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【全文無料公開】 『会社を使い倒せ!』 #1 本気でやりたいことを見つける。

■STAGE1■
本気でやりたいことを見つける。


 博報堂に新卒で入社して7年目の春、僕は会社がこれまでにやったことがないことを、「どうしてもやりたい」と役員に直談判しました。
 「博報堂でモノづくりをしたい」、その思いが噴出したのです。
 自分が本当にやりたいことが見つかって、行動に移さずにはいられませんでした。

 しかし、僕自身も、「博報堂でモノづくりをしたい」という気持ちを持つとはまったく考えていませんでした。
 そもそも、単純にモノづくりがしたいと考えるなら、広告会社は選んでいなかったと思います。
 しかも、僕は大学では建築を学んでいました。
 それがどうして、広告会社なのか。はっきりとした意思があったのか、と問われたら、流れに身を任せたというのが正直なところです。
 さらに、僕は大学を途中で替わっているのですが、そもそも学部の選択にしても、確たる将来への道筋が立って選んでいたわけではありませんでした。会社選びも同じです。

 では、そんな僕がなぜ「本気でやりたい」と思うことを見つけるに至ったのか。
 ポイントは大きく3つあると思っています。

  〇 この道じゃない、と思ったら逃げる。
  〇 非常識を恐れない。
  〇 会社の外で自分を試す。

これから、僕がやりたいことを見つけるまでの話を詳しくしていきたいと思います。


第1章
生い立ち、そして広告会社に入るまで。


物事をなめてはいけない、を知る。

 なぜ僕が、本気でやりたいことを見つけられたか。そしてそれを実現させるために「会社を使い倒す」という手段を選ぶに至ったのか。
 振り返ってみると、それは僕が会社に入る前に経験した、さまざまな失敗、回り道によって学んだところが大きいと思っています。
 本題に入る前に、まずは僕の生い立ち、会社に入る前の紆余曲折について、お話しさせてください。

 僕の両親は幼い頃に離婚していて、僕は母方で育ちました。
 母は大阪で大学の先生をしていたのですが、今も覚えているのは、保育園に通っていたとき、母が僕を迎えにくるのが、とても遅かったことです。
 当時、母は助教授になる前で、研究もしながら子育てもして、特に大変な時期だったそうです。
 まわりの友達の親がどんどん迎えにくるなかで、決まって最後は僕一人。
 ようやく迎えにきた!と思ったら、母に頼まれて代わりに迎えにきてくれた隣のおばちゃんだったりして、やっと帰れるけど、オカンじゃない……と、ちょっとせつない気持ちになったのを覚えています。
 姉もいたのですが、歳が5つ離れていたので、僕はわりと一人遊びをしていることの多い子どもでした。
 一人でずっとブロックやレゴで遊んでいて、母も、それを与えさえしておけば僕は楽しそうに遊んでいるし、そういうことがこの子は好きなんだろうな、と思っていたようです。
 つくったものを母に褒められるとうれしくて、今思い返せば、それが僕のモノづくりの原点だったと思います。
 小学校の卒業文集では、おそらくテレビで見てかっこいいな、と思ったくらいの理由だと思いますが、建築家になりたい、と書いていました。
 テレビゲームや一部のアニメなど、わずかに禁止事項はあったものの、基本的に放任でした。悪いことをしない限りは怒られたりもしない。
 4年前に僕が結婚したとき、結婚式で母への感謝のスピーチをするにあたって、改めて何がありがたかったか振り返ってみたのですが、わかったことは、僕はとても「わがままに育てられた」ということでした。
 思い通りにいかないと、とにかくごねるし、叫ぶ。だから、反抗期には、母はとても苦労したと思います。
 ただ、わがままに育てられたおかげで、やりたいことがあったとき、人よりも遠慮せず主張する性格になったのだと思っています。
 自由にさせてもらったし、どういう道を選ぼうと、なにか縛りをかけられることもほとんどなかった。母にはとても感謝しています。

