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【全文無料公開】 『会社を使い倒せ!』 #2 自分が求めるクリエイティブとは?

第2章
自分が求めるクリエイティブとは?


想定外の配属でも、必ず学びはある。

 就職先に選んだのは、建築とはまったく関係のない広告会社でした。
 結果的にそうなってしまったわけですが、僕は、博報堂に入ると決めた限りは、逆に建築に近いことはやりたくない、と思っていました。
 なんとなく頭のなかにあって、採用試験のときにも話していたのは、リアルな場を介したコミュニケーションを生み出すことに自分は興味がある、ということ。
 建築でも広告でも「コミュニケーション」という言葉がよく使われるのですが、両者では意味合いが微妙に違っていました。
 建築の場合は、どちらかというとコミュニティに近いと僕は感じていました。
 建築は「場」なので、環境をつくっていく。公園でも、ビルでも、家でもいいのですが、そこに人が集まることでリアルなコミュニケーションが生まれていく、そんな文脈でコミュニケーションという言葉が使われます。
 一方で、広告の場合は、企業のメッセージを伝えるという意味でのコミュニケーションが中心。
 そこで、広告でも、もっとリアルな場を介したコミュニケーションができるのではないか、と漠然と考えていたのです。
 そういうクリエイティブができるのではないか、と。

 博報堂では総合職で入社したので、適性を見て配属が決まることになっていました。
 大きく分けると3つで、営業、本社系と呼ばれるいわゆるバックオフィス、そしてMDと呼ばれている部門です。
 僕はMDを志望していたのですが、そのなかでさらに、コピーライターやデザイナーなどのクリエイティブ職、マーケティング戦略を考えるストラテジックプラニング職、PRプラニング職、プロモーションプラニング職と大きく4つの職群に分かれます。
 僕はクリエイティブ職がいいな、とは思っていたのですが、文章を書くのは苦手だったのでコピーライターというのはないと考えていました。一方で、グラフィックが得意なわけでもないのでデザイナーも違う。
 どっちも違うわけですが、それでも、入社してからも漠然と、平面のデザインや言葉とかではないクリエイティブがやりたい、と言い続けていました。
 あまりに漠然としていて、「こいつ、なに言ってんだ?」と思われていたかもしれません。

 そして配属が決まり、僕が配属されたのは、さきほどの4つの職群のどこにも当てはまらない空間プロデュースの部署でした。
 プロモーションのイベントよりももう少し大規模な、EXPOやモーターショーなどの大がかりなイベントを手がけたり、企業ミュージアムや店舗をつくったり、といった仕事を担当する組織です。
 正直「まじかー」と思いました。
 建築に近いことはしたくなかったのに、ちょっと建築に近い。
 せっかく建築と違うことをやろうと思っていたのに……と、早くもモヤッとした気持ちを抱いてしまいました。
ただ、採用試験のときにリアルな場を介したコミュニケーションをやりたいと言っていたので、会社からすると希望を叶えてやったと思っていたかもしれません。

 希望の配属とは違っていたのですが、ここで僕は、ふたつの幸運な出会いをすることになります。
 僕が配属された空間プロデュースの部署は、本来あまり新人が配属されるようなところではありませんでした。ところが、前年に局長になった人が若い力を取り込もうと、僕のひとつ上の代から新人を採るようになっていたのです。
 この局長が、とてもフラットな人で、「小野、ちょっと来い」と、まったくの新人の僕をガラス張りになった局長室に呼んでは、いろんな話をしてくれました。
 広告の話だけでなく、カメラの話をしたり、オペラの話をしたり、建築の話をしたり。
 考えてみれば、自分の親くらいの世代で、新人からすればとても偉い人なのですが、そんな立場の違いも関係なく、可愛がってもらいました。
 思えば、のちに偉い人に対しての抵抗感のようなものがまったくなくなっていったのは、このときの経験が大きかったと思います。
 そして、その局長がよく言っていたのが、こんな言葉でした。

