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山口晃画伯、暁斎を語るの巻

1年前の山口晃さんが河鍋暁斎を語るトークイベント、お相手は暁斎の曾孫さまでいらっしゃり暁斎美術館館長の河鍋楠美さん。聞き流すにはあまりにもったいなく議事を取っていたので、いつかどこかで誰かが「お!有難い!」と思ってくれる日を願いここに残しておきます。

講演会「画家と子孫の眼差し 〜 私見・絵師の魂 対談:山口晃/河鍋楠美」 2018年6月3日(日)  ※東京富士美術館で2018年4月~6月開催された「暁斎・暁翠伝 ─先駆の絵師魂!父娘で挑んだ画の真髄─」を記念した講演会

以下議事録

3行サマリ
1. 暁斎は明治、また戦後の西洋的評価の流入により忘れ去られた画家
2. 暁斎のすごさは本画よりも下絵にあり
3. 筆画や下絵から伝わる画家が描いている時の躍動感を感じて欲しい

序章:忘れ去られていた画家暁斎

山口晃さん(以下、山): 明治時代、地ものは軽視されてた。例えば建物、中国から来た寺院はいい、寝殿造や住宅はだめという。
河鍋楠美さん(以下、河): 暁斎は高い評価を受けていた画家ながら戦後以降消えてた。山口晃の変な日本美術史で取り上げてもらった。暁斎を継ぐのは山口と言われてる。
:(恐縮しきり)

第1章:暁斎の素晴らしさは下絵と即興画にあり

:暁斎の再発見された頃、暁斎は戯画の画家と見なされていた。
:はじめ戯画ばかり見せられ辟易した
:本当は戯画ばかりではない。よい絵を見てほしい。本画は売れるが下絵は売れないため河鍋家に本画はほとんど残っておらず下絵だけが残った。
:しかし、本画はかたい、下絵はいい。本画は塗り絵のよう、というのが自分の感想。
:今回後期展で最初に展示した下絵と本画は、下絵があまりに良く、並べないで欲しいとリクエストして並べないでもらった(壁の角を隔てて90度の位置に展示)本当は下絵がいいが日本の人は下絵を喜ばない。

:画家は下絵を見たい。工房なら本画は弟子が描いてるかもしれない。自分は下絵より生き生きした本画を描けたことがない。なぜなら下絵を書く時の方が描く対象を見てる深さが違う。本画は下書きを見てしまうが下絵は画面の白と本物しか見てない。本画は精気が抜ける。画面に現れていないものに向かってあがく生々しさが下絵にはある。いかに絵は一回目を捕まえるのが難しいかということ。その意味で席画はいい。※席画:酒席などで依頼に応じて即席に描く絵
:席画は戯れという偉い学者もいる。展覧会に席画はふさわしくないので展示しないでくれと言われたこともあり、ずいぶん悔しい思いをした。今回の展覧会の入口の複製画幕絵は酒席で4時間で描いた。あれは書画会(料亭で画家を招いて描く会)で描いたもの。4時間で描ける人がいますか?
: とても叶いませんがやってみたいという気持ちもある。今年か去年か記憶が定かではないが(実際は2017年10月)墨田区美術館で北斎の大ダルマを描いた。
:絵日記は普通人に見せないが、見せると似顔絵が似てるから機嫌を良くして持って行ってしまい散逸してしまった。一回の書画会で200枚くらい描いた。接待もするから200枚しか描けなかったということで、本当は1000枚描けたはずと言っていた。暁斎は普段は真面目で小心者、狩野派らしく描くが、お酒を飲むとくだけて自由に描く。その時の早さがすごかった。

第2章:日本画における平面性と立体性

:筆の絵は平面の紙に表すまでの描く人間の3Dの体の動きが見る者に伝播してくる。その画家の境地や興奮が快感として見るものに伝わる。それを感じるのが絵の鑑賞の一番の楽しみ。解釈は二の次三の次で料理でいう品書きのようなもの。料理の材料で格は決まるけど、格など関係のない、食べた時の「ああ。。。」しか言えない感動を感じるのが醍醐味。絵でもどうしてもモチーフの格とかを見てしまいがちなのだが。また、暁斎の絵は人間の重心がわかる。見ていると身体がグッと反応する。本来の体の動きがそのまま図に乗っている感じ。多分フィギュアにしたら立つだろうという重心のバランス。人体をよく知っている。
:デッサンの正確さと描く速さはヨーロッパの人がとても喜ぶ。
:自分が教えている大学の建築学科の生徒は福笑いのような絵を描く。平面に目と鼻と口を並べたような顔の絵。暁斎は頭蓋骨の眼底も理解して描いてるし、しかも、そのことによって完成図が阻害されることはない。暁斎は骨から描くことが有名だが自らの確認のためにやってるのだと思う。本当に骨が透けて見えるような描き方をしたら邪魔になってしまうもの。顔については暁斎は2次元な描き方をしており、暁翠は3次元的な描き方に足を踏み入れてるなあという印象。骨から起こすとその先は絵が壊れる可能性があるが暁斎にはそれを超えないセンスがあった。また、特に席画のような絵において暁斎はある意味絶妙に福笑いもしている。(席画の)例を見ると、顔、腕、足がバラバラでそれを組み合わせているようにも見える。これは単なる3次元の正確さとは違うもの。洋画を習ってしまうとできない画面の作り方で、どうやって先祖返りできるかな、と自分の課題として考えている。

