はぐれ看護師、野をすすめ① 東大で3年間留年して、看護学科へ転学した話。

あなたは人として信用できません

ここは、東京大学健康総合科学科看護コースの専攻長の部屋。
ぼくは所在なく椅子に腰かけ、専攻長の到着を待っている。
まるで裁判の宣告を待つかのような気分だ。
手のひらには汗がじわりと滲み、呼吸が浅くなっていく。口の渇きを癒すため、秘書さんが運んでくださったお茶を口に含もうとしても、ツルツルと滑ってしまいうまく湯のみが掴めない。
時計は、約束の時間を数分ほど過ぎている。
ぼくの顔は、湯飲みと、時計、そして専攻長室のドアの3点をくるくると世話しなく回転するばかり。
ドアの外で足音がするたびに、びくっとして座りなおしていると、背中が、そしてお尻がじとぉっと湿っているのが分かる。

5分が過ぎた。
10分が過ぎた。
そして、15分が過ぎようとしていた時、

とある足音は扉の前で止まり、ゆっくりとドアノブが回転し始める。
ぼくは「さぁ、やるぞ」と腹の底から息を吐きだした。

そこから先、何を話していたのかは殆ど覚えていない。
記憶に残っているのは、号泣するぼくにどこか困ったような顔でティッシュ箱を差し出す専攻長の顔と、「あなたは人として信用できないので、看護コースへの進学は認められません」という言葉だけだった。


看護のきっかけは留年

カレンダーを少し戻そう。
看護の道に進もうと決めたのはいつだったか。
きっかけは留年だったはずだ。

ラボメソという実験手技を学ぶ一連の授業がある。連日にわたり、朝から晩までマウスを解剖し、ピペットで吸い、液体を混合させる。文学部から医学部へ転学したぼくにとってはまるでチンプンカンプンで、申し訳なさそうにテーブルの端に座り、理系出身の友人たちの雄姿を眺めていた。
ようやく実験が終わったかと思えば、今度は方眼ノートにそれはそれは丁寧に実験手技を書き込んでいく。

10時52分 ~を抽出
10時55分 ~を混合
10時58分 ~を50℃に熱する

「やってられるかよ。」

心の中でそう呟き、「バイトがあるので帰ります」と言い残し、翌日の予習内容など聞かずにさっさと教室を後にした。
そしてここが、運命の分岐点。

さぁ、翌日だ。
ぼく以外の生徒のテーブルにはピンク色に染まった缶バッジのような物が置かれている。

「なんだあれは、知らんぞ」
そう思い、隣に座った友人に聞いてみると、どうやら今日の実験で使用するCO2濃度測定器であり、各自が教員室に取りに行き、思い思いの場所でCO2濃度を測って持参したらしい。

「ふーん。ま、大したものじゃなさそうだし、先生に言えば何とかなるだろ」
ご都合よろしく問題を脳内ですっきりと処理したぼくは、さっそく机に伏して惰眠を貪ることとした。
ざわつきに目を覚ますと、白衣を着た女性が教壇にのぼっている。どうやら今日の担当教員らしい。
ぼくは眠そうな目をこすりつつ、自分の勝利を確信して威風堂々と教壇へと向かう。

「先生ごめんなさい。昨日バイトで帰ってしまったので、バッジを取りにいかなかったんです。なので友達と一緒に実験させてもらいますね。」

「駄目です。忘れたのであれば実験には参加させられません。来年頑張ってください。」

そして、私の3回目の留年が決まった。


そうだ、看護だ

ちなみにぼくは、この時点で既に大学6年目に突入している。
なぜそんなに大学に長居することになってしまったか。

東大のカリキュラムは少々特殊で、前期2年間は全ての学生が駒場で一般教養を学び、3年目に進学振り分けという制度を使い、各自志望する専門課程へ進学することになる。
どの専門にも興味がなかったぼくは、「小説とか好きだし」というふざけた理由で文学部言語学専修課程へと進学していたが、授業に出た記憶は一度もない。
「これはまずいな」ということで、真剣に進路を考え直してみると、どうやら自分は人の生き死にに関わる問題に興味があるらしいということが薄っすらと分かり、そのまま医学部の健康総合科学科へと転学部することにした。
転学部と聞くと、「そんなことできるの?」と思う方もいるかもしれないが、当時の健康総合科学科は不人気学科であったため、他学部からの異動者を積極的に受け入れていたのである。
しかし、せっかく異動したはいいものの、演劇と映画製作に没頭していたぼくは、こちらでもほぼ授業に出席していなかった。
というわけで、留年、休学を重ねた結果の6年目の大学生活である。