 母に言われていたこととして、強烈に覚えているものがあります。
 小学校、中学校と、母から「勉強しなさい」と言われた記憶はまったくないのですが、その代わりにおまじないのように言われていたのが、この言葉。
 「家から通える国公立」
 学校の偏差値のレベルがどうとかではなくて、とにかく「家から通える国公立」と、それだけを繰り返し言われていました。
 実際、姉は高校も大学も国公立に進みましたし、僕も高校受験を控えて、その言葉をいよいよ実行するときがやってきました。
 小学校、中学校と勉強は比較的よくできるほうだったと思います。
 めざすことになったのは、学区内で最も偏差値の高い公立校でした。私服で通える自由な校風でもあり、それだけに人気がありました。
 受験を控えて勉強もしていた僕は、事前の模試では「A判定」をもらっていました。
 それもあって、間違いなく合格できると思っていました。まぁ、余裕だろう、ぐらいに考えていたのです。
 実際、入りたいと思っていた高校はアルバイトもOKだったので、僕は、春からの新生活に向け、あろうことか受験の前日に、アルバイトの面接まで受けていました。
 そして合格発表の日。
 僕は第一志望の高校に見事に落ちました。
 これはもう本当にショックでした。受験前には、不安になっている友人を励ましたりもしていたのに、その友人が合格していて、励ましていたはずの僕が不合格。
 あんなに言われていたのに、「家から通える国公立」を実現できなかった。
 端的に言えば、なめていたのだと思います。
 関西弁で「ちょける」と言うのですが、完全に調子に乗っていた。うわべでちょけるだけならまだしも、本質のところは、やはり全力でやらなければダメだったのです。
 初めての受験で、大失敗。まだ小さな世界で生きている中学生にとって、これはかなり大きな挫折でした。

 ただ、このときの経験が、大きな学びを与えてくれました。
 それは、物事を絶対になめてはいけない、ということです。
 どこか自意識過剰なところが人によってはあるものですが、僕もそういうタイプで、ここぞというときに、それが自分にとって不利になるということ、決して自分を過信してはいけないということを、このとき、骨身に沁みて学んだのでした。
 どれだけ全力を尽くして準備しても、本番では80%ぐらいになるかもしれない。
 全力以上を出しきって、初めて本番で100%になる。だから絶対にギリギリまで手を抜かない。
 このことは、僕のこの後の人生のあらゆる局面において、強い武器となっていきます。

 今でも思うのが、このとき高校に落ちたのが、すべてのはじまりだったということです。
 僕の受験失敗の後、親戚の集まりに行く機会があったのですが、大叔母にこんなふうに言われたのです。

 「これもご縁やで。全部あんたのためなんや」

 要するに、その志望していた高校に行かなかったことも、なにかの縁で、結果的に僕にとっては良かったのだと言うのです。神様がそう言っているのだ、と。
 それを言われた当時は、正直「なに言ってんねん」と思っていました。
 こっちは受験に失敗してショックを受けている真っ最中です。とてもそんなふうには思えなかった。
 しかし、そのときにはまったく理解できませんでしたが、この言葉が、その後の僕の人生で、とても大切な言葉になっていきます。
 失敗しても、回り道しても、それは全部自分のため。
 起こったことには必ず意味がある。
 それをどう自分のためのものにするかを考えること、それが大事なのだと。

 行けると思っていた高校に落ち、滑り止めで合格していた私立高校に進学することになった僕は、それを早速、実感することになります。

回り道すると、視野が広がる。

 僕が通うことになったのは、大阪でも最大級のマンモス校。生活指導が厳しいことでよく知られた私立高校でした。
 私服ではなく制服。もちろんアルバイトは禁止です。
 自由な高校生活を思い描いていた僕にとって、フラストレーションだらけでした。
 また、スポーツも盛んで、有名スポーツ選手を多く輩出している学校でもありました。
 中学時代に軟式テニス部に入っていたこともあり、高校では硬式をやろうかな、と軽い気持ちで考えていたのですが、これがガチの体育会系。全国レベルでインターハイをめざすような部だったのです。
 それはさすがに……と思っていたら、なんと第2テニス部というものがありました。要するにインターハイはめざさないほうのテニス部です。それならなんとか、と入ってはみたものの、僕にはそれすらキツかった。
 これは無理だ。僕に体育会系の道はない。
 もともと行きたかった高校でもない。
 私服じゃないし、アルバイトもできない。
 僕のフラストレーションはどんどんたまっていきました。

 そんなとき、ふと、母から言われたのです。
 「一緒にドイツに行く?」
 母は大学でドイツの政治思想の研究をしていて、その年にドイツに1年間留学することになっていたのです。
 僕が高校に進学する前から、もともと決まっていたことだったのですが、当時大学生だった姉は日本に残ることになっていたので、僕も一緒に行くことは考えていませんでした。
 このときもし、行きたかった高校に行っていたら、その気はまったくなかったのかもしれません。ですが、そのときの僕は、自分の置かれている状況に不満がありました。
 だったら、環境を変えてみるのもいいのかもしれない。
 僕はドイツ行きを真剣に考えるようになりました。