第3章:暁翠の評価

:2人のカラスを見比べるとよくわかるのが、暁斎の木の枝の立体感。3筆で立体感を出してしまうすごさ。ただ立体的に描いているわけではなく、「平らにに見えないように描いている」が正しい。立体ではないなにか。一方、暁翠の枝はちょっとのっぺりしている。暁斎は人物の重心がどんとくるように、枝についてもそういう感じがある。暁翠のものは幹がちょっと立体的ではない。花は繊細で素晴らしいのだが。日本画は2次元的だけど、暁斎は3次元への志向を感じる。視覚的な立体感より認知、知覚に近い立体感。暁翠はそこが弱いせいで花のような装飾性が良いのかもしれない。暁斎の立体感に装飾性は合うかはわからないので。

第4章:絵の伝承について

:大学の先生は今は生徒の前で描いてくれない。昔の先生は全部目の前で描いてくれた。自分が描いてみて描けなくて、先生が描いて描けるのを見ると、わー!そこか!と思う。昔は弟子が先生を値踏みしていたが今は先生が描かない時代で、大学で誰が自分の先生かもわからないまま入学する。ちょっと前の漫画家の内弟子制度でもそうだが、弟子は先生の呼吸がわかり、先生のすごさがわかった。それが直伝の良さ。作品に至るまでの先生の呼吸、紙に至って現れるまでの境地を見せるというプロセスがあった。生徒は先生との資質の違いを知って自分の形を出すようになる。例えば暁斎は赤が強すぎる時がある。うわっと来過ぎる時があるが、暁翠はピタッと赤がはまる。暁斎と自分の違いを知って自分の道を見つけ、違う形で発揮できた部分だと思う。

第5章:暁斎の真の評価のために

:席画の話に戻るが、酔って描くと結局手癖でしか描けない。酔ってあれだけ描けるのはどれだけ凄いかということ。
:狩野派でも最初の試験で玉をまず描く。玉を書いて正確な筆法を学ぶということ。
:席画で現れてくるものは筆法を飲み込んだ上で出てくるもの。暁斎は構図がえげつないほど決まっている。西洋の透視図法とは違う遠近の出し方。ピタっと決まった構図は人の心を整える。
:今後の暁斎、暁翠の研究を進めるため二人の知人がいたら教えてほしい。交友関係図をまとめているが、知人を知ることにより本人が浮かび上がることが多い。人は悪口が好きなので悪口は後世に残りやすいが、特に暁翠についてはほとんど何も残っていない。祖母としての暁翠はとてもやさしく怒ったことがなく、教え子からも大変な尊敬を集めていた。橋本雅邦は芸術家と呼ばれているが暁斎は絵師という評価で市場の価値、評価が低い。本当は雅邦よりも優れた画家であると思うし評価を上げていきたい。今はまだ戯画の画家と思われ真面目な絵だと暁斎と思われない。今から北斎研究をしても既に研究され尽くしていて遅く、今からやるなら暁斎がおすすめ。ぜひ研究に協力してほしい。暁斎は自分を芸術家などと威張っていない身近な画家で、今ならまだなんでも研究材料にできる。
:研究とまではいかなくてもぜひ暁斎を見てみてください。一旦消え、評価がされなかったのは明治時代の評価の混迷に原因がある。評価軸を外国との比較でやってしまったことにより、本来の評価、評判が無かったことになってしまった。
:山口先生の暁斎評価は心強かった。暁斎を継ぐ者と言われる山口先生に頑張ってほしい。
:(しきりに恐縮)

+ + + + + 


敬愛する山口画伯、ホワイトボードに次々に説明のための絵を描きながらのトーク。描いては消し描いては消し、あれも勢いのある即興画。「ああ、もったいない…」と思いながらの議事取りでした。


※序章〜第5章の章立てとタイトルは筆者が付けたものです


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