 「広告は過渡期だ。広告の時代はもう終わる」

 僕にとって、初めて実際の広告会社の人から広告について聞かされたのが、そんな話だったので、衝撃でした。
 要するに、デジタルに移行しつつある世の中で、広告もどんどん変わりはじめなければならない、という空気がある。そのような状況で、リアルなコミュニケーションというものが、これからどんどん重要になっていくのだ、ということを、その局長はよく僕に話してくれていたのです。
 その局長の言葉のおかげで、僕も、過渡期にある広告業界で、広告以外で何ができるのか、何をやらなくてはいけないのか、という問題意識を持つようになっていったのです。

 そしてもうひとつ、印象に残っているのが、経理出身の10年ほど上の先輩に教わったことです。
 その先輩によく言われたのが、「お金の見方をわかっておいたほうがいい」ということでした。経理研修にも行かされたりして、最初にそれを厳しく叩き込まれました。
 広告会社なので、アイデアやクリエイティブがなにより大事かと思いきや、先輩が僕に教えてくれたのは、コストがなによりも大事、ということでした。
 いいものをつくるためには3つが必要。それは、「コスト」「スケジュール」「クオリティ」で、しかも、この順番だというのです。
 この学びは大きかった。のちにいろんなプロデュースの仕事をしていくことになるわけですが、コストとスケジュールがしっかりしていないと、途中でバタバタになって、思うようなクオリティに到達できなくなるのです。
 モノのプロデュースに関して、最初のインプットが、「コスト」「スケジュール」「クオリティ」だった、というのは、僕にとってとてもありがたいことでした。
 どんないいアイデアも、それを実現するためのコストとスケジュールがなければ、前には進みません。
 思っていたのと違う、と感じていた配属だったわけですが、結果的には、最初にとても幸運な教えをもらえたのでした。

違和感を大事にする。

 配属されてから1年ほど、あれをやれ、これをやれ、と言われたことをやって、1日が終わる。そんな日々が続いていきました。
 それこそ電話の出方からはじまって、イベントや施設の企画・デザインに関わる雑用やお手伝い。明確に具体的な働き方のイメージを持って入ったわけではありませんでしたから、こんなものかな、と素直に受け入れて、僕は目の前の仕事に取り組みました。
 もちろん、博報堂に入った当初に抱いていた、クリエイティブなことをしたい、という思いは変わらずありました。
 でも、自分が何かを成し遂げる人間になれるという自信もなく、「なるんだ、絶対に!」「有名になりたい!」といった確固たる意志があったわけでもない。
 なれるならなりたいけれど、よくわからない、というちょっとぼんやりとした気持ちで働いていたのが、1年目だったと思います。

 ただ、仕事をする上で感じた違和感は大事にしていました。
 1年もすれば、それなりに仕事も見えてきて、感じることがあるわけです。
仕事をするなかで、「おや?」と思うようなことが出はじめていきました。
 端的に言えば、僕のなかでのデザインやクリエイティブというのは、もっと自由な概念であるはずのものでした。
 ところが広告会社では当然、クライアントという存在があります。まったくの自由というわけにはいきません。だから前提として、デザインやクリエイティブは課題解決の手段である、という感覚が広告会社にはあります。
 しかし、課題解決だけを目的としていて、はたしてそれはクリエイティブと言えるのだろうか。
 もちろん、僕も建築を学んでいたので、課題を解決し、誰かのためになるものがデザインであるということはわかっていました。
 でも、それだけでは正直、物足りなかったのです。
 建築家を志していたとき、僕が学んできた建築家の人たちは、もっと自由な発想でクリエイティブなことをしていた。
 もっと言えば、広告をクリエイティブと呼ぶこと自体にも、違和感を持つようになっていきました。
 自分自身が、広告ど真ん中のクリエイティブの部署に行かずに、違う部署で傍目に見ていたから、嫉妬心のようなものもあったのかもしれません。
 でも、テレビで流れているCMを見ても、「これがクリエイティブなのかなぁ」と、どうしても違和感を覚えてしまう。もちろん、驚くようなものもあるのですが、もっとクリエイティブなものが他にあるんじゃないか、と思うようになっていったのです。
 要するに、学生が自由に発想するような、内発的で、衝動的で、エゴイスティックなデザインやクリエイティブは、会社では否定されてしまう、という空気を僕は感じていました。
 とはいえビジネスなので、それだけではダメなのも頭ではわかっています。
 かといって、そこを否定したら、やっぱりダメなんじゃないか。
 だって、それではアンディ・ウォーホルもマルセル・デュシャンも必要がないことになってしまう。
 なんだか、経済のなかに入っちゃったな、という印象でした。
 文化と経済の間にあって、クリエイティブな匂いのする広告会社は、そういうことができる場所だと思っていたのですが、その文化的側面が思ったよりも少なかったことが、実はショックでした。
 もちろんクライアントのために何かをつくり、クライアントに喜んでもらえたり、生活者に喜んでもらえたりすることも、それは大きな醍醐味です。
 しかし、当時の僕の仕事では、そこまでの実感は得られなかった。そういう仕事に巡り合えていなかっただけかもしれませんが、自分自身がクリエイティブなことができていない、達成感がない、という思いが募って、どんどんフラストレーションが高まっていきました。
 そうした違和感を少しずつ積み重ねるなかで、クリエイティブって本当にこういうことなのか、デザインってこれでいいのか、という疑問が自分のなかにちょっとずつ湧いていったのです。

