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高校での常勤講師としての日々(6):教師からの脅威によって抑圧された生徒は二面性を持った

さて、常勤講師として工業高校で働き、教員採用試験に受かった私ですが、当時は"進路指導部"に所属し、就職以外の進路を選ぶ生徒を指導していました。

基本的には工業について学ぶ高等学校なので、生徒のほとんどはそういった能力を活かして社会で働きたい、つまり高校卒業後は企業に就職したいと希望します。
しかしその中にも、「大学・専門学校へ行きたい」「自衛隊に行きたい」「消防士になりたい」など、一般企業への就職とは異なる道を選ぶ生徒もいます。

私の役割はそういった企業就職以外の道を探る生徒の相談に乗り、どのような進学先があるか、どのような手順を踏んでその道を進むのか。ということを指導していました。

私が指導していた生徒の中に、「公務員になりたい」という生徒がいました。
私は授業を持っていない生徒だったので、どのような生徒かはよく知らなかったのですが、他の教師に聞くと、厳しい教師には従順で、そうでない、要するに自分が勢いよく行ったところで厳しい指導をしてこない...と、彼が判断した教師にはかなり横暴な態度を取る生徒だったようです。

前の記事にも書いた通り、工業高校において工業科の教師はいわゆる"要"となる教師です。授業で共に時間を過ごすことも長く、それはつまり彼らの卒業単位を握っていると言っても過言ではありません。
工業科の教師の中には威圧的な態度を取る教師も多く、弁明の余地もなく頭ごなしに指導を受ける生徒も少なくありませんでした。

そういう様子を見ていると、自分の高校時代を思い出しました。
弁明の余地なく、反論することも、自分の意見を述べることも許されなかった私の高校時代。
それは教師から...ではなく、上級生(先輩)からでしたが、
「楽器触ると腐るからどっか行って」と言われたり、
何か間違い(と判断されること)を犯してしまえば、ひたすら謝り続けなければいけませんでした。
時に自分は「人間扱いされていない」と感じることもありました。

少し話はずれてしまいましたが、そういった時に感じる不平や不満というのはどこかで吐け口を探します。
それが暴力・暴言になるのか、それとも落ち込んだりしてダウンするようなかたちになるのか。それは人それぞれだと思うのです。

私が受け持ったその生徒は、ある意味頭がよく、機転がきく生徒だったのかもしれません。前述した通り私は授業を持っていませんでしたが、彼にとって私は、
「悪い態度を取ってしまったら、自分が不利益を被ってしまう教師」
だったと思います。

まさに損得勘定で動くならば、良い状態でキープしておかなければいけない教師です。

よって、彼の態度はとてもよく、様々な世間話もしました。彼自身が自分を掘り下げ、面接などで自分自身を表現するために、これまでの人生の様々なエピソードなどについてもたくさん話をしました。
その時の指導では、まさか高圧的な指導をする教師以外に対して横暴な態度を取るような生徒には見えませんでした。
そして試験日まで様々な指導をし、無事に試験の日を迎えたのでした。

しかし残念ながら、彼の結果は"不合格"でした。
指導は終了し、彼はそれから企業への就職へとシフトしました。

しばらくしてから彼を学校で見かけ、
「久しぶりやね、元気にしてるん?」と声をかけた時のことです。

「気安く話しかけてくんなや」

と言われたのでした。

私は一瞬何が起きたのか分からず、ただそこに立ち尽くしました。
無論、そういった発言をしてくるような生徒はたくさんいる学校だったので、その発言自体はある意味聞き慣れたものでしたが。

驚いたのはその豹変ぶりです。
つまり、彼にとって私はもう"良い態度を取る必要のない人"になったのです。
楽しく話す必要も、私の話を聞く必要もない。
話しかけてきてもらう必要もない人。

この時、私は彼らは"究極の損得勘定"で人生をドライブしているのではないか。と思いました。
もちろん生きていれば、相性が合わない人もいるし、特別話をしたくない人もいます。しかし、仮にそんな人がいたとしても、暴言を吐くことは間違いです。
何となく距離を取って遠ざけたり、積極的に関わらなければ良いのです。

しかし、当時の彼にはそれが出来ませんでした。
それは、高圧的な態度で接してくる教員の言うことに対して従順に従うことで、自分自身を表現することをやめ、我慢し、不平不満を溜め込んでいるからなのではないか。と思ったのです。

