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妻だけど、母だけど、恋をしました。(その4・最終話)

その3はコチラ


久しぶりにお酒を飲んだせいだろうか。
全身が熱く、ぼうっとする。

そんなほてったてのひらに置かれたタカの手は、ちょっとだけひんやりとしていて。
なんだか気持ちがいい。

(え、えっ?)

こんな状況、もう何年も陥っていない。

どう反応したらいいのかわからないし、もしかしたら夢なんじゃないの?

彼の手は少しカサついていて、それでいて男の人らしく、ゴツゴツと骨ばっている。

画面上で話していたときには絶対に感じることのできない、生きた人間の感触だ。



「思ってた通り。かわいい人だね、アイちゃんって」

タカが口を開く。はじかれたように、わたしは彼の顔を見る。

微笑んでいるけれど、冗談を言っているようではない。
頬がちょっぴり赤く見えるのは、お酒のせいだろうか。


「かわいいなんて。もうそんなトシじゃないって、わかってるでしょ」

好きな男に褒められて、イヤな気になる女はいない。
それでもこんな言葉が出てしまうのは、たぶん傷つくのが怖いから。

(年を取るって、臆病になるってことなんだな……)
と、わたしの中に亡霊のように生きている、「女」のわたしの声がした。


そうよ。年を取って、家庭を持って、守るべきものができると、臆病になるの。
若い頃のように、無鉄砲ではいられないの。


(じゃあ、どうしてここまで来たの?)

また、声が聞こえる。

(守りたいものを捨ててでも、欲しいって思っちゃったんじゃないの?)

うるさい。家族以上に大事なものなんて、欲しいものなんて。


(ない……よね?)

でも、現にわたしは家を飛び出してきてしまった。
他の誰でもない、この男に会うためだけに。



「アイちゃんがいくつなのかは知らないけど、そんなの関係ないでしょ」

タカが、手の甲にキスをする。

おとぎ話のプリンセスになったみたい。
胸が、トクンとはねた。

(こんなところに、キスされたのはじめてかも……)


生まれてはじめてネイルサロンへ行って整えてもらった指先。
品の良いピンクベージュをベースに、いくつかストーンを乗せてもらった。

おばさんの若作りに見えないように、家事のジャマにはならないように……
これが今のわたしにできる、精一杯のおしゃれ。

もちろん、夫はまったく気づいていなかったけれど。


「かわいい」

彼が触れる指先が、熱い。

心臓が、バクバクとうるさい。


夫との前にも、何度か恋はした。

けれどこんなにも熱っぽく、愛おしげに見つめてくる男を、わたしは知らない。

(こんなにまっすぐ見つめられたこと、ないよ…)


それでも、こんな状況でも、わたしの中の一部は妻であり母だ。

「これ以上はダメ」
と必死で訴えかける声が、遠くで聞こえる。

ーー聞こえるのに。

女のわたしは耳をふさいで、聞こえないふりをし続ける。


彼ともっと近づきたい、彼にもっと触れたい。
女の本能が昂ぶって、仕方がない。

誰か止めて、と思うのに、止まりたくない。こんな気持ちははじめてだ。



「そろそろ、出ようか」

わたしの気持ちを知ってか知らずか、タカは涼しい顔に戻って席を立つ。

「あ…う、うん」

あまりに突然すぎて、ちょっと間抜けな声が出てしまった。

(ドキドキが、止まらないよ…)

彼の触れていた指先が、まだ熱を持っている。

――足りない。もっと。

体が、そう言っているかのようだ。



店の外に出ると、タカはまるでいつもそうしているかのように自然に、するりと手を絡めてきた。

振りほどかなきゃヤバイ、このまま流されてしまう。
と思うのに、体は正直だ。
されるがまま、グッと体を引き寄せられて、彼の顔がすぐ近くにくる。


ふわり。


夫のものではない、今まで嗅いだことのない、”他の男”の香りに、クラクラした。


タカは一瞬まわりを見回してから、

「キスしてもいい?」

耳元でささやいた。

「……っ」


ダメ。

ダメだって、言わないと。

だってわたしには夫も、子どももいる。

でもどうしても、拒む言葉が出てこない。わたしは、このひとに、溺れてしまいたいのだ。

言葉に詰まって黙っていると、わたしを見つめるタカの瞳が、ほんのちょっとだけ不安げに揺れる。


けど、次の瞬間には

「その顔、ずるいな」

ちょっとだけ困ったように、そう言って。

そしてとびきり甘く微笑んで、彼はわたしにキスをした。


(…ああ)

やってしまった。

不思議と、後悔はない。

わたしはまるで、そうなることを望んでいたように、自然に目をつぶっていた。


(まるで、じゃない)

わたしは、タカとこうなることを望んでいた。

タカに触れてほしい、女として扱ってもらいたい。

その気持ちだけを抱きしめて、ここまで来たんだから。



夫とは、もう何年もキスなんてしていない。

決して嫌いではないけれど、夫はすでにわたしの中で、男ではない。


今触れているこのひとは、たしかに男の人で。

そしてわたしは、たしかに女だった。

妻でもない、母でもない。ただの、わたしという女だった。


タカの唇が離れると、お互いのまつ毛が触れるくらいの距離でうっすらと目が合う。

そしてもう一度、今度はさっきよりも強く、唇が押しつけられた。


――どれくらいそうしていたのか。

彼のたくましい腕に抱かれながら、彼のついばむようなキスを受けながら、このまま時間が止まってしまえばいいと願った。


帰りのバスになんか乗りたくない。

現実になんか戻りたくない。

女のままでいたい。


全身が、熱い。

奥の方から、熱が、感情が、あふれてこぼれそう。

それはもう何年も、忘れていた感覚だった。



タカの舌がぬるりとすべりこんできた。

その途端、わたしの中から欲情がこぼれだす。

彼の動きに必死に応えるように、わたしも舌を動かした。

あたたかくて、やわらかくて、すごく気持ちがいい。

このまますべてをからめ取られてしまいたい、そう思わせてくれる、ひたすらに甘くて、情熱的なキス。

理性が飛ぶ。

今すぐここで「抱きたい」と言われたら、躊躇なくブラのホックをはずせる自信があった。


ふと、

(たばこの味がしないキスだ……)

