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【Opera】NISSAY OPEAR2018『魔笛』

 『魔笛』は演出のしがいのある作品かつ観客の人気も一定以上ある作品で、とにかく色々なプロダクションをここ日本にいても観ることができる。だがその割に、納得できる舞台に出会った経験がそれほどない。ひとつには、私自身が『魔笛』の世界観に今ひとつ馴染めないせいもあるだろう。そもそも「ファンタジー」という奴が苦手なのだ。「どこかここではない別の世界」が舞台になった途端に、そこに登場する人々、繰り広げられる物語がどうにも嘘くさく感じてしまう。「フィクション」として楽しむことはできるのだけれど、私がオペラに求めているものは、あくまでも人間のリアルな感情だったり葛藤だったりするので、「ファンタジー」に分類される『魔笛』には心を揺さぶられることが少ない(同じ理由でワーグナーの「指輪」がダメw)。

 しかしもちろん、中には目をみはる演出もあって、今回の佐藤美晴さんの演出はそうしたもののひとつだった。確かに建て付けは「ファンタジー」だが、そこで描かれていたのは現代と地続きの世界であり、問われていたのは人間にとって「生きるということ」の意味である。このプロダクションは「ニッセイ名作シリーズ」として全国の中高生が観るという点も考慮され、特にタミーノとパミーナを高校生ぐらいの若い世代に設定、対するザラストロや夜の女王は古い価値観に支配される親世代として描かれる。若者ほど孤独に陥りやすく、時に孤独が死に直結するという普遍的な認識から出発し、しかし人は決してひとりではない、いつも目に見えない「何か」に守られているということが、三人の童子の存在と繋がる。しばしば「あなたたちを導きます」と訳される三人の童子は、原語では「umschweben=(あなたたちの周りを)漂っている」であることから、音楽の精霊のような存在として序曲の途中で登場する。彼らの見た目は「少年モーツァルト」を思わせ、おもちゃのピアノで作曲をし、紙人形でお芝居を考える。そしてペンを走らせるたびに背景に映像で音符があふれ出す。人を孤独から救い出すものはその人によって色々だろうが、「音楽」によって救われたという人は多いのではないか。かくいう私も、人生の様々な地点で「音楽がなければどうなっていたか」と思うようなことがあった。劇中、童子たちはタミーノには見えず、歌声だけが聞こえてくる。「音楽」によって若者は窮地を脱し、命を救われるのだ。

 一方、ザラストロたち親世代はというと、彼らは古い規律にガチガチに縛られている。ザラストロに仕える人たちが皆、灰色の肩パッドの入ったスーツ(親世代=バブル世代のシンボル!)を着て顔も髪も灰色なのが、そのことをあからさまに描き出す(衣裳・武田久美子)。しかもこの社会では、男性が椅子にふんぞり返っている一方で、女性は掃除をさせられ議論からは排除されている。そうした規律に誰もが決して唯々諾々と従っているわけではないということは、例えば女性の中に掃除をサボってタバコをふかしている人がいたり、第1幕の終わりで試練に向かうタミーノを追いかけようとするパミーナを抑える女性たちが、なんともいえない切ない表情をしていることなどに現れていた。『魔笛』におけるあからさまな男尊女卑思想をどう料理するかは、おそらく多くの演出家の頭を悩ませるところだと思うが、佐藤美晴は「女性演出家」(敢えてこの表現を使う)としてそれを決して肯定せず、かといって『魔笛』の根本的な世界観を崩すことなく、見事に問題提起をしてみせた。ここは、もっとも賞賛されるべき手腕だと思う。

タミーノ:山本康寛、パパゲーノ:青山貴、夜の女王の侍女:田崎尚美、澤村翔子、金子美香

 3面からなる装置は、それぞれ森と神殿とパミーナの部屋となっていて、それが場面に応じて回転する仕組み(美術・池田ともゆき)。照明や映像が美しく印象的なのは佐藤美晴演出の特徴のひとつだが、全体的にとても愛らしくてキュートな印象の舞台となっていて、そこは思いっきり「ファンタジー」していてそのバランスも好感が持てた。歌手はダブルキャスト(一部トリプル)だったが、タミーノ・山本康寛/パミーナ・砂川涼子組のアンサンブルの良さが目立った。モーツァルトの他のオペラに比べると『魔笛』はアンサンブルよりソリストが重視されることが多いが、今回はあくまでもモーツァルト音楽の醍醐味をアンサンブルに置いたキャスティングだったことが功を奏したのだろう。なおこの組では、小堀勇介によるモノスタトスの怪演が印象に残ったことも書き添えておきたい。

2018年6月12日・13日・14日、日生劇場。

写真:伊藤厚子(Lasp Inc.)

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