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そいえば、最近旅行がそんなに好きじゃない。

そいえば、最近『旅行』がそんなに好きじゃない。


最近韓国を『旅行』してたときに感じたこと。

その時に思ったこと。

ふと思い出したから、少し書いてみたい。






趣味は何ですか?

って聞かれたら

旅行

っていつも答えてた。


学生の頃からお金を貯めて、よく友達、恋人と旅行に行ってたし、卒業旅行もちゃんと海外に行ったし、典型的な『旅行好き』な人だった。

自分のInstagramを見ても旅行先で撮った写真たちがたくさんのってる。


だから、僕は旅行が好きなんだって思ってた。

僕は僕を旅行好きな人として、規定してた。そう認識していた。



韓国に行く前、優しいお友達のみんながオススメの観光地を教えてくれた。
(教えてくれたみんな本当にありがとう。)

Googleさんもいくつか素敵そうな場所を教えてくれた。

だから、ホテルもちゃんと観光エリアに予約した。

でも、何故か。観光する気にならなかった日があった。

だから、その日は何もせずに、カフェでダラダラ考えてた。


何でだろう。

うまく表現できないけど

どこか自由を感じなかったのだ。

旅行というその言葉に。
旅行というその概念に。


『旅行』

今までのその言葉のイメージは「楽しそう」「非日常」「幸せいっぱい」
今のその言葉のイメージは「大変そう」「時間的制約」「消費」

「重さ」を感じるようになっていたのだ。



旅行という感覚でどこかを訪れると

人気の観光地に、有名なお店に、行かないといけないと思わされるのだ。

行かなければ、損するかのように感じさせられるのだ。

行きたいという感情ではなくて、損をしたくないという感情が強くなってる気がするのだ。

そんな損得に支配されたくないのだ。

「勿体無い」という気持ちから、スタンプラリーはしたくないのだ。


そうなのだ。

この感情・感覚が嫌なのだ。

本来は自由に楽しみたいのに、

楽しまないといけない脅迫を感じるのだ。

できるだけ有名なところに多く行かないといけない圧力を感じるのだ。

『旅行』という定義から、その言葉から。


そうなのだ。

僕は、たくさんの観光地に訪れる『旅行』が好きなのではない。

色んなところを行って、色んな人と会って、色んなものを見て、色んなことを感じたいのだ。

リアルや日常・文化が見える場所、瞬間に出会いたいのだ。

僕は『旅行』が好きだったのではなく、旅行先に行って得られるいくつかの体験が好きなだけだったのだ。

それは別に旅行じゃなくて良かったのだ。

(だからといって、旅が好きかと言われたらそうでもない。
別にそれももしっくりこないのだ。)





「旅行好き」とか「食好き」とか「カフェ好き」とか。

僕らは僕らの好き嫌いを、それっぽい圧縮された言葉によって、規定していることがある。

「日本人」「外国人」「社会人」

「男性」「女性」「子供」

「陽キャ」「陰キャ」「人見知り」

僕らは僕らの人格を、どこかの誰かが圧縮して作った言葉によって、規定していることもある。


全部全部、圧縮して僕らを規定している。


表面的な言葉と本当の感覚・感情は少し違うときがある。

僕はずっと自分のことを『旅行好き』だと思ってたから、旅行がそんなに好きじゃなくなったことに気づくまでに少し時間がかかった。

このズレに、その違和感に気付いたとき、本当の自分がもう少し見える気がした。




韓国にいたとき、韓国人のお友達に聞かれた。

「なおきの趣味ってなに?」

「旅行」

って自信満々に答えた。

そう答えたくせにどこか違和感が残った。


残り続けたその違和感が少し消化された。


僕の趣味は『旅行』じゃないらしい。

僕は『旅行』がそんなに好きじゃないらしい。



こんなことを言語化してしまったせいで、これから友達を『旅行』に誘いづらくなった。

なんという言葉を使って、誘えばいいのだろう。

めんどくさい問いが残った。



おわり。

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