モヤモヤしたら、まず動く。

 今はこんなふうに、ある程度言語化できていますが、当時、僕が持っていたのは、もっとモヤモヤした、なんだかよくわからないものでした。
 ただ、なんだかモヤモヤした思いがあることは、自分でもわかっているわけです。
 そこで、これは自分でなにか動かないといけない、と思いました。
 このときに見つけたのが、若手のための広告賞でした。入社2年目のことです。
 広告の世界では、朝日広告賞など、会社以外の場所で広告クリエイターが参加できる公募の賞がたくさんありました。
 そこで、同期のデザイナーと組んだり、同期のプラナーと組んだりして、そうした賞にどんどん応募するようになっていったのです。
 設定されたテーマに基づいて応募するものなのですが、営業でも賞に応募することはできますし、それこそ広告業界以外の人でも、学生でも参加できます。僕はコピーライターでもデザイナーでもありませんでしたが、アイデアを考えることはできます。
 ここで、ありがたいことにいくつか賞もとることができました。

 そのなかのひとつで、広告の世界では、毎年6月に行われるフランス・カンヌの広告祭(現カンヌライオンズ国際クリエイティビティ・フェスティバル)が有名なのですが、期間中に、世界各国の若手クリエイターが競うコンペティション(通称ヤングカンヌ)があり、その日本代表を決める選考会がありました。
僕はその選考会で、3部門のうち、ウェブなどのサイバー部門で2位に、ポスターなどのプレス部門でファイナリストに入ることができたのでした。
 アイデアを出して、デザインして、つくる、というのは、学生時代ずっとやっていたことです。また、ウェブに関しては、阪大時代に勉強せずに遊んでいた頃、興味を持って自分でプログラムを書いていたこともあって、古い知識でしたが、それを活かすことができました。
 そしてヤングカンヌには、実はもう1部門、メディア部門というのがあり、その代表は国内予選がなく、推薦によって決められていました。
 たまたまふたつの部門で入賞していたこともあって、僕は、このメディア部門の代表、ヤングカンヌの日本代表として、カンヌに行かせてもらうことになったのです。
 そして入社3年目の6月、カンヌで見た広告で、僕の人生が大きく動き出すことになります。

「Take your responsibility」(2010)
ヤングカンヌ・サイバー部門の国内予選に参加した際の提出作品。先進国による地球温暖化の責任を問うNPO団体のためのバナー広告。

 広告の世界が大きく変化しようとしていたことは、カンヌでも垣間見ることができました。CMやポスターがメインではあったものの、この年はデジタル、イベント、さらにはSNSを使った新しい広告が出てきた年でもあったのです。
 ここで、僕が知っている広告とは、まったく違う広告像を目にすることになります。
 これぞ僕が描いていたリアルな場を介したコミュニケーション、リアルな何かを組み合わせたクリエイティブなのではないか、というものを見つけたのです。