そう思った、瞬間。


脳裏に浮かんだのは、たばこをふかす夫と子どもの笑顔だった。

浮かんでしまったら最後、もう、引き剥がせない。

友達と旅行と言って出てきたわたしを、笑顔で送り出してくれた夫、子ども。

なのにわたしは今、何をしているの――?



「……ごめんなさい」

気づけば、タカの胸を押し返していた。

このひとに会いたくて来た。そしてわたしはこうなることを、この後起こるであろうことを、期待していた。

けれど――


「家で、夫と子どもが待ってるの。もう、帰らないと……」

タカが何か言いかけたような気がするけれど、わたしはもうそこにはいられなくて。

そのまま回れ右して、夜の街に向かって走る。

これ以上彼の顔を見ていると、みっともなく泣いてしまいそうだった。


(……ごめんなさい)

誰に?

わたしは誰に対して謝っているんだろう?


まだ熱を持った体と、脳裏にはりついた家族の顔と。

どこまでもアンバランスなこの状況に、いっそ消えてしまいたいと思った。



***


(いつまでも、女でいたいなんて……ね)

いつだったか、雑誌で読んだフレーズ。

『結婚しても、ママになっても、女の子でいたいもんっ!』

そう書かれていたのを、今になって思い出す。


(わかるわかる、とうなずいたものだったけど)

「ママ」は、本気で女になろうとしてはいけなかったのだ。

女になったら、男を求めてしまう。

見るだけじゃなくて、話すだけじゃなくて。

触れてほしいと、一つになりたいと思ってしまう、どうしたって。


(……ごめんなさい)

バスが無言で走る。

窓の外は、来たときと同じように真っ暗だ。

一線は越えなかった。

とは言えこれから一生、この罪悪感を心に住まわせて生きていかなくてはならない。

それでも……それでも。

(一度だけでも、会えてよかった)

わたしはどこまでも、愚かな女だ。


もう二度と、禁断の果実に手は伸ばさない。

けれど抱いた恋心は、たしかに本物だった。

思い出だけをそっとしまって、これからは慎ましやかに生きていこう。


(起きたら、もう全部いつも通り)

そうしてわたしは、ぎゅっと目をつぶった。

***



家に帰ると、笑っちゃうくらいに「いつも通り」だった。

子どもはもちろん、夫ですら、わたしが他の男と会っていただなんて微塵にも疑っていない。

安心すると同時に、なんだか腹が立つ。

(わたしにはもう女としての魅力がないと思ってるのね?)

だから不倫なんてできっこない、そうタカをくくっているのだろう。

夫はいつものように、換気扇の下でたばこを吸う。

(また部屋がヤニ臭くなるじゃない)

夫の吐く息はいつもたばこの匂いがして、不快だ。

とてもそばに行く気にはならない。

恋人だった頃は、その匂いすらも愛おしく感じたものだったけれど。

今は、ただただ不快なだけだった。

(この人とキスなんて……絶対に無理)


タカはたばこを吸わなかった。

だからそばに寄ると、タカの匂いだけがした。

はじめて会って、ほんの少しの間肌を合わせただけの相手だけれど、不思議とあの匂いは一生忘れないような気がした。


(……ひと晩だけでも、抱かれておけばよかったかな)

あのときは衝動的に帰ってしまったけれど、よく考えたらもったいなかった気がする。

ひと晩だけでも女に戻りたい、そう思っていたはずなのに。

いま目の前の夫を見ても、これっぽっちも欲情しない。

タカの前であれほど昂ぶっていた女としての本能は、すっかり影を潜めてしまっていた。

(……失敗した、かな)



そのとき、スマホがブルブルと震えた。

画面を見ると、もう来ないと思っていたタカからのメッセージが表示されている。

昨夜、バスの中で決めたこと。それは「タカとはもう連絡を取らない」「ゲーム内でも会わない」ということだった。


だけど……


わたしはとっさにスマホをポケットにつっこんで、 夫が乱暴に吸い殻を投げたせいで散らばった灰を片付ける。

それを見ても「ありがとう」も「悪いな」もない。

いつものことだ。


首元が伸びきったTシャツの上からでもわかる、だらしのない体型。

やっぱりどう頑張っても、このさき夫に欲情することはありえないだろう。


(…はあ)

昨夜わたしを抱きしめてくれた腕は、ほどよく引き締まっていて、とてもセクシーで。

髪を優しく撫でてくれた大きなてのひら、男の人にしては長いまつ毛。

食べられてしまいそうなキスを思い出しただけで、体の奥の方がじゅうっとする。


(ゲームの中で、会うくらいなら……)

いいよね?

ゲーム内の出来事は、所詮現実世界のイミテーションみたいなもの。

なら、裏切りとは言えないよね?

うん。

心を決めて、わたしはタカからのメッセージに返事を打った。

夫の前では妻でいよう。

子どもの前では母でいよう。

愛しい男の前では、女に戻る。それだけだ。

そして女のわたしは、今夜もまた愛しい男に会いに行く。

リアルを超えた、バーチャルな世界で。



***

おしまいっ

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