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イメージと、われわれと、とらわれ

「もっと◎◎だと思った」
「きっと◎◎だ」
「◎◎に違いない」
意識の有無にとらわれず、毎日フィルターをかけて、ものを見ている。
正確には「もの」の実態というよりも「もの」にまとわりつく「イメージ」
最近は「もの」より「イメージ」のほうが実態になっていることもあるなーと思うこともしばしばある。

とはいえ実在するもの・こと・そして人に出会うと、意外性や想定外や不思議さ、わからなさを誘発してくれる。自分の中にあったとらわれがグラグラと揺らいでいる。年齢を重ねれば重ねるほど、正直、その揺らぎは居心地の悪さもある。でも揺らいでいない平坦なものは異質な物事を取り除いた逆の不気味さがある。

どれだけの「きっと」「もっと」「思った」ことから、変化を持ち続けられるかなあと、たくさんの価値観や言葉に触れて思う。

合わせて切ないこともある。
実態として思いや行動が伴っている人たちをたくさん見ていたり、触れ合ったりしていると、不意に「◎◎に違いない」という悪意のない小石を投げられることもある。しかも意外と近いところから投げられたりするのでびっくりする。「マジかよおおおおおお」って切なくなる。


とらわれによるボタンの掛け違いは「住む世界が違うから」と言って解決というか、見ないこともできるけど、やっぱ私はそれはいやだな…。

という小さな宣言を残し、今日も夕ごはんをつくる。

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