 ひとつはアメリカのスポーツドリンク、ゲータレードの広告。
 15年前に行われ、ドローで終わった伝説の高校生のアメフトの試合を、同じメンバーで15年後の同じ日にやって決着をつける、という企画でした。30代になって、太ってしまった元選手のおじさんたちが、この日に向けて練習して戦いに挑むのです。
 その伝説の試合を見ていた同世代の人たちも、もう一度、応援することで、あの血湧き肉躍るような感動を再び手にすることができる。
 スポーツっていい。スポーツドリンクを飲もう。そんなストーリー仕立てなのですが、この短いドキュメンタリー映像をつくるために、実際に再試合というイベントをつくったわけです。
 単にゲータレードの広告として商品を宣伝するのではなく、「15年後の再試合」というひとつの印象的な仕掛けを企画する。
 単なるCMではなく、イベントでもなく、PRだけでもないし、ポスターでもない。こういうかたちの広告があるんだ、と驚きました。

 そしてもうひとつ、僕に強烈な印象を残したのが、トロピカーナのオレンジジュースのCMでした。
 それは、CMというより、ドキュメンタリーのような映像で、こんなシーンが描かれていました。
 カナダに、冬の間、約1カ月にわたって太陽が昇ることがない、朝も昼もずっと夜のように暗い街があります。そこに太陽を摸した巨大な光るバルーンを打ち上げる。これを見た街の人たちが、大人も子どもも、わーっと集まってきて、みんなでその光る太陽を見つめる。朝のない街に、朝が来たのです。
 そして最後にオレンジジュースが配られて、みんなで喜んで飲んでいるシーンの後、こんなコピーが入って終わります。
 「We believe brighter mornings make for brighter days(いい朝は、いい一日をつくる)」

 僕は感動していました。
 広告でこんなことができるんだ、と思いました。
 「朝のない街に朝をつくる」というアイデアに、「いい朝は、いい一日をつくる」というコピーと、朝のジュースをみんなが喜んで飲んでいるシーン、ただそれだけのCMです。
 なのに、単なるCMではなく、そこには強いメッセージ性があった。
 リアルな出来事と組み合わせることで、それが可能になったのです。
 これこそ、自分がやりたいクリエイティブのヒントになるのではないか、と思いました。

 そして、もうひとつ感じたのが、最後のコピーの力強さでした。
 どうしてこのイベントが行われたか、なんのためにこのブランドがジュースをつくっているのか、それがこのコピーによって絶妙につなげられていて、一言に集約されている。「ああ、いいブランドだな」と心から思えたのです。
 言葉というものの重要さを感じました。
 僕の考えるクリエイティブは、この時点でもまだ、かたちにもなっていない、曖昧なものでした。
 でも、たぶん必要なのは、こういう力のあるコピーだ。
 建築をやっていたときも、タイトルをつけたり、コンセプトを書いたりはしていたので、簡潔に物事を語ることの大切さは、うっすらとはわかっていたつもりでした。
 でも、コピーはもっと短い。難しいけれど、とても大事な能力です。
 言葉の力を手に入れたい、僕は強くそう思うようになりました。

やると決めてから、実現方法を考える。

 こうなると、僕はもうじっとしていられなくなります。日本に帰ったら、コピーライターになろう、と思いました。
 では、どうやったらコピーライターになれるのか?
 会社に直談判するしかない、と思いました。
 自分が何かやりたいと思ったとき、これは大学時代に留学するときもそうでしたが、まずやると決めて、その次に、じゃあ、どうやったら実現できるのか?を、まず考えてみるのです。
 やりたいことが決まったら、とにかく後はどうやるか考えるだけ。やりたいときには、全力で取りにいくことです。

