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「蝶の告白」前編


🦋「蝶の告白」あらすじ。

 大型スーパーマーケットに勤める美桜は、子供の頃から、赤い色に取り憑かれ、恐怖を感じている。
 職場に高瀬という男性が配属され上司になり一緒に働くことになったが、高瀬が「緑色が好きだ」と言ったことがきっかけで、高瀬を誘惑しようとする。
 美桜にはもう一つ悩みがあり、数年前交通事故に遭って亡くなった姉、友梨奈の幻に苦しめられていた。美桜は友梨奈を愛している反面、憎しみに満ち溢れていた。
 友梨奈の夫で幼なじみの勝也を振り向かせたいが、勝也は友梨奈だけを愛している。
 勝也の家の竹やぶから見つめる瞳の謎と、赤色と友梨奈の関係が、だんだんと明らかになってくる。美桜が犯した罪が綴られる衝撃のラスト。

 *******

🦋「蝶の告白」第一章

 幼い頃ランドセルを背負う姉を見て思いました。どうして女の子は『赤』なのでしょう?遠い昔の記憶です。わたしは青が好きでした。緑はもっと気に入っていました。

 ある日姉が言ったのです。

「蝶のさなぎを見つけたの。きっと赤い羽の蝶々よ」
 
 姉はそっと丸い陶器にさなぎを入れました。机の抽斗に仕舞ったのです。そうして私に言いました。

「美桜、絶対に触らないでね。見たらたたくわよ」
 
 最初は気になって仕方ありませんでしたが、そのうちすっかり忘れてしまいました。随分時が経ち、なぜだか急に思い出しました。私は部屋に姉がいないのを確認すると、抽斗を静かに開けました。そこには羽化した美しい揚羽蝶が、羽を広げたまま息絶えていたのです。窮屈な冷たい暗闇で、目に入った色は、鮮やかな青緑色でした。

 港祭りの夜、私はスーパーマーケットの倉庫にいました。荷物がたくさん積まれた台車の手すりを右手で持ち、力を入れて引っ張ります。店内に続くスイングドアに行く途中、高瀬の声が聞こえました。

「坂井さん。坂井さん」

「はい。主任?どうかなさいましたか?」

「ちょっと来てごらんよ」
 
 高瀬のはずんだ声が倉庫の外から聞こえます。急いで向かうと、高瀬は空になった台車の上に乗って、夜空を見上げていました。

「主任。危ないですよ」

「大丈夫。ブレーキをかけているんだ。それより花火だよ。打ち上げ花火。綺麗だなぁ」

「え?」
 
 私は空を見上げました。色とりどりの花火が次々に上がっています。夜空に大きくひらく大小の花々。勢いよく迫ってきます。風に乗って弾ける音が響いた後、少し遅れてパァーっと鮮やかに花開きます。
 
 私はくすりと笑いました。仕事を放っておいて、花火に夢中になっている高瀬が、とても可愛らしかったのです。店長に見られたら、おそらく高瀬は叱られるでしょう。厳しい店長に対して、自由な高瀬に好感を持ちました。高瀬の背中を熱く見つめたのです。

「赤色も綺麗だけど、僕は緑色が好きだ」

「え?緑色。緑色が好きなんですか?ねぇ主任」
 
 高瀬が振り向いて、穏やかな笑みを浮かべました。私の胸が高鳴ります。高瀬が欲しくなりました。誘惑したいと思ったのです。

「試してみたい…」
 
 しかし私には、男性を魅了することができません。私は見た目が悪いのです。小さく一つため息をつきました。目を閉じて、死んだ姉を思い浮かべます。
 
 姉は魅力的でした。私と姉は、瞳が全く似ていません。

 姉はヘーゼルアイでした。薄茶色で大きく、見つめられると、吸い込まれてしまいそうになります。魅力的なのは、目だけではありません。姉は心が澄んでいました。とても優しい人でした。私は疑問に思っていました。姉は良い子ぶって演技しているのではないでしょうか?
 
 でも、私は姉が大好きです。いつまでも側にいたいと思っていました。とても憧れていたのです。

「私の憧れだった…私の好きな男性を、次々と誘惑するまでは」

 今はどうでしょう?

「憎くてたまらない。いえ、姉を愛している」

 私は姉への、愛と憎しみの狭間で苦しんでいるのです。

 姉の美しい姿を思い出します。私は姉の綺麗な顔と身体の虜になっていました。
 
 もし高瀬が姉を見たら、直ぐに夢中になるでしょうか?姉に魅了されてしまうのでしょうか?私の自慢の姉。
 
 なんだか右手がヌルヌルしています。恐る恐る見てみると、べっとり血糊がついていました。震えながら制服に擦り付けてぬぐいますが赤い血は手のひらから湧いて流れてきます。

「姉さん。怖いわ」

  あの日、横断歩道を渡ろうとしていました。見通しの悪い交差点でした。信号が青から赤に変わり、姉がバランスを崩して座り込みました。起こそうと手を伸ばした時、まぶしいライトが姉の全身を覆ったのです。突っ込んできた車が姉をはねました。姉は遠くへ飛ばされてしまいました。私は呆然としてゆっくりと近づきました。姉の身体はグニャリと曲がって転がっています。しゃがみこんで、姉の身体をそっと揺らします。

「姉さん。姉さん。しっかりして」

 姉は血を流し、横たわったまま動くことはありませんでした。
 
 私はもう一度目を凝らして手を見ました。赤い血など流れていません。

「また幻を見たのね。恐ろしいわ」

 私の勤める会社は、ディスカウントスーパーです。主に食品を扱っていますが、雑貨や衣料品も販売しています。数ヶ月前、店長から高瀬を紹介されました。高瀬は県外の店から転勤してきて、私の上司になったのです。

 高瀬は切れ長の目をしています。瞳は漆黒で暗く、薄い唇に濃い顎髭が目立っています。会社のジャンバーからのぞく、ワイシャツの襟元のステッチや釦が、とても洒落ています。洗練されていましたし、こだわりを感じます。高瀬は私が挨拶をすると、軽く会釈をして、直ぐに目を逸らしました。冷たい感じがして、スマートな動きで隙がなく取っ付きにくいと思いました。
 
 ところが、高瀬と一緒に働いてみると、意外と心が広く、とても頼りになります。短気なところもありますが、根に持たず、穏やかで人懐っこいのです。高瀬は常に社員を気遣い、声をかけてくれます。時々、冗談を言って笑わせてくれます。

 でも高瀬は、神経質で厳しい店長と、どうしても馬が合わないのです。店長はイライラしました。度々店長は、高瀬を注意したり嘲笑います。

「役職を脅かされるのが怖かったのかしら?」

 店長は仕事が出来る高瀬を嫌いはじめました。
 
 パートナー社員は、店長に媚を売る卑怯者ばかりです。いつも店長のご機嫌取りをしています。火の粉を払うように、次第に高瀬を敬遠しはじめたのです。高瀬は孤立してゆきます。私は可哀想になりました。
 
 高瀬は重要な仕事や、休みの日の責任のある仕事は、私に任せるようになってきました。私を信頼してくれました。

「熱心にコツコツと仕事をしてきて良かった」  

 他の者ではなく、私だけに優しくしてくれます。優越感があり、心が満たされました。

「認められている」

 ああ、高瀬は「緑色が好き」と言いました。『赤』じゃありません。私の好きな『緑』でした。私はくすりと笑いました。高瀬なら誰にもとられません。私だけのものにできるかもしれません。
 
 私は高瀬に好きになってもらいたいのです。私だけを可愛がってほしいのです。高瀬に