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【Opera】新国立劇場『エウゲニ・オネーギン』

 大野和士芸術監督の2期目となる新国立劇場2019/20シーズンは、チャイコフスキーの『エウゲニ・オネーギン』で幕を開けた。新国立劇場では2000年に取りあげられて以来の作品で、今回は、モスクワのへリコン・オペラの芸術監督であるドミトリー・ベルトマン演出による新制作。モスクワで上演されたプロダクションの東京バージョンとなる。ちなみに『エウゲニ・オネーギン』自体は、今年の8月にセイジ・オザワ松本フェスティバルで、ロバート・カーセン演出で上演されたばかり。こちらは1997年にメトロポリタン歌劇場で初演されたもので、抒情的で美しい舞台が高い評価を受けている。今回の「新国オネーギン」をこのクラシカルな「松本オネーギン」と比較して「喜劇」にみえた人もいたようだ。

 ベルトマン演出は、1922年にコンスタンチン・スタニスラフスキーが、自宅の一部を改造して作ったオペラ・スタジオのこけら落としとして上演した『オネーギン』をベースにしている。スタニスラフスキーは、「オペラが歌手の美しい声を聴かせるためだけの芸術ではない」と考え、「歌手も舞台上で自分が演じる『人物』として存在し、『人物』の心理、内面を歌という音楽によって表現する俳優でなければならない」と考えていた(公演プログラム掲載の安達紀子による「スタニスラフスキーと『エウゲニ・オネーギン』」より)。ベルトマンはこのスタニスラフスキーの原理に基づき、歌手がそのキャラクターの内面を「歌」によって表現すべく、細部にわたるまで徹底的な作り込みを行なっている。例えばオリガの扱い。「オリガがあまりにもコミカルに描かれすぎている」という批判がネット上では散見されたが、それは彼女がまだ14〜5歳の子どもであるということを見落としている。男にチヤホヤされて無邪気にいい気分になっている女の子、というのがオリガであり、だから彼女にはピンクのフリルだらけのドレスと髪には大きなリボンが与えられているのだ。そんなオリガに恋するレンスキーにしてもまだ18歳。オネーギンに嫉妬して決闘にまでもつれ込んでしまうのは、まさに「若さゆえの過ち」。23〜4歳と年かさのオネーギンは、決闘の場面で思わず高笑いをする。おいおい、ちょっと冷静になれよ、とでも言うかのように。オネーギンの罪は、少年少女の無邪気さや一途さのエネルギーを小さく見積もりすぎたことだろう。

 ちなみに、恋の鞘当てが展開する4人の中ではオネーギンだけが大人だ。だから、子どものタチヤーナをふる。そして第3幕で、深いピンク色のドレスを身にまとったタチヤーナを見て恋に落ちるのは、彼女が大人になった(とはいえ19歳だが)からだ。そのドレスを脱ぎ捨てて白い下着姿(第1幕、寝室でオネーギンに告白の手紙を書いている時と同じような衣裳)になることで、タチヤーナは再び少女に戻る。戻ることでやっとタチヤーナはオネーギンに「愛しています」と言うことができる。オネーギンが、タチヤーナの脱ぎ捨てたドレスを抱きしめるのは、それが大人の恋の象徴だからなのだ。

 このように、ベルトマン演出は実に細かく、登場人物の心の内を、時の経過による移り変わりまでも表現していく。『エウゲニ・オネーギン』という物語は確かに悲劇だけれど、登場人物たちがその時間を生きるリアルな人間であるならば、そこには涙だけではなく笑いや、諦めや、皮肉や、おふざけがあって当然なのだ。笑いがあるからといってそれが「喜劇」ではないことはいうまでもない。

 ところで、このプロダクションでもっとも強く心に残ったのは、群衆のすがただ。第2幕、合唱団が演じるのはラーリン家の宴会に集まった人々。彼らは、オネーギンのことを「遊び人」「粗野で変わり者」と噂し、告白を拒絶されたタチヤーナのいたたまれなさも、オネーギンとばかり踊るオリガに嫉妬するレンスキーの焦燥も、いささかも思いやることもなくワインや料理を貪り食い、女は男を、男は女を求めて踊る。色とりどりの衣裳を身につけたその姿は野暮ったくあまり品がない。続く第3幕では、同じ合唱団が今度はサンクトペテルブルクの舞踏会に集まった貴族となる。黒いドレスと黒いタキシード姿こそ洗練されているが、タチヤーナやオネーギンの噂をしたり、その様子を物陰から興味津々で眺めたりして、結局本質的には彼らの内面も2幕の農民たちと変わりがないことが示される(むしろ、真っ黒い集団である分、匿名性が高まって不気味さが増している)。ここで描かれているのは、群衆というものがいかに愚かで、不寛容で、自分勝手で、同調圧力に溢れているか、そしてそうした群衆=社会というものがいかに個人の内面や心を押しつぶしていくのか、ということではないだろうか。つまり、これは一種の「群像劇」なのであり、私は見ていて時折背筋が寒くなるほどゾッとした。

 『エウゲニ・オネーギン』というオペラがただの「メロドラマ」ではない、ということをこれほどはっきりと主張した舞台は稀有なものだ。社会と個人、大人と子ども、地方と都会、庶民と貴族、様々なものが対置される中で、人間が置かれている状況が人をどのように動かすのか、あるいは動かさないのか。社会の中で生きる人間のリアルな姿を、細部に至るまで練り上げたアイデアを散りばめて描きだした、見事なプロダクションだったと思う。新国立劇場の新しいレパートリーとして、再演、再再演と重ねていってほしい。

2019年10月1日、新国立劇場・オペラパレス。

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