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【Opera】藤原歌劇団『ルチア』

 ベルカント・オペラの醍醐味は「声の妙技」だといわれている。確かに、ドニゼッティの代表作であるこの『ルチア』にしても、家のために恋人と引き裂かれた結果発狂して死んでしまうという筋立て自体は、ちょっと現実離れしていて、なかなか感情移入しづらい。私はオペラにおいても、ドラマにリアリティのある作品が好きなので、正直いってベルカント・オペラに心を動かされた経験が少ない。例えば、数ヶ月前に上演された同じ藤原歌劇団の『ノルマ』を観た時にも、ドラマとしてあまりにもリアリティが希薄で、それは歌は素晴らしかったけれど(何しろデヴィーアだったし)「涙を流して感動する」という体験にはならなかった。と同時に、「ベルカント・オペラというのは、つまりこういう風に声を楽しむものなのだな」と思ったのだった。

 そんな私の浅はかな思い込みは、しかしこの『ルチア』によって見事に吹き飛ばされた。『ルチア』といえば何といっても第2部の「狂乱の場」が聴きどころ。愛するエドガルドへの思いを残しながら、兄に命令され家のために結婚したルチア。しかしそれをエドガルドに知られてしまったルチアは、発狂し、新婚初夜の床で花婿を刺し殺す。髪を振り乱し、白い夜着のまま人々の前に現れたルチアは、エドガルドと結婚するという幻影に取り憑かれ、そこにいないエドガルドに優しく愛を語りかけ、かと思うと死者の亡霊に怯える。コロラトゥーラを駆使したその長大なシェーナとアリアは、ソプラノの声の妙技がこれでもかと繰り出されるクライマックスだ。この日ルチアを歌った光岡暁恵は、完璧にコントロールされた安定感のある声で、細かいパッセージの一つ一つまで実に丁寧に歌い上げ、見事な「狂乱」を演じてみせた。そもそも登場シーンから彼女の声は、とても清らかでピュアなのに、どこかに暗い悲劇の予感を漂わせていた。ルチアはコロラトゥーラがふんだんに盛り込まれたソプラノ・レッジェーロの役だが、ただ軽く美しいだけではダメで、やはりそこには悲劇のヒロインとしての陰影が必要だ。そこが難役といわれる所以であるが、光岡はその点完璧なルチアだったといっていい。

 そして、その声で表現されたルチアの「狂乱」が、なんとも不思議なことにストン、と腑に落ちたのだ。光岡の歌からは、ルチアのエドガルドへの生涯をかけた深い愛、それを引き裂かれた死に匹敵するほどの苦しみがはっきりと伝わってきて、こちらの胸がキリキリと痛むほどだった。その時、意に染まない男と結婚させられたその夜に発狂して相手を刺し殺す、などという現実ではまずありえないルチアの状況に、強い説得力が生まれたのである。まさに「歌の力」がちっぽけな現実を凌駕した瞬間である。

 ベルカント・オペラの醍醐味が「歌」にあるということの本当の意味は、つまりそういうことなのだ。声の技巧はそれによって音楽的リアリティを獲得するためにこそ発揮されるのであり、そのようにして獲得された「リアル」は、すなわち芸術を芸術たらしめているものに他ならない。

 ベルカント・オペラの真髄ともいえるこうした上演を可能にしたのは、ひとえに藤原歌劇団が長年、ベルカント・オペラの上演に心血を注いできたことの成果だろう。その証拠に、ルチア以外の歌手陣も、合唱に至るまで素晴らしい出来栄えだった。岩田達宗の演出は、そうした「歌の演技」を存分に堪能させるべく、余計なものを削ぎ落としたもの。舞台上には大きな橋がかけられ、そこに天上から巨大なナイフの刃が迫っている。周囲には血塗られた壁があるのみという非常にシンプルな装置が実に効果的だった。ベテラン菊池彦典の指揮も、たっぷりと間合いをとったり、ダイナミクスを緻密にコントロールするなど、歌に合わせた見事なサポートぶりだった。

2017年12月9日、オーチャードホール。

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