君ノトナリの隣

君ノトナリの隣

君ノトナリの
ワンマンライブから
2週間が過ぎた。

にも関わらず心のどこか
このライブのことがあって、

今更だけども
想いを書いてみようと思うんだ。

君ノトナリのライブを
ライブハウスで観るのは、
前作『未完星ドラマチック』の
発売後にあったライブ以来だった。

歌唱力・演奏力、動員など、
もちろん前回の時より
遥かに上回っていた

何より驚いたのが、
その「構成力」だった。

前作『未完星ドラマチック』の
アルバムの作りは、
アルバム全体を聴かせようとした
作りをしており、
驚いた記憶がある。

余談だが、
実際に聴こうとすると
アルバムごと聴かないと
満足しない
ようになり、
聴きたいと思っても
30分以上時間が空かないと
聴けないというジレンマ
今でもあったりする。

そういうものだから、
今回の『GOLDEN RECORD』も
そうなんだろうな
と思ったら、想像通り、
いや想像以上だった。

曲想、アレンジ、
ジャンル、長さ、曲順。
そのどれもを計算して
フルアルバムにしては
少ないであろう10曲が
とてもバランスの良いもの
仕上がっていた。

ただ、その構成力は
アルバムだけだと思っていた。

ライブというものに
そういったきめ細かい
構成などはないんだろうな
甘く見ていた部分もあるだろう。

ワンマンライブは、アルバム以上とも
いえる構成力だった。

全曲はあえて追わないでおく。
どれもがよかったのだが、

『夜光声』から始まって、そして
『彗星』から『北極星に魅せられて』

この流れはまるで1つだった。
それはライブであり、
映画でもあって、
ドキュメンタリーでもあって、
芸術であり、
そして生命だった。

『彗星』は
音だけで聴いていた時から、
「映画音楽みたいな曲」だな、
と思っていた。

いざライブになると、
それは映画だったんだ。

「誰か」がライブを観ているという画を
僕がスクリーンから観ていた
その映像はとても艶めかしくて、
美しくて、人ではない
ようにさえ
視えてしまった。

『星をかった日』では
その映画の続きを観るようであって
でも徐々にライブに戻っていた。
人でないようなものが
スクリーン越しでなく、
目の前に現れた瞬間は、
美しすぎて息を飲んでいた

そのまま続いていく中、
その美しいものが
動く芸術のようにも視えてきて、
自分が何を観ているのかが
分からなくなっていた

『Twilight』が終わった後に、
ようやく人間として
視れるようになった。

となった矢先にMCになり、途端に
いい意味で泥臭い人間が目の前にいた。

ようやくワンマンができたこと
脱退したメンバーのこと
君ノトナリについてのこと

一言一言、重みがあって。
あれほど美しかったものが、そこには
ドキュメンタリーしかなかった。

1つのライブにこれほどの変化が
あっていいのだろうか

だけれども、
その変化ですら心地よさを覚えていた

「君ノトナリという
 バンド名で良かった」
そういったボーカル・穂高の言葉に
僕は心底、
「こちらこそ、
 君ノトナリでありがとう」
って思ったんだ。

そうして
ダイジェストムービーの冒頭にある

僕たちが君ノトナリでいる理由を
僕たちが君ノトナリでいられる、
居続けられる理由を
与えてくれたのは皆さんです。

僕が生きる理由を
歌い続ける意味を
与えてくれて
本当にどうもありがとう。

またね。

という言葉を発し
歌った『北極星に魅せられて』は
涙なしではみれなかった。

「またね」
という一言で
「次がある」
という安心が生まれた。

「またね」で終わらせるところが
彼らしいなとも思えた。


君ノトナリの今後
まだ分からない。
本人たちもきっと
試行錯誤していくだろう。

ファンとして
客として
1つの音楽として

はたまた何かのきっかけで
関係者として、かもしれないし

どんな形かは分からないけども
僕はずっと
君ノトナリの隣にいるだろう

君ノトナリっていうバンドは
曲だけでなく
そのバンド名でも
きっと誰かを救うだろう

その誰かを救う1つの理由に
僕もなれたらいいな

#君ノトナリ