そこに加わる新たな一撃。
茫然自失。

両親に連絡できないままに数日が過ぎていったが、「いつかは言わなきゃならんのだ」と新小岩の駅前を歩きながら、勢いに任せて母、父の携帯に電話をかけた。
当然の叱責、失望。

「おまえ何考えてるんだ?そんなんならもう大学なんて辞めちまえよ。知らねぇよ。」

両親の期待をさらに裏切った罪悪感と、たかがバッジ一個ごときで留年を決めてしまった自分の情けなさにしょぼくれて、ぼくはとぼとぼと歩いた。

その時だった。
頭に一筋の閃光走る。

「そうだ、看護だ」

この瞬間から、ぼくの人生は看護へ向けて動き始めた。

思えば、それまでの大学6年間で没頭できたものといえば演劇、映画製作のみで、いったい自分はどの道に進めば良いのかと悶々とする日々を送っていた。
大学の友人に倣って、公務員試験の問題を眺めたり、企業のインターンに応募したり、大学院の教室を見学に行ったりなどしてみたものの、いかんせん全くやる気が起きない。
役者になることも考えたが、プロとして活動する師匠の覇気を前に、「これは無理だ」と退却した。
授業にも身が入らず、出席が取られると同時に退席しては隣の空き教室に移動して読書に耽る日々。
卒論の配属先は決まっていたが、とてもではないが研究テーマを決めるだけの胆力はぼくにはなく、研究室のデスクはただ映画を観るための場所と化していた。
そんな過ごし方が許される訳もなく、教授の「今すぐ荷物をまとめて出ていけ」の一喝の下に、段ボールを抱えて研究室を脱出するはめに。
行き場がなくなったぼくは、普段可愛がってくれていた先生がいた教室を段ボール両手に訪ね、「行き場所がないのでここにおいてくれませんか」とアニメのキャラクターのようなセリフを口にしていた。

そうして自身の甘さに堕落する日々を送っていた中で突如降ってきたのが、看護へ進むというアイデアである。
人生において看護に触れたことは無かったはずなのに、この瞬間、「これだ」という確信が身体に充満していく感覚を得た。
両脚は力強く大地を踏みしめ、顔は空を仰いでいる。
意気揚々とぼくは大学の図書館に向かい、さっそく看護師になる方法を模索し始めた。

ぼくが転学部した健康総合科学科はさらに2つのコースに分かれており、一つは公衆衛生や国際保健、健康科学を学ぶ健康科学コース、そしてもう一つが看護学を学ぶ看護コースであった。
ぼくは健康科学コースに在籍していたのだが、どうやら来年から看護コースへ異動したとしても、2年間あれば卒業できるらしい。東大は在学8年までは退学処分にならないから、最短でカリキュラムをこなせば看護師免許を取得できる。
これが分かった瞬間は、森羅万象ワレニ味方セリと、ぼくは浮かれに浮かれた。


いざ勝負、看護コースへ

そうしてぼくは意気揚々と看護コースの専攻長へと異動希望のメールを送った。
数日後、面談を組んでくださるとのお返事が。
「これで看護師になれるぞ」と、ぼくの頭の中ではどの病院で働こうか、どんな科に行こうかと、お気楽な妄想が広がり始めている。
そんな訳で、何の準備もせずに、気持ちだけを携えて臨んだ専攻長面接であった。

そして頂戴したのが冒頭の一言である。

「あなたは人として信用できないので、看護コースへの進学は認められません」

それは、看護への道に終わりを告げられた瞬間であると同時に、ぼくの中で闘いのゴングが鳴り響いた瞬間でもあった。

そう、ぼくは確信していた。

「看護師なるのだ」

根拠はなかった。
しかし、だからこそ強かったのだと思う。
目指す根拠がないということは、諦める根拠もまた生まれえないということ。
あるのはただ、看護師になるという確信だけ。
これは既にぼくの中で決まったことであり、周囲が幾ら否定しようとも、ぼくが自ら折れない限りは、ぼくが看護師になることを何人たりとも止めることはできない。

だから、専攻長に断固としてNOを提示されたすぐ後に、「ぼくが甘かったです。でも、看護師になりたいという気持ちは変わりません。きちんと準備してきますので、もう一度面接してください」と食い下がる。

とりあえず命を繋ぐことには成功したらしい。
あとは、壁をどう突破するかだ。

専攻長の言葉を聞いて、「ちょっと冷たいんじゃない?」と思う方もいるかもしれないが、早とちりするなかれ。
これは100対0でぼくが悪い。
まず、基本的に授業には出なかったし、頼み込んで混ぜてもらったゼミも早々に無断欠席で撤退、研究室では映画鑑賞、レポートはお題を無視して小説を書いて提出していた。教員室を訪ねるのは、単位の懇願と、演劇のチケットを売りさばきに行く時だけである。