 結局、僕は入学したばかりの高校を、1カ月ほどで休学。
 母と一緒にドイツに行くことになりました。
 これが、僕の人生にとって、ひとつの大きな転機になります。

 5月にドイツ・ミュンヘンに渡った僕は、まずは3カ月間、現地の語学学校に通うことになりました。
 9月からは、母の方針で、インターナショナルスクールではなく、現地の高校に通うことになっていました。当然、授業はドイツ語なので、これはもう死活問題です。
 ドイツ語がまったくわからない状態で行ったのですが、ドイツ語の語学学校で、ドイツ語のまったくわからない人にドイツ語をどう教えるかというと、英語を交えて教えるのです。英語もそんなにできるわけではなかったので、これには本当に苦労しました。
 日本人はほとんどいませんでした。現地の高校には一人もいませんでした。
 週に一度だけ、土曜日に日本人コミュニティのなかで国語や漢字などを学ぶ学校があって、そこだけが唯一日本語が使える場所でした。

 そんなドイツで僕が手に入れたのは、日本にいたのでは手に入れられなかったに違いない、異なる価値観でした。
 ドイツの学校は、ギムナジウムといって、日本でいう小学校高学年と中高が一貫になっているのですが、同じ学年のクラスでも、いろいろな年齢の人がいました。
 というのも、日本では考えられないことですが、ドイツでは、たとえ中学生の歳でも単位を落としたら当たり前のように留年するのです。単位を落とした科目だけ、もう1年やり直し、というのも普通のことで、敬語などもなく、年齢が違っても、とてもフラットでした。
 また、専門職をめざす学校に進む道もあり、日本のように、当然のように9割超が高校に進学する、というようなこともありません。
 なるほど、世界ではこうなのか、と思いました。
 1年や2年遅れようが、他の道に進もうがまったく大した問題ではない。特別なことではないのです。
 異国の地で、自分が当たり前だと思っていたことが実はそうではないと気づかされ、視野が一気に広がった瞬間でした。

 一方で、現地の学校では、人としゃべれないということが、こんなにもつらいことなのか、ということを痛感しました。
 絵を描いたり、スポーツをしたり、言葉のいらない授業はよかったのですが、いちばん大変だったのは国語や倫理の授業でした。倫理の授業はおじいちゃん先生が教えていて、何を言ってるのかまったくわからないし、そのくせ当ててくる。
 わからないし、言いたくても言えない。
 孤独を感じることもありましたが、思春期の多感な時期に、そういう複雑な感覚を得られたことは良かったと思っています。

 こうして1年のドイツ生活を終えて、日本に戻ってきた僕は、1年遅れで高校に復学しました。
 もともとの同級生たちは2年生になっていて、制服のネクタイの色も変わっています。
 僕は再び1年生からでしたが、ドイツでの経験もあり、1年遅れたことについては、思ったほど気になりませんでした。
 どちらかというと、同じクラスになったひとつ下の子たちのほうが、僕のほうが年上だと知って距離感を測りかねていたかもしれません。ですが、僕自身は学校以外のコミュニティもあり、それなりに楽しい高校生活を送ることができました。
 そして、次に待っていたのが、大学受験です。

この道じゃない、と思ったら逃げる。

 次こそは「家から通える国公立」だと決めていたので、今回は私立も受けませんでした。すでに人より1年遅れていたのもあり、浪人はしないと考えていたので、もともと京都大学を志望していたのですが、ギリギリの線よりは確実なところを狙おうと、最終的に大阪大学を受けることにしました。
 そういう意味では、大学は偏差値で決めたようなところがあったのですが、学部学科は自分が興味のあったことから決めました。
 工学部に行って建築を学ぼう、と。
 もともと絵を描いたり、なにかモノをつくったりするのが好きで、なんとなく、その頃からクリエイティブなものへの関心がありました。
 小学校の卒業文集でも建築家になりたいと書いていたこともあって、工学部の建築工学科を志望することにしました。
 高校受験の苦い思い出があったので、今回は最後の最後まで気を抜かず受験勉強に取り組み、無事に合格。

