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イタリア・ミラノでのロックダウン生活、40日間の記録

0. まだミラノにいる

2020年3月末日、筆者はイタリア・ミラノに滞在している。

二度ほど一時帰国を試みたのだが、どちらもうまくいかなかったため、また一時帰国することができたとしても、イタリア再入国が難しくなったら困るため、今、ミラノにいる。

今回のnoteでは、2020年2月21日頃から3月末までの記録を書いていこうと思う。

また筆者は、人文系の研究者であって、専門的な医学の知識を持ち合わせているわけではないため、適当な予測・コメントや何らかの推奨をするつもりはない。

単に40日間の記録を綴るのみである。

ただ筆者は、日々、情報収集にあたって、在ミラノ日本国総領事館から送られてくるメールと、イタリアの新聞紙『ラ・レプブリカ』(La Repubblica)『コッリエレ・デッラ・セーラ』(Corriere della Sera)のWeb版の記事を追っていた。

状況を分かりやすく説明できるように、当時のニュースの情報も適宜挟みつつ、時系列に沿って振り返っていく。


1. スーパーの買占めが起こる(2月24日から2月29日まで)

2020年2月20日、ロンバルディア州の小さな街ローディで一人の感染者が確認された。

以降、ロンバルディア州とヴェネト州を中心に徐々に感染者及び死亡者が増加し始める。

大学などの教育機関や公共施設が3月1日まで休校になると発表されたのは、2月23日のこと。

筆者はこの週末はお気に入りのカフェで過ごすなどしていた。

週明けの2月24日月曜日、スーパーに行くと異様な混みようであるとともに、特にパスタ、缶詰、肉類、水と言った食品の買占めが起こっていた。


このパスタの在庫がなくなるという騒動は、日本でも報じられたみたいだが、逆にそれ以外の食品はきちんと揃っており、海外メディアのニュースを見ると空のパスタの棚ばかり写しているのではないか、という印象も個人的に抱いた。

翌25日に同じスーパーに行くと、買占めなどは起きておらず、全ての商品棚はいつも通りだった。

このいつも通りの在庫を見て、またいつでも買える、買い込まなくてもいいのだという安心感が生まれた。

またこの週、筆者は大学の図書館の返却ボックスに本だけでも返しにいけないかと試みたのだが、それもできずドゥオーモ前で写真を撮ってきた。

テレビカメラを何台か見かけたが、いつもより人が少ないものの、まだ人出が普通にある印象であった。

この2月の最終週にどんどん感染者は増えていくニュースを聞いており、街でもマスクをつける人々をちらほら見ていたが、レストランなども夜も営業しており、まだまだ街は通常営業という感じであった。

筆者は、この週に帰国する友人たちに会い、挨拶をしたが、きちんと飛行機が滞りなく運行されるか心配でもあった。


2. 次々と留学生たちが帰国する(3月1日から3月8日まで)

3月1日、ついにイタリアのロンバルディア州、ヴェネト州、エミリア・ロマーニャ州の危険レベルが2になり、不要不急の渡航をやめるように外務省から通知が来た。

これを見て日本からの旅行をキャンセルした人もいるであろう。

当初、大学などの教育機関の休校は、3月1日までであったが、3月4日の発表で、3月15日まで休みが延長されることになった。

その一方で、美術館などの公共施設は、再オープンしていた。

この3月の第1週目、日本からの交換留学生の友人たちが、文字通り、軒並み帰国した。

日本の各大学から帰国要請が出たとのことで、それぞれが慌てて帰って行った。

友人たちは、もともとあと数ヶ月滞在する予定だったところを急遽切り上げて、しかもアパートも引き払って帰国して行ったので、彼女たちが残してくれた大量の食材を引き取りに行った。

後にスーパーに買い物に行くのも困難になったため、これらの食材には大いに助けられることになる。

なお、筆者は、この頃までに当初予定していた3月初旬から4月初旬までの帰国を断念し、チケットをキャンセル払い戻しした。

そして改めて3月13日から24日までの日程を短縮したフライトのチケットを取り直したのだが、これも次の週に航空会社からキャンセルされることとなった。

実際、後者の日程で帰っていたら、空港での検査、二週間の自己隔離、公共交通機関が使えない、何よりも自分が感染していた場合、日本の人たちに迷惑をかけていたかもしれなかったので、結果的に残って良かったのかとも思っている。

またこの時点ではバールなどは営業していたが、夜間の営業をやめるなど短縮営業しているところがあった。

イタリアのバールの要とも言えるカウンターでの飲食が禁止され、バリスタからは、カウンターとは別のところで飲み物を飲むように指示された。

確かに、カウンターは、世間話をするところであると同時に、人の飲み物を作る場所であるため、適切な処置なのかもしれない。

また、コーヒーを使い捨ての紙コップで提供しているバールもあった。

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そうこうしているうちに、3月7日には危険レベルが3に引き上げられ、ロンバルディア州については、外務省からの渡航中止勧告が出された。

このように3月の第1週目は、外務省や領事館から次々と安全のための連絡が入り、不安は募っていたが、大学が閉まっているということと、いつもより人が少ないということ以外は、まだまだ通常運転の生活であった。


3.イタリア全土に外出制限令が出される(3月9日から3月15日まで)

生活が一変したのは、3月9日の首相令が出されてからであった。

またそれと時を同じくして、3月9日時点では、ロンバルディア州、ヴェネト州、エミリア・ロマーニャ州、ピエモンテ州、マルケ州が危険レベル3、それ以外の州はレベル2に外務省によって指定された。