 このとき、冷静に思ったのは、上司や局長には人事権があるわけではないな、ということでした。人事権を持っているのは、その上の役員だ、と。
 幸いにも、仲良くなっていた局長のおかげで、偉い人に会うことの抵抗感をあまり持っていませんでした。僕はまず、局長の上にいる役員に会いに行こうと思いました。
 特別なことをしたわけではありません。役員のいる部屋を訪ねて、コンコンとドアをノックしていく。クリエイティブ領域の二人の役員に会いに行きました。
 他にも、クリエイティブディレクターや過去に他部門からコピーライターになった人にも会いました。全部で10人以上は会ったと思います。
 そして、コピーライターをやりたい、と説明しました。
 カンヌで衝撃的な広告を見た。いわゆる広告ではなく、リアルな出来事をつくって、それでブランドのフィロソフィーを伝える。そんな新しい広告がやってみたい、と。
 そのためには、どんなコンセプトなのか、どういうメッセージなのか、を言葉にする力が必要だと思った。だから、コピーライターになりたい、と。
 役員からは、「わかりました。頑張ってください」とやけにあっさり言われました。
 実際のところ、役員だけではなんとかなるわけではなかったのです。実はその反応も、なんとなく予想していたことでした。
 なぜなら博報堂は入社4年目の秋に、異動のタイミングがあるのです。
 基本は部門内での異動なのですが、たまに違う部門に行くことがある。
 コピーライターの場合は、適性テストがありました。このテストを受けてパスしないといけないのです。
 僕は、ここで全力でやらないと絶対に後悔すると思い、書店でコピーの本を買ってきて。自分なりに必死にコピーの勉強をしました。
 それだけでは足りないと、適性テストの前の1週間、思い切って有給休暇を取りました。
 テスト以外に、事前提出の課題もあったので、この1週間をフルに使い、この課題に挑んだのです。これもまた高校受験に失敗した経験からきていました。
 こういうときは、全力でやらないといけない。手加減しちゃいけない。自分ができることを、全部やりきる。そういうスタンスで挑みました。
 異動希望は第3希望まで書けるのですが、第1希望のコピーライター以外は空欄にしました。もし、適性テストに落ちたら、どこに配属されることになるかわかりません。書いていないからです。
 言ってみれば、退路を断ったのでした。でも、これも会社へのメッセージになる、そう思いました。
 実際は、もちろんテストの点数で決まります。役員が「頑張れ」と言っていたのは、そういう理由からなのですが、ただ、もし同じ点数で二人並んだらどうなるか。どちらを採るか、となったとき、わざわざ会いにきた人間、退路を断っている人間を採るのではないか、そう思ったのです。
 できることを全部やる、というのは、そういうことも含めてのことでした。

非常識を恐れない。

 いきなり役員に直談判するなんて非常識だ、と思った方もいらっしゃるかもしれません。
 でも、僕からすると、どうしてみんなやらないのか、と思います。
 「やってはいけない」というルールが明確にあったり、何かの問題を引き起こすようなことになるのなら別ですが、そうでなければやったほうがいいのではないでしょうか。
 仮にダメだったとしても、だったらどうしてダメなのか、と僕は考えてアクションを起こしていたと思います。
 やりたいことを実現したいのなら、なんでもやらないといけない、と思っているからです。
 そんなの常識に反している、と言う人もいますが、では、その常識というのは、いったいどこからきているのでしょうか。
 本当に、常識なのでしょうか。

 振り返れば、ドイツに住んでいたときも、アイルランドに留学したときも、僕がそこで学んできたのは、日本では常識だと考えていたことが、実は世界から見ると非常識、ということでした。
 日本の常識だって、時代とともに変化していったものがあります。常識というものは、危険な概念なのだ、ということを僕は身をもって実感していました。
 だから、役員に直談判に行くことも、まったく気にならなかったのです。
 まわりがどう感じようが、問われるのは自分自身です。自分が心地よくない、こうしたい、と思うのであれば、動いてみればいいのです。
 広告賞への応募、さらにはコピーライターになるべく役員に直談判に行くなど、僕がやってきたことは、多少大胆なことだったかもしれません。
 でも、それまでにも、高校留年を覚悟してドイツに行ったり、大学の途中でアイルランドに行ったり、考えてみれば、きちんと考えもせずに行動するのが、僕のスタイルでした。後のことは考えず、とにかく踏み出してしまう。
 それを後押ししてくれた、僕の大好きな言葉があります。