とまぁ散々な生活だったので、専攻長の言葉を聞いた時にも、我ながら「そりゃそうだな」と存分に納得できたのである。

しかし、だからといって看護を諦めるわけにはゆかぬ。
授業で失った信頼は、授業で取り直すしかない。
そして、駒場から本郷に進学してからの1年間の授業を全て取り直すことにした。カリキュラム的に履修できない授業に限っては、参考図書を購入し、独学で勉強しなおした。
人類生態学、免疫学、栄養学、疾病論、統計学、人口学、疫学研究の計画と解析…
気付けばノートは15冊近い山を作っていた。
また、「なぜ看護なのか」、「なぜ他大ではなく東大なのか」ということをしっかり言語化するため、東大病院の看護師、医師、他大の看護学生に会い、インタビューを行う。
最後に、看護コースに異動しても、2年間でカリキュラムを終えることができることを証明するために、2年分の履修表を作成した。
ダメ押しで、誓約書も作った。「看護コースを正当な理由なく欠席、または不適切な成績をとった場合には、退学する覚悟で異動を希望します」というもの。

数か月かけて用意したノート、書類を前にして、「ふっふっふ、我ながら人間やればできるものだ」と陶酔する。
思い浮かぶ限りの対策は立てた。
後は面接に臨むだけ。
そしてぼくは、満を持して専攻長へとメールを送った。


再戦

2度目の面接。
今度は専攻長だけでなく、学科長、教務課スタッフも交えての4者面接である。
15冊のノートと、履修予定表、そして看護コースの志望書を机に並べ、私は専攻長の判断を待った。
ぼくは「どうだ、完璧にガードしたぞ。これで異動希望を断ることはできないだろう」と鼻高く、漏れようとするにやけ顔を我慢するので精一杯であった。

ノート、書類に一通り目を通した専攻長は口を開く。
「資金はどうするのです?実習中はとてもアルバイトなんてできませんよ?その用意ができていなければ異動は認められません」
一刀両断。
当時のぼくは学費、生活費を奨学金とバイトでやり繰りしており、バイトができないということは、それすなわち大学生活ができなくなるということであった。

つくづく自分の甘さが情けなくなる。
ぼくは何を期待していたのか。
目の前にいるのは看護コースの専攻長であり、紛れもなく日本の看護をけん引する看護学者の一人である。
過去にあれだけの不義理を働いておきながら、たかだが数か月の勉強をノートにまとめた程度で許しを得られるなどという考えが甘かった。

しかしぼくは、情けなさと同時に、看護への確信がさらに固まっていくのを感じていた。
たとえ断られたとしても、こちらが諦めない限り夢は破れない。必要なことはただ一つ、前へと進み続けることだけである。そすれば解決策などついてくるはずだ。


再々戦

そして、金策を済ませての3回目の面接。
正直、これで駄目だったら打つ手がない。
「バイトなしでもちゃんと学費も生活費も払えるんですからね!」と説得するために収支表を用意した。

授業料 803,700円
家賃と光熱費 450,000円
生活費 990,000円
現在の貯金 800,000円
バイト代 300,000円
奨学金 700,000円

こうして眺めてみると、なんともまぁお粗末な収支表である。当時のぼくは書類の上だけでもなんとか帳尻を合わせようと必死だった。

頼む、どうかOKと言ってくれ。
もう手がないんだ。
頼む。

ぼくは待った。
専攻長が口を開くのを。
手に持っていた書類を机に置き、専攻長は目線を挙げる。
ゆっくりと口が開く。

OKか?
NOか?

こい、OK、OKこい、OK、OK、OK!

「そこまで言うのなら、止めはしません」

ついに…
ついに扉が開かれた。
こぼれてくる笑顔を必死に堪えようとしたが、あの時のぼくの顔は溶けたバターのようにぐちゃぐちゃに笑っていたと思う。

「ただし」

え?

「看護系の各研究室を周り、それぞれの責任教員に許可を頂けたら、です」

骨の髄まで厳しい人であった。
しかし思えば、専攻長がいてくださったからこそ、ぼくの胸の中の看護の熱は今もまだ燃え続けているのかもしれない。
ああして、何度もNOを出してくださったからこそ、それに負けんとする形で、自身の看護への想いを見つめなおすことができたのだろう。

それから数週間、看護コースの研究棟には、勉強ノートと履修予定表、そして収支表を手にしていそいそと教室を回るぼくの姿があった。

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Naoki Hirose

はぐれ看護師、野をすすめ

不良東大生が、看護の道を進んでいく話。
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