見出し画像

CONTEXT DESIGN 00

「食べた後のお皿」は私なりの解釈で言うと、コンテクストデザインです。
誰(つくり手)がどのように作ったのか。誰(受け手)がどのように食べたのか、そこにはなにが盛られていたのか。
想像の余白がたくさんあります。そして、そこにはたくさんの誤読が生まれるように思うのです。

 今回は「わたし」について少しだけ、「コンテクストデザイン」について、そして「コンテクストデザインの実践企画」についての三本立てで綴ります。

 私は慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの加藤文俊さんの研究室で「場のデザイン」の研究を経て、現在は触覚研究をしている仲谷正史さんの研究室に所属しています。そして、特別招聘教授であるTakramの渡邉康太郎さんが開講されたサブゼミに所属をすることになりました。

そこで、私は「コンテクストデザイン」に出合いました。

・自分なりの社会彫刻と創作

 「食べること」は空腹も満たすたけでなく、自然に人を集め、人を満たし、場も満たすと思うのです。だからこそ、私は、これまで誰も見たことのない「食」と「食の場」の知を生み出し、食からさまざまなable(エイブル)をつくり、どんどんと派生させていきたい。

それが、私が思い描く、私なりの社会彫刻です。

 中学生の時に出合った今和次郎の考現学は、日常にある小さなこと、つぶさに見なければ過ぎ去ってしまうものを観察していた。みんなが自分の周囲に普通にあることを見つけて、それを楽しんでくれるようになること。人間の営みの中でも「食べる」という観点から言うなれば、「他の人と一緒に食卓を囲むという体験がその人にとって小さなしあわせになればいい。」と私は思うのです。

・自分にとってのコンテクストデザインの解釈

 私が考えるコンテクストデザインとは、作者の手から離れていても離れていなくても、受け手によってさまざまに解釈され、つくり手もまた、受け手に学ぶような余白があるものだと考えています。

 私は幼い頃からひとつしか答えが出てこない課題と向き合うよりも、「答えがないものの答え」をどのように探り、そして、どのように提示するかを模索できるような、余白のある課題と向き合う方が得意でした。だから、私は昔から「コンテクストデザイン」を好んで、そして、私の解釈する「コンテクストデザイン」に当てはまるものと向き合ってきたのかもしれない、と今は納得しています。

・コンテクストデザイン的企画案

  私の考える社会彫刻を、ただ発信するに留めず、コンテクストデザイン的に実践する案として「食べるという行為が何を築くのかを考える」ところからはじめたいです。

 私が尊敬するAlice WatersEdible School Yard Projectを企てることで、そこから食べ物の背景やサステイナビリティを教え、人の集まる場をつくっていきました。そこに集まる人はさまざまなバックグラウンドを持つ人たちでしたが、誰もが皆、情報のつくり手であり、受け手であったのではないでしょうか。もちろん、Alice Watersも含めて。食べ物を前にする時は、人はみな平等であるのだと、私は思っています。

まずは、ワークショップとして「食べる場」をつくります。誤読が生まれるようなKITを作成し、みんなで一つの机を囲み、食の場を共にしたいです。
そこから、この企画がはじまります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?