 こうして、僕は2001年に大阪大学工学部に入学しました。
 さあ、建築をやるぞ!という気持ちでいたのですが、ここで思わぬ落とし穴がありました。
 大学が楽しすぎたのです。
 今までは進学校にいて、まわりも自分も当たり前のように勉強している環境だったのに、大学に入って、勉強しなくてもいい、という初めての状況に置かれた。
 「もういいだろう」というような気持ちもあり、すっかり大学の楽しい雰囲気に持っていかれてしまったのです。
 だから本当に、まったく勉強せずに毎日遊んでいました。
 そしてショッキングな事態が起こります。
 建築工学科に進むためには、1年生のうちに、ある程度の成績をとる必要があるのですが、「これはとっておかなければならない」という大事な単位を落としてしまったのです。
 志望していた建築工学科に進むことが、できなくなってしまった。
 自業自得といえばそれまでですが、やりたいことができなくなったとわかって、僕はますます勉強しなくなりました。
 阪大時代は、人生のなかで最も勉強しなかった時期だったと思います。

 建築家になる目標は失われました。
 僕が進むことになったのは、船舶海洋工学科でした。造船を学ぶ学科です。
 このまま造船を学んでいけば、将来は造船系の会社に入るか、流体力学の知識を活かして自動車や航空、機械の世界に行くか。
 先輩たちの進路を見て、なんとなくそのへんなのかな、というフワフワした気持ちで、僕はあまり深く考えてもいませんでした。
 そしてそのまま3年になり、造船会社にインターンに行くことになりました。
 そのインターンで、ようやく僕は目が覚めます。
 「この道じゃない!」
 現場の雰囲気も、仕事の内容も、僕のやりたいこととは違う。
 ルールもガチガチに決まっていて、とにかくつらかった。
 ここは僕のイメージとは違う、とはっきり思ったのです。
 そもそも僕はクリエイティブなことが好きで、やりたかったはず。
 造船も、もちろんクリエイティブのひとつではあるけれど、僕にとってはこれじゃない、という確信がありました。

 そう思ったときに、就職を強く意識しはじめました。そして、普通の企業に就職してサラリーマンとして働く、という未来が迫ってきている感覚になりました。
 ただ、僕は常々、母から「サラリーマンはやめとき。大変やで」ということを言われていたのです。
 母もずっと大学にいて、会社に就職したこともないので、あくまでイメージで言っていたのだと思いますが、いわゆる典型的なサラリーマン――汗水たらして、頭下げて、みたいな姿を思い浮かべると、そんな大変なことが、自分にできるのか?という恐怖心のようなものが湧き起こりました。
 どうしようもなくなって、あることを思いつきました。

 ひとまず逃げよう、と。
 僕は、母に「海外に1年間、行ってもいいか」という相談をしました。
 「お金はないから貸してほしい」とも。
 語学留学をしようと思ったのです。
 確たる理由や展望があったわけではありません。造船は自分の道ではない、と思ったとき、真っ先に浮かんだのが、ドイツ時代に苦労したおかげで得意だった英語でした。
 海外に行って、英語をちゃんと身につけよう。そうすれば、いろいろ決めるまでの猶予もできる、そう考えたのです。言ってみれば、前向きな「逃げ」です。
 お金は絶対に返しなさい、と母に言われながら、僕は海外行きを決めました。
 行き先に選んだのは、アイルランドのダブリン。どうせ行くならちょっと変わった国、しかも日本人が少なくて、方言があるところがいいと思ったからです。

 こうして僕は、大学3年の後期から日本を離れました。
 語学学校に来ていたのは、スペインやイタリア、スウェーデンなど主にヨーロッパから英語を学びにきていた人たち。留学してしばらくして仲良くなると、当然いろんな話をすることになります。
 どうして日本から来ているのか、と問われて、僕は事情を説明しました。
 学びたい学科に行けなかったこと。進んだ学科がピンとこなかったこと。それで得意な英語を伸ばしたいと思ったこと……。
 返ってきたのは、びっくりする答えでした。
 「え、建築やりたいんでしょ?なんで大学替えないの?」
 「替えればいいじゃん。スペインでは普通だよ。オレなんか大学は3つ目」
 聞いてみると、学生はもちろん、一度、働いた経験がある人や、仕事を中断して来ている人もいました。それこそ、いろんな生き方をしているのです。そして、みんな楽しそうに生きていました。
 大学を辞めて、やりたいことをやるために別の大学に入り直すなどというのは、「普通」のことではないと僕は勝手に思っていました。でも、彼らにとってはまったく普通のことだったのです。楽しく生きられない人生を送って、どうするのか、と。
 彼らの言葉がストンと腑に落ちました。
 僕は、おかしな「普通」に邪魔されていたのかもしれない。大学を辞めよう、と思いました。別の大学に入り直そう、と。

