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【Opera】東京二期会『蝶々夫人』

 『蝶々夫人』というオペラはどうにも居心地の悪い作品だ。アメリカ人の男が日本人の女を金で買う。しかも男は立派な大人で女はわずか15歳(明治時代ということを差し引いても年の差は歴然)。日本女性としてこれほど腹の立つ筋立てはない。だが本当に腹がたつのは、プッチーニが書いた音楽が「あまりにも美しい」ことだ。その美しさは麻薬のように聴き手をとらえ、音楽の世界に没入していくうちに、ジェンダーやら経済格差やら支配構造やらへの怒りは脇に追いやられ、ラストでは「蝶々さんの悲劇」に涙を流している。そして、プッチーニという「西洋の男性」が、こうした「東洋のかわいそうな女」が大好きで「泣きながら作曲した」などというエピソードを知り、再びはらわたが煮えくり返るのである。私はプッチーニにまんまとしてやられたのだ。こんなにムカつくことがあろうか。

 じゃあ『蝶々夫人』はキライなのか、というと、これがキライになれないから困っている。だって、プッチーニが書いた音楽は「あまりにも美しい」から。ああ、ムカつく…でも美しい、美しすぎる…なんというアンビヴァレンツ!しかし、これまでに接した『蝶々夫人』の舞台のことを考えてみると、いつも涙を流すほど感動したわけではなかったことに気がついた。例えば、有名なメトロポリタン歌劇場のアンソニー・ミンゲラ演出のプロダクション。私はそこに描き出された「想像上の日本」に対する違和感をどうしてもぬぐいきれず、そのキッチュさがよけいに「東洋/西洋」という構造を際立たせているように思えて、ラストで泣くにはいたらなかった。この作品は西洋人が思う「想像上の日本」を舞台にしているのだから「正しい日本」にこだわる必要はない、という意見もあるが(そしてもちろんその意見には一理あると思うが)、そうした「想像上の日本」が西洋人によって描かれているということそれ自体が大きく主張されてしまうことで、「蝶々さんの悲劇」に、言い換えれば「プッチーニの音楽の美しさ」に没頭することができないのだ。

 その点で、今回の栗山昌良演出は、着物の着付けや演者の所作はもちろんのこと、セットの配置から小道具、照明の色合いまで完璧に計算され尽くした「日本の美」をみせる。第2幕のラスト、障子に蝶々さんとスズキ、息子がシルエットで浮かび上がる中ハミングコーラスが流れる場面は、数ある『蝶々夫人』の舞台の中でも屈指の美しさだ。

 そしてここが重要なところだが、こうした「完璧な日本」が描かれている舞台だからこそ、蝶々さんという「ひとりの女性」の悲劇がより一層心に迫ってくるのである。蝶々さんの物語とは、愛のほかに生きるすべがなく、それゆえ愛に敗れた時には生き続けることができなかった女の物語である。それは、「貧しい東洋人女性が西洋人男性に捨てられた悲劇」ではなく、どの時代にもどの世界にもある、女の愛の悲劇なのだ。


 今回で5回目を数える二期会のこのプロダクション、同じ演出を複数回観る楽しみは、やはり歌手にある。私はダブルキャストの二つの組を観たが、やはり抜きん出ていたのは、これがロールデビューとなったタイトルロールの森谷真理だ。幕あきこそややタイミングに乗れていない感じがしたものの、2幕以降は尻上がりに迫力が増し、ラストは息をのむほどの緊迫感で見事な「蝶々さんの最後」を演じきった。スケールといい、スタミナといい、本当にグローバルな歌手といえるだろう。

 ピンカートンを歌った宮里直樹はこれが二期会デビュー。美しく艶やかな声の持ち主で、表現力もある。今後が楽しみな若手テノールだ。そして、「蝶々夫人の悲劇」に誰よりも貢献したのが、スズキの山下牧子。この物語はスズキの出来具合でドラマの奥行きがグッと違ってくるが、歌、所作共に完璧。第2幕の蝶々さんとの「花の二重唱」も見せ場だが、実は第3幕のピンカートンとシャープレストの三重唱の場面で涙が抑えきれなかった。


写真:伊藤竜太写真事務所

2017年10月9日 東京文化会館大ホール



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