イタリアのコンテ首相は、3月9日夜の発表で、イタリア全土に対して、4月3日まで、個人の移動を制限するとともに、教育機関や美術館の閉鎖、飲食店の営業時間制限(6時から18時までの営業)などといったことを命じた。

それからわずか2日後、3月11日夜の首相の発表で、スーパーと薬局など、生活必需品を扱うお店、銀行、郵便局など以外のお店の全ての営業を停止、移動の際に必要な事項を記入した書類を携帯することが定められた。

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(3月11日撮影)


この3月9日から11日までの一連の発表で、今まで、主に北イタリアを中心とする問題だったのが、イタリア全土に拡大し、国民総出で問題に取り組むという方針が決められた印象を受けた。



この3月の第2週にも帰国していく友人がおり、この時期にアリタリアの便が次々と欠航・変更になるなどの対応や、空港に行くまでの書類を急ごしらえすることになったりなど、とても大変そうだったのを記憶している。

当初、この移動制限は、3月25日までとされていたが、後に4月15日まで延長されることになる。


第2週目の時点では、まだスーパーに入るまでにそれほど長い時間並ぶ必要もなかったし、在庫もきちんとしていた。


ただアルコールジェルとマスクをどこで探しても手に入れることができなかった。

筆者はジェルだけ購入することができたが、マスクは諦めることにした。

それよりもマスクを探しに、中心部まで出かけるのが怖いと思ったからである。

この時点から、週1回ないし数日に1回のスーパーマーケットに行く以外、外出をやめている。

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(3月14日撮影)


4.スーパーで3時間並ぶ(3月16日から3月22日まで)

筆者は、3月21日の土曜日、スーパーマーケットに出かけたが、朝の8時40分から11時40分まで並んだ。

その前の週は、1時間の待ち時間であったが、土曜ということもあって、待ち時間が増えていることに絶望した。

自宅近くのスーパーであるため、防犯の都合上、写真を載せることはできないが、スーパーの敷地内に列が何重にもなってできていた。

それはスーパーに人が集まるのを避けるため、スーパーが入場制限を行っているためであるが、ざっと見て100人以上の人が行列を作っている状態こそ、危ない環境のように思えてならない。

また、筆者が並んだ日は、晴れていて寒くなかったが、気候が悪い日にお年寄りが並ぶのにはあまりに酷な状況といえるだろう。

スーパーに入ると、手にアルコールの消毒液を吹きかけられ、ビニールの手袋をはめるように指示を受ける。

一人買い物を済ませると、一人入れるシステムである以外は、スーパーの中で表立った変化はなく、品揃えも良く、パスタも水もトイレットペーパーも全て十分にあった。

お店に行くのは大変だが、入るまでが大変という感じ。

外出制限生活も1週間以上を過ぎると、徐々にそれなりも生活リズムもできてきて、朝に家で運動したり、家事をしたり、メリハリをつけて研究生活を送るように心がけていた。


5.静寂(3月23日から3月31日まで)

3月の3週目、4週目となると、もう何も思わないというか、思わないようにしているというか...

あまり良くないニュースを聞くにつけて、本当に4月15日でこの生活は終わるのかと思ったりもするが、逆に4月15日以降に街が再始動して、人の行き来が元通りになったら、また良くない状態に逆戻りするのではないかなどと悶々と考えた。

幸い筆者は、教授とメールとコンタクトを取りつつ、研究を一つ一つ自宅で進められるため、また奨学金もストップしていないため、自分の本業に支障は出ていない。

ただ、5月に予定していたウンブリア州・ヴァチカンへの史料調査のための出張は無理だなと、諦めの気持ちが出ている。

ある機構は、この騒ぎを受けて海外留学奨学金の支給停止と帰国要請を出したとうことで、筆者の友人たちが大きな影響を受けた。

幸い、この決定の見直しが迫られているが、予断を許さない状況である。


3月26日のこと、筆者は家賃の振込みのために中央駅近くの銀行ATMに出かけた。

ミラノの玄関口、中央駅には軍隊と警察しかいなかったが、その他にたむろしている人たちがいた。

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(3月26日撮影)

それはウーバーイーツの配達人である。

明らかに移民の若者と分かる外見をしている彼ら。

ウーバーがないと飲食店の経営が立ち行かないのも事実であるし、ウーバーの仕事がないとこの若者たちの生活が成り立たないのも事実である。

このマスクをつけた若者たちは、自転車に跨りつつ、談笑し休憩を取っているようであった。


また3月27日、イタリア時間の夜、6月に開催予定だったミラノのファッションウィークが9月に延期されることが発表された。

これでミラノは秋までは再始動は難しいという事実が突きつけられた気がする。

また6月までには少しマシになってるかもしれないが、その状況で油断せずに人を街に入れないという判断かもしれない。

ここでは適当な憶測ばかり言うことはあまりしたくないが、筆者の個人的な都合を述べるならば、6-7月の大学の試験がどうなるか読めない。


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以上、筆者のnoteでは、こうした方がいいとか、こうするべきだったとか、ほらやっぱり自分の意見が正しかったとか、そういうことは書くつもりはない。

ただの記録である。

この若者たちが、感染した場合、きちんとした治療を受けることができるのだろうかということが心配である。

3月末日の夜更け、救急車の音(これが患者を運んでいるのか定かではないが)と清掃車の音が何回か聞こえる以外は、辺りは静寂に包まれている。

毎晩、朝起きた時に熱が出ていませんように、咳が出ていませんようにと願いながら眠りについている。

見栄も体裁も捨てていうならば、自分がまず生き残ることに必死である。


(文責・写真:増永菜生 @nao_masunaga


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