 僕はその足で国際電話のできるインターネットカフェに行き、母に電話を入れました。
 「ごめん、お金かかるからあと2分くらいしか話せないけど、別の大学に編入したい」
 母は「なに突然?」と驚きながらも、意外にも、すんなり受け入れてくれました。
 本当は建築をやりたかったのに、できていなかったことは母も知っていました。やりたいことがあるのに、このままなんの目標もなく就職するより、こっちのほうが正しい選択だと思ったし、母もその考えを理解してくれたのだと思います。
 数日後、母がこう言ってきました。
 「すぐ帰ってきなさい。試験が来月にあるから」
 さすがにアイルランドから日本の大学の編入試験の情報は探しにくかったので、母が大学をいくつか見つけてくれていたのです。
 今回も条件は決まっていました。「家から通える国公立」です。
 となれば、選択肢は限られます。
 諸条件を見て僕が選んだのは、京都工芸繊維大学でした。最初の受験のときに興味を持っていた学校だったことと、編入が盛んだったことが決め手になりました。
 そうと決めたら行動あるのみ、です。1年間の予定で、まだ3カ月くらいはいるつもりだった留学を途中で切り上げ、僕は日本に戻ってきました。

 編入なので、試験内容は全教科ではなく、数学、英語、もうひとつが論文かデッサンでした。僕は国語が苦手だったので、論文はないと思ってデッサンを選択。
 しかし僕は、阪大時代、まったく勉強していなかったわけです。
 実は編入試験はたいへんな難関だということを、このとき知りました。高専からの編入希望者も多いので、倍率は編入のほうが一般入試よりも高かったのです。
 これは危ない、相当にしっかりやらないと、と思いました。
 このときに浮かんだのもまた、高校受験に落ちた苦い思い出でした。なめてはいけない、ということです。だから、短期間とはいえ全力で準備をしました。
 幸いにも英語と、デッサンも高校のときに絵の学校に通ったりもしていたので、多少のアドバンテージがあり、無事、編入試験に合格。
 大学3年が終わる3月末に大阪大学の休学期間が切れ、辞めてそのまま4月に京都工芸繊維大学に入学しました。
 通常は3年生から編入するのですが、建築は専門性が高いため、建築を学んできていないのであれば2年生からやったほうがいい、と言われました。
 留学期間も含めると、大阪大学に4年在籍してから、京都工芸繊維大学で3年なので、ずいぶん回り道になります。
 でも、そもそも高校も4年行っていたわけですし、僕としては、「もう、ええねん!」という感じで、その状況を楽しんでいるようなところがありました。
 実際、こんな経験をしている人はあまりいないだろうし、人と違っているほうが、むしろ面白いんじゃないか。
 回り道が、自分の特異性をつくってくれるということです。
 今思い返してみても、このとき回り道をして良かった、と感じています。

自分で決めたら、本気になれる。

 編入後は、それまで勉強していなかった反動もあってか、前のめりで勉強に向かいました。学校にずっとこもって建築の本を読んだり、実際の建築物を見に行ったり、模型をつくったり……。とにかく建築漬けの毎日。それこそ、建築雑誌の何ページに何が載っていたか、なんてことまで覚えていました。
 それはたぶん、自分で選択したからだと思います。
 自分で選んで決めたから、本気になれた。一生懸命になれた。そして、本当に楽しかった。
 そうなると、不思議と結果もついてくるのです。
 僕は意匠設計を専攻していたのですが、設計の授業でいい成績がとれたり、学内外の賞をとったりもしました。
 もちろん、評価が悪いときもありました。そういうときはものすごく悔しいし、でも、逆に評価されたら、涙が出るほどうれしい。そういう感情の起伏は、初めての経験でした。
 4年生のときには、学生に限らず応募できる建築のアイデアコンペで、友人と二人でグランプリをとったこともあります。賞金は200万円。学生にとっては大金です。
 僕はこれを友人と山分けし、100万円すべてを卒業制作につぎ込みました。
 そもそも建築は、模型の材料を買ったり、地方に建築を見に行ったりと、とてもお金がかかるのです。そのためアルバイトもしていたのですが、建築に打ち込むためにアルバイトは最小限でした。
 そして、建築学科の卒業制作は後輩に手伝ってもらう文化があり、その後輩たちにご飯をおごるというのが、これまた文化でした。
 僕は、賞金をそれにつぎ込むことができたので、アルバイトも辞め、その間ずっと卒業制作に没頭しました。
 建築に夢中になって、いろいろなことを学びました。
 建築の知識はもちろんこと、どんな視点を持つか、というコンセプトの立て方も学びました。いろんなアプローチを見ることで、コンセプトの新しさがいかに大事か、ということも徐々にわかっていきました。