 「見るまえに跳べ」

 これは、大江健三郎さんの小説のタイトルです。アイルランドで日本の小説にはまって読んでいたときに、たまたま出会った言葉でした。
 言葉を換えれば、勢いで動いて、後から考える。そんな生き方をしていたのですが、結果的には、それがいい方向に働いたことが多かった。
 以来、思ったらとりあえずやってみる、を、僕は改めて自分のスタイルにしようと思ったのです。
 あれこれ考えず、こうだと思ったらまずはやってみる。戦略は後で考えればいい。
 やりたいと思ったことは、思い切ってやってみたほうがいいのです。そうすれば、なんとかなる。
 もっと言えば、なんとかなるようにやればいい。どう実現すればいいかを、考えればいいのです。

 こうして僕はコピーライターの適性テストに合格しました。
 テストの結果はトップだったと、後からこっそり聞かされました。でも、圧倒的なトップだったわけではありません。ならば今年は合格なしでもいいか、なんてことになっていたかもしれない。僕が思い切ってやってみた結果として、実現できたのです。
 この年、コピーライターに転属できたのは、幸運にも僕一人でした。

人生を懸けて、それをやりたいか。

 適性テストに合格した僕は、晴れてコピーライターになりました。
 しかし、これは入社4年目にして、また新人に逆戻りになったことを意味しています。それまでとは、まったく違う仕事がはじまりました。
 トレーナーの先輩について、コピーを書く。ポスターもCMも考える。
 実際に自分が書いたコピーや、企画したCMがかたちになっていきました。
 ただ当初は、自分のなかでは、良いのか良くないのかも判断できませんでした。良し悪しの判断をするのにも経験がいるんだな、ということがわかりました。
 たぶんこれが正しい、というようなことは言えるのです。しかし、面白いことが考えられているとは思えなかった。いいコピーが考えられているとも、いいCMが考えられているとも思えなかった。
 これが、思った以上に苦しいことでした。なんだか落ちこぼれになった気分でした。
 実際、最初のうちは僕は見習いでしたから、同じ仕事に別のコピーライターやCMプラナーが入ることもあったのですが、彼らからは面白いもの、ハッとするものが出てきたりするのです。
 これはかなわない、と思いました。
 同期からは、そんなものだよ、とは聞いていました。
 それこそ1年目なんて、何百という案を持っていっても、制作を統括しているクリエイティブディレクターには、一瞥もされずにゴミ箱に捨てられる。そんなケースも少なくないんだと。
 だから、焦らずに、しっかりやっていかないと、と思っていました。
 転属で来たばかりだったので、まわりもみんなやさしかった。出したものもちゃんと見てくれたし、指摘もしてくれた。こう考えたほうがいいよ、とアドバイスをくれる人もいました。
 まだ見習いだから劣等感を感じているだけだ、とも思いました。ただ、もう年齢は30歳、まったく焦りがなかったと言ったらウソになります。
 しかも僕にはやりたいことがありました。カンヌで見たような、リアルな出来事を組み合わせて、新しい広告をつくることです。
 言葉を早く身につけたい、と思いました。そこで半年ほどして、外部のコピーライター講座に通うことにしました。
 すべて自腹でした。同期のコピーライターからは4年遅れているわけです。早く追いつきたかったし、自分の言葉の力を身につけたかった。
 講座が良かったのは、とても純粋に取り組めたことです。クライアントにとっての正解ではなく、純粋に作品としていいものを、コピーの第一人者たちがしっかり教えてくれて、選んでくれる。クライアントの要望や意向に関係なく、広告の世界の人たちが評価してくれる純粋さがありました。
 だから、全力を尽くして考え、書きました。ただ、なかなか僕のコピーは評価されませんでした。学生や広告会社ではない人の書いたコピーが評価されたりするなかで、悔しさを感じながらも、それでもやるしかない、と頑張って続けました。
 そのうち、コピーとはなんぞや、ということが、少しつかめた感じがしました。言葉の手触りのようなものが、なんとなくわかるようになったのです。
 言葉は概念なので、手で触(さわ)れるものではありません。でも、こんなことは想像もしなかったのですが、強い言葉は「触れる」という感覚を持つことができました。
 おそらく、僕が心を動かされた「いい朝は、いい一日をつくる」というコピーも、僕にとってそれが触れるものだったから、あんなにも感動したのだと思います。
 最後の卒業制作では、先生の助けをもらいながら、ではありましたが、優秀賞の3人に選ばれることができました。
 ただ、仕事としてのコピーライターに戻ると、同時にいろんな案件は動きますし、なかなかストイックになりきれない部分もありました。そんな状況のなかで、僕はまだ悩んでいました。