そして、自分を表現することを許されない彼らの不満は、別の教師に向けられる。
自分にとって益のある人とそうでない人を分け、別の教師で感じた不満を、指導の厳しくない教師にぶつけるのです。

教育現場では時々、生徒をうまく指導出来ない教師を揶揄する傾向があります。
「指導が下手くそ」だとか、
「生徒をコントロールできていない」とか、
時に"厳しさ"を発揮できない人を"資質がない"と判断したりします。

もちろん、メリハリをつけて生徒を指導することは必要です。
私は結局、自分の授業や担任を持ったクラスで"学級崩壊"のようなことを経験することは一度もありませんでしたが、そういうことも起こり得ます。

しかし、時に"頭ごなしに指導する"という強行手段をいつも使用することで、
「生徒は自分に対して威厳を感じている」と判断する教師も少なくありません。

生徒が意見を言おうものなら、
「何だその口の利き方は」と叱ったり(意見すること=言い方ではないのに)、
ひたすらに厳しい言葉を投げかけ、生徒は頷くしかない状況を作ったり...
指導の途中で「何か思うことはある?」「言いたいことはある?」と聞いてやれば、きっと「でも自分はこう思う」と表現できるはずなのに、そういった余地を全く残すことなく指導する教師がたくさんいます。

そういった指導を見ると、生徒の主体性を奪っているのは教師なのではないか。
と、いつも思っていました。

無論、学校教育だけでそういった"自分を表現する"能力は育てられる訳ではないので、家庭教育でも必ず子どもの意見を主張する余地を作ってやらなければいけません。

話を戻すと、私に、
「気安く話しかけてくんなや」
と言ったあの生徒には二面性がありました。

従順な生徒を演じる自分

そんな自分を演じる必要がない自分

です。

いずれにせよ、生徒が自分らしさを発揮する場が少ないと、
「もう、てきとーにあいつら(教師)の言うことを聞いとけばいいや」
となるのは当然です。

その場をやり過ごす方法を覚えれば、短い時間で指導は終わるのです。
そしてその態度を見て教師は「わかったようだな」と判断する。(わかってないのに)

結局、何歳であっても、生徒と教師であっても、人と人なのに、
日本では"自分が教師"だということが"上下関係が発生している"ことだと勘違いしている人がたくさんいます。
もちろん生徒自身が未熟であるがために間違いを犯すことはあっても、それに対して「お前は下なんだから」と言う必要はないと私は思います。

大切なのは一度犯した間違いの原因を一緒に見つけ、次また同じ過ちを犯さないためにどうすれば良いかを一緒に考えることだと思うのです。
その時の関係は"一緒に考える"という点で言えばフラットな関係であり、あくまで「一緒に考えていこう」という姿勢を全面に出し続ける必要があると思います。

「自分の方が年齢が上で、教師なんだから物事をよく知っている」なんて、
そんなことは言わなくても、生徒は"先生だ"ということはあらかじめ認知しているし、そこで尊敬が生まれるかどうかは教師がどういった態度取るか。どういった発言をするか。というところに起因します。

ひょっとして私に「気安く話しかけんなや」と言ったあの生徒は指導の中で私にそういった尊敬を感じられなかったのかもしれませんが、だからといって横暴な態度を取るのは間違っているし、そういった態度を取らないように学校全体で生徒を導くのも教育の役割だと思います。

高圧的な指導をする教師が「自分は好かれている」「自分には指導力がある」と勘違いするのも間違いで、仮に自分以外の教師に別の態度を取っていると知ったならば、それこそ「そういう風に人で態度を分けるのは間違いだ」と指導するべきだと思います。

何はともあれ、私はその学校に勤めて初めてそういった言葉を発されたため、硬直してしまい、指導が出来ませんでした。これについては後悔しています。
...今振り返っても、あの言葉が最初で最後のショックな暴言でした。
しかし、彼についてあらかじめ持っていた情報と照らし合わせてみれば、彼がそういった態度を取ることは今までなかっただけで、実際はそういう可能性を持っていた生徒だったのです。

究極の損得勘定でしか人生をドライブできない生き方はきっと生きにくいはずです。押さえつけられた感情はいつかどこかで爆発する。しかも良くないやり方で。

私はこの学校で"教師と生徒の関係"であっても必ず対等に、彼らの意見が必ず発言できる場を用意する教育や指導をし続けよう。と心に決めたのでした。



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