卒業制作「うるおいのめいろ」(2008)
「商業と文化の間」をテーマに、大阪の梅田のすぐ近く、中崎町と呼ばれる木造密集地域の一角に、集落のような商業施設を計画した。

 そして建築を学びはじめてから2年が経ち、次第に将来のことを考える時期になってきました。
 建築の設計の道は、大きくいうとふたつに分かれます。
 ひとつは、ゼネコンや組織設計事務所と呼ばれている大きな会社の設計部で、ビルをつくったり、スタジアムをつくったり、大きな商業施設をつくったりするもの。
 もうひとつは、アトリエと呼ばれる建築事務所で、伊東豊雄さんや隈研吾さん、安藤忠雄さんなどの事務所がよく知られているところです。
 建築を学んだ学生の6、7割はゼネコンやインテリアの会社など、いわゆる企業に入ります。残りの1、2割がアトリエに行き、企業への就職の道を選ばない。
 ただ、大学の学部卒業時に就職するのは1割ほどでした。9割は大学院に進むのです。大学院卒のほうが就職しやすいからです。
 僕はその頃、アトリエに入って、いずれ独立して建築家になりたいと考えていました。実際、インターンも、アトリエ出身の建築家のもとでさせてもらっていました。
 こうして建築にもいろんな道があることを知っていったのですが、たまたまなにかの機会に見た就職の本で、恐ろしい事実を知ることになります。
 新卒採用は25歳まで、という年齢制限が定められている会社があったのです。
 言ってみれば、年齢による足切りです。仮にその会社に行きたくても、年齢制限に引っかかって受けることすらできない、ということです。
 僕は高校で1年多く、大学では3年多く過ごしていました。
 もし、この先2年間、大学院に行ったら、年齢による足切りで、行ける会社の幅、選べる道の可能性がかなり狭まってしまう。
 にわかに僕は焦りはじめました。
 そこで、建築以外でクリエイティブな匂いのするところを、ひとまず学部卒として受けてみたらどうか、と思ったのです。
 受からなければ、そのまま大学院に行けばいい。そのくらいに思っていました。
 このときに浮かんだのが、阪大時代の先輩が、大手広告会社の電通に就職していたことでした。
 加えて当時、『広告批評』という雑誌が面白くて、よく読んでいたこともあり、広告会社を受けてみよう、とエントリーしたのです。
 そうしたら、自分でも予想していなかったのですが、博報堂にも電通にも受かってしまった。先に内定が出たのが、博報堂でした。
 建築を学び、建築の道に進もうと思っていたのに、年齢制限に焦って会社を受けてみたら、たまたま、決まってしまったわけです。
 正直に言えば、大学院に行かずに、建築とは関係のない会社に決めてしまった理由というのは、これだけだったりします。
 ただ、これもなにかの縁なのではないか、と思いました。
 高校受験に失敗したとき、「これもご縁やで」と言っていた大叔母の顔を思い浮かべたのです。
 その後、電通の内定をもらったのですが、僕は業界最大手の電通ではなく、博報堂を選びました。
 単に天の邪鬼ともいえるかもしれませんが、単純に大きいほうを選ぶ、という普通の価値観は避けたいと思ったのです。そのほうが「自分で決めた感」があったからかもしれません。
 
 こうして僕は、博報堂に就職することになりました。
 せっかく編入までして学びに行ったのに、結局、僕は建築家になる道は選ばず、しかも、母が「大変だからよせ」と言っていたサラリーマンになることになったのです。
 でも、この頃にはもう、僕は「起こったことには必ず意味がある」と、自分に起きたことはすべて肯定しよう、と強く意識するようになっていました。
 もちろん、クリエイティブな匂いのするところに行ける、という期待もありました。
 もっともこの頃は、自分がどんなクリエイティブをやりたいのか、まだぼんやりとしていたのですが……。


第2章につづく

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