創造主が、私という個 に期待する 夢とは? という発想から生まれるもの


今朝、瞑想しながら、浮かんできた事。  普通、人間は、自分の 夢は 何だろう。とか、生きている間、何を本当に成し遂げたいのだろうと考えると思う。

私も良く、そのように考えている気がする。


今朝は、ちょっと違っていた。神という、創造主がいるとして、私に抱いている夢があったとしたら、それは何なのだろう、逆説的な問いかけである。

そう思った瞬間、なんだか、こみ上げてくる感動があった。
ここに、いろいろなことの、答えの謎が あるような、そんな熱い感覚である。


もしかしたら、私たちは、自分の小さな頭で考えている 思考の領域は、限られているものであり、本当に生きている という醍醐味は、その領域を超えたところ にあるような気がしている。


いくつかの、神秘的な体験、不思議な体験 を経てきて、実感としてそう感じる。 私は本来的に、神を、信じない、人間であったから。 というより、子供のときから、教会に通っていても、イエスの存在すら、懐疑的だったし、よくできたフイクションとして、聖書を読んでいるような子供だった。


 
自分の思考を超えた、領域に達するのは、、瞑想だったり、深い熟考(contemplation)や、祈りというもので、思考を拡大していく過程で 広がっていく、というのが 私の経験である。


神というと、どうしても、宗教的に 植えつけられた、固定概念があるが、 宗教的意味合いを 超えての、創造の源という、概念としての神。

私たちが生まれてきた、その birth force(生まれさせた力)としての、創造の根源。


ここに 繋がること、そして、それに 意思というものがあるとすれば、それを知ろうとする 行為は、生きるという不可解な ゲームを 深く味わうため、決して無駄な行為であるとは 思えない。


神を信じない子供が、何十年もの年月を経て、 神はいるような気がする、大人になった。

創造主が 自分に対して抱く、夢、期待と、図らずもがな、自分の 個としての夢とが 重なり合う時、そこに大きなダイナミクスが生まれる。 そして、 そこにこそ、深い魂の喜びの中で、今を生きている瞬間 を体験するような気がする。


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