの理解を求めていたと思う。でも今はもう、そんなことをする元気はない。「うん、そうだね。ごめんね」と引き下がることの方がラクだと知っているから。引き下がった分、相手との距離を広げた方が生きやすいのだと知っているから。合わない人とはどうしたって合わない、わかり合えない人とはどこまで行ってもわかり合えないことを知っているから。

それが悪いとは思わない。ここ数年はむしろ積極的にそうすべきだと主張する声も多いし、他人の大きな声で消耗しやすいわたしにとっては、やっぱりそれが正解なのだろうから。

ただ少しだけ、「寂しいな」と思わないでもない。それだけだ。


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