見出し画像

【Opera】オペラシアターこんにゃく座『遠野物語』

 民俗学の先駆けともいわれる柳田國男の名著『遠野物語』をこんにゃく座がオペラ化すると聞いた時、思わず膝を打った、「その手があったか!」。民話を題材にした作品や宮澤賢治作品のオペラ化など、異世界と交流するファンタジーはこんにゃく座の得意分野だし、何より「日本語による音楽劇」にこだわってきた彼らが、「日本なるもの」を言葉によって紡いだ『遠野物語』を取り上げるのは当たり前にたどり着いた場所に違いない。むしろ、今まで何でやらなかったんだ、ぐらいの。果たして、オペラ『遠野物語』は期待以上にこんにゃく座ならではの、こんにゃく座にしかできない作品だった(台本は長田育恵。演出は眞鍋卓嗣)

 『遠野物語』は柳田國男が、遠野在住で小説家志望の佐々木喜善という人から聞いた話を書き留めて編纂したもので、神々や妖怪、幽霊、座敷わらし、神隠しなどの「不思議なものごと」からなる119の小さな話が収められている。医大に進学するため東京に向かって遠野を出発した佐々木は、しかし作家になりたいという希望を抱いており、流行作家の水野葉舟のツテで柳田家を訪れる。佐々木が遠野で聞いた「不思議な話」を語ると、柳田はそれに猛烈に興味を示してこれからも家に来て話をするように言う。一方、水野は、はなから佐々木を「作家になんかなれるわけがない」と馬鹿にしている。オペラは、この完全に気持ちのすれ違っている(!)3人が軸になっているのだが、そこに、佐々木が語る「遠野物語」、すなわち、山人や座敷童や大坊主や河童や死んだ妻の話が同時並行的に舞台上で繰り広げられていく。この「現実」と「異世界」の交錯具合が絶妙で、観ている方も自然に異世界へと入り込んだり、かと思うと柳田たちが生きている現実の方に引き戻されたりする。

 「現実」と「異世界」を行き来すること。オペラ『遠野物語』の中心はまさにそこにあるのだと思う。主人公である佐々木喜善は、遠野で座敷童や「闇」に囲まれて生きており、彼らの姿を見、彼らと話すことができる。佐々木は、そんな田舎(=異世界と結びついた場所)がいやで東京(=現実が支配する場所)に飛び出していくのだが、やがて挫折して再び田舎に戻ってくる。「現実」と「異世界」を行き来しながら、どこにも居場所がない佐々木の姿が、部屋にこもって日がな一日ネットの世界に没頭している現代の若者と重なる。佐々木にとって柳田は、東京という現実で生きていくための大切な橋渡し役のような存在なのだが、一方の柳田には橋を渡してやろうという気持ちは微塵もなく、佐々木を自分の学問の素材としていとも簡単に消費してしまう(そして消費したという感覚すらない)。最後に、祖母も失って一人ぼっちになった佐々木の元から、座敷童や「闇」たちが去って行く。おそらくそこで、佐々木ははじめてひとりで立つことができたのではないか。それまで真っ黒な衣装だった「闇」が、カラフルな衣装に着替えて登場し客席を練り歩いたラストシーンには、確かにある種の「救い」があった。

 自分の学問にしか興味のない一種の「学者バカ」である柳田國男を演じた高野うるお、その痩身と神経質そうな表情が素晴らしくハマリ役。佐々木喜善役の北野雄一郎は、若者特有の悩みや焦りをうまく演じていた。セリフはもとより歌唱も東北方言だが、いつも言葉がはっきりと聞こえていたのは特筆すべきだろう。不倫で身を持ち崩すなど3人の中ではもっとも世俗的人物である水野葉舟は島田大翼が好演。ある意味水野役は、時や場所が交錯するこの舞台を現実につなぎとめる釘のような存在なので、他の登場人物とはかなり温度差のある芝居が求められたのではないかと思う。異世界の生き物たちや村人たちが一人何役も割り当てられていたが、さすがこんにゃく座の歌役者たち、セリフも歌唱も何れ劣らぬレベル。

 音楽は、吉川和夫・萩京子・寺嶋陸也の3人による合作だが、どの部分が誰の作曲なのかわからないほどにスムーズに音楽が流れていた。休憩含め2時間50分とこんにゃく座にしては長い作品となったが、音楽が全くないセリフだけの芝居部分が相当あったのもその原因のひとつだと思う。できればもう少し芝居部分を刈り込んで、音楽に語らせるようにしてもよかったのではないかと思うが、全体を通して飽きる瞬間はまったくなく、舞台に惹きつけられ続けたことは強調しておきたい。

2019年2月12日、俳優座劇場。

皆様から頂戴したサポートは執筆のための取材費や資料費等にあてさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします!