【Event】Opera Art Academia2018「魅せるを識る③〜歌唱の本質〜」

                       田尾下哲©Toru Hiraiwa

 田尾下哲シアターカンパニーが主催、1年かけてオペラについて考えるOpera Art Academia2018。昨年4月にスタートして、これまでに14回の様々な企画が開催されてきた。今回参加したのは、「魅せるを識る」シリーズの第3回で、バリトンの宮本益光が登場。声楽家がどのように「役」を作っていくのか、演出家や指揮者との共同作業はどのように行われるのか、また声楽家に求められるスキルなど、いわば「声楽家は何をしている存在なのか」ということが実体験に基づき詳細に語られた。
 田尾下と宮本との初共演は2008年に新国立劇場で行われた『蝶々夫人』だそうだが、その時点で田尾下は、宮本の歌手としての表現力に感銘を受けたのだという。それが、2015年に田尾下が演出を手がけた三島由紀夫原作のオペラ『金閣寺』での溝口役における、圧倒的なパフォーマンスにつながっている。私も宮本の溝口に大きな衝撃を受けたひとりであり、また他にも、『ドン・ジョヴァンニ』(カロリーネ・グルーバー演出)や『ラ・ボエーム』(アンドレアス・ホモキ演出)など、彼が演じる様々な舞台を観てきた中で、いつも「宮本益光という歌手の特別さ」について考えさせられてきた。宮本益光という歌手の表現を形作っているものを知るよい機会となった。

 オペラである役を歌うことになった時、当然歌手はまず「読譜」をする。それは単に音符を覚えることではない。作曲家が書いたすべての音符、すべての休符にはそう書かれる必然性があったのだということを理解し、ある役に書かれている音楽はすべてその役の生き様であると捉えること。宮本にとって楽譜を読むことは役を作ることと同じであり、「読譜」ができたということはすなわち、役作りが終わったということなのだという。

 だから、いざ立ち稽古に入った時にはすでにその役になっている。宮本の言葉を借りれば「役としての生き様を持って」稽古に臨むのであり、その後で演出家や指揮者からどのような要求をされても、「どう生きるのか」ということが作ってあれば対応できる、ということになる。

 「役の生き様」をどうやって作っていくのか、という具体例も披露された。例えば先ほどの『金閣寺』では、溝口が金閣寺に火を放つと、劫火を思わせる真っ赤な紅葉が彼に降り注ぐというラストシーンがすこぶる印象的だったのだが、宮本は実際にマッチをポケットに忍ばせて金閣寺を訪れたそうだ。だが、どうしてもそこでマッチを取り出すことができなかった。その逡巡を、彼は大切にする。実在の巨大な金閣寺を目の前にして、「ここに火を放てば自分は解放される」という溝口の心境は、ただ楽譜を追っているだけでは到底想像できなかったというのだ。
 また『ドン・ジョヴァンニ』では、ドン・ジョヴァンニは最初に騎士長を刺し殺してしまうのだが、人を殺した感覚を手に持った人物がどのようにその後で生きていくのか、ということを感じるために、稽古の期間中は常に大きな包丁を鞄の中に入れていたのだという。剣を向けたり向けられたりする恐怖、その感覚や体温を自分の中に持っているのといないのとでは、表現のリアリティが変わってくると宮本は考える。
 役の内面を徹底的に研究し、そのキャラクターが起こす行動を実際に体験/疑似体験してみること。そのような積み重ねの中から、歌手の表現の奥行きは生まれているのだ。

 また、オペラ歌手の「演技力」とは何か、という話題も面白かった。「今どきの若い人はとても演技が上手い」という話から引き出されたのは、悲しいとか嬉しいとか一瞬の感情を表現することと、オペラの舞台における演技とは違うということ。なぜなら音楽によって感情を表現するオペラでは、そこに流れる時間は均質ではなく、リアルでの1秒が3分に引き伸ばされたり、逆に3分かかる出来事が1秒で表されたりする。瞬間芸のような演技では、そうした「音楽的時間」に耐えうる充実は得られないというのだ。このあたりは、ストレートプレイの演技とオペラが大きく異なる点だろう。

 オペラが「演出家の時代」といわれるようになって久しいが、宮本は、いわゆる伝統的な解釈とは異なる「読み替え演出」「現代演出」とよばれるプロダクションへの出演も多い。それらの中には、非常にアクティブな身体的な動きを伴うものも多く、「モーツァルトの時代にはそんな演技はしなかった」というような理由で批判する人もいるが、田尾下は、現代の多くの演出家は音楽から動きをイメージしているのだと説明する。一方宮本は、どんなに激しく動いたとしても「もし録音したとしても音楽として成立していること」が歌手に課せられた責任だと言い切った。「演出によって歌がダメになるようなら歌手がダメだし、歌をダメにするような演出なら演出家がダメ」という言葉は、宮本のプロとしての矜持だろう。
 ただ、身体性にはもちろん限界はあるので、その時には演出家と相談した上で解決していくことになるわけだが、そのためにも事前にしっかりと「役作り」、すなわち先ほどの言葉でいうところの「役としてどう生きるのか」を自分のものにしておくことが重要だと強調した。また、田尾下からは、演出は「作曲家が台本を解釈して書いた音楽を読んで、さらに解釈する二次創造」であり、だから作曲家の意図を読み間違える危険性はあるし、逆に敢えてそれとは異なる解釈をすることもある、というたいへん興味深い演出論が語られた。

 美しい声の持ち主、高い歌唱技術を持った歌手は日本にもたくさんいるが、宮本益光のパフォーマンスに接すると、常に、「他の誰とも違う」という思いを強く抱く。イベント終了後に田尾下に「なぜ宮本益光は人と“違う”のか」と質問したところ、「音楽のスケールが違う」という答えが返ってきた。歌だけでもなく、演技だけでもなく、その両者が過不足なく結びついた時に生まれる「音楽の世界」のスケールの大きさ。多くの名歌手とよばれた人たちが持っていたそれを、宮本益光もまた持ち得ているのは、徹底的な楽譜の読み込み、演技のための細かい準備、身体的スキル向上のための訓練があるからに他ならない。
 見渡したところ、日本にはまだ、彼を凌駕するような若い歌手は現れていないが、しかしその片鱗はいろいろなところで芽吹いているように思う。第2、第3の宮本益光が舞台上で凌ぎを削るような時代が楽しみだ。

2019年2月13日、アスピアホール。

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