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高野山にて

ずーっと行きたいと思っていた高野山にお参りをしてきました。勤め先でありがたいことに車を貸していただけたので、龍神高野スカイラインを走ること2時間半。

多くの寺院が立ち並ぶ高野山。その奥の院は世界でも最大級の墓所です。もらいやすい体質の僕が行けるのか、少し心配でしたが、下調べしてくれたさゆりさんによると大丈夫そうな感じとのこと。たまに出る根拠のない自信をもらいました。
高野山には真言宗の宗祖空海、またの名を弘法大師がずっとお祈りを続けているという入定信仰があります。毎朝、お勤めしているお坊さんが朝ごはんをお届けする生身供という行事も行われているそう。

お墓が立ち並ぶ奥の院。

中ほどに川をまたぐ橋があり、そこから先は特に聖域として扱われています。

橋を渡ったときには少し涙が滲みました。自ずと滲んでくるような。
悲しいというよりも、嬉しさ。僕ではなく、僕についているだれかが、「ようやく来れた」と感じた気がしました。

灯籠堂を回り込み、弘法大師が今もお祈りを続けているというお堂の前へ。
一礼。合掌。一礼。座って瞑想もさせていただきました。

感謝の気持ちが湧き上がってきます。
人類のためにお祈りをしているその存在に。あるいは、熱心にお祈りをされるお坊さんに。尊い活動をしている全ての人に、感謝の輪をつないでいきたい。そんな気持ちが湧き上がってきました。

となりに、記念灯籠堂という建物があり、その中にもお参りをさせていただきました。合掌をして挨拶をした時、ふと考えが湧いてきました。

僕は、この聖地でエネルギー・氣とつながりたいと思っている。
それは「ほしい」という欲求である、と。

欲求を抱いた瞬間、僕自身はその状態「ではなくなる」。

ご飯を食べたいと思った時、絶対に満腹ではないように。
「つながりたい」と考えたときには「つながっていない」。

瞑想で平静さを求める僕には、平静さは得られない。

どうすればよいか。

人に与えることを考えればよい。
人に与えるとき、僕はそれを持っている。

平静さを得るためには、人に平静さを与えればよい。
幸せを与えれば、僕はその瞬間に幸せ「である」。

まるで最近の僕に反省を促すような気づき。
人に与え続ける人になれるように。

さゆりさんの言った通りまったくもらいませんでした。高野山、すごく清々しい土地で、大好きな場所になりました。いつか絶対にまた行きます。

なおき

読んでくださって、本当にありがとうございました。