 コピーライターのなかには、レトリックが上手だったり、いかに伝えるか独自の技術を持っている人もいます。僕自身は、どちらかというと、そうしたものよりは、概念やモヤモヤしている状況を一言で表す、要するにこうだよね、と言葉化することをとても大事にしていました。
 それはもしかすると、コンセプトワードをつくるのに近いのかもしれない。
 コピーライターとして仕事をしているうちに、だんだん僕はそのことに気づいていきました。自分はそういうタイプだし、そういうことが好きだ、と。
 そうすると改めて思ったのは、これ以上にコピーを極める必要があるのか、ということでした。
 もし、本気でコピーライターを極めようとするなら、今以上に必死に、本気でやり続けないと、本当の高みには行けない。もしかすると、それでも到達できないかもしれない。全力を尽くさないと、やりたいことは絶対に叶わないのです。
 そこで重要になってくるのが、「自分の人生を懸けて、それをやりたいか」ということです。
 僕は、コピーライターになったとき、3年は全力でやろうと決めていました。
 とにかく、誰よりもやる、というのをルール化したのです。
 それは、建築を学んでいたときの経験が大きかったかもしれません。
 建築を学んでいたとき、自分よりも、もっとすごい学生がたくさんいました。あれだけ必死でやって、全力を出しても、そこまでなのだから、僕は全力の全力の全力を出さないと行きたいところには辿り着けない、そう思いました。
 3年間、ひとつのことに集中した初めての経験で、自分で満足できるところまでやりきったと思っています。
 ここでいう僕にとっての満足というのは、素晴らしいアイデアがひらめいて、そのアイデアを他人が認めてくれて満足する、という表層的なものではなくて、もっと泥臭い、自分自身のなかで納得するまで、ただひたすら必死にやって、その結果得られる感情でした。
 必死にやればやるほど、他人から評価を受けたときに、感情の起伏が出るからです。
 それこそ、褒められて、うれしくて泣きそうになったり、けなされて、悔しくて泣きそうになったり。その感情の起伏は、自分が必死になってやって、初めて得られるものです。
 悔しさでも、うれしさでもいい。そこまでやってみて、初めて自分が満足できるまでやったと言えると思うのです。
 人生を懸けて、それをやりたいか、ということは、その上で見えてくる。
 これでいい、と思えるかどうかは、自分が決めるしかないのです。もっと先がある、と思えたとしても、どこで線引きをするかは自分です。
 コピーの仕事を考えたとき、3年間全力でやって、言葉の手触りのようなものがわかるようになったことで、自分が到達したいと思っていたところまでは、まがりなりにも到達できたように思いました。
 でも、人生を懸けてそれをやりたいかというと、そうではない。
 それが3年を経ての結論でした。
 目的は、コピーを極めることではない、と思ったのです。

 そしてこの後、いよいよ僕は「monom」のプロジェクトを会社に提案していくことになるのですが、コピーライターとして働いている3年の間、会社の外で起きていたことがあります。
 それが、僕のもうひとつの顔、「YOY」(ヨイ)での活動です。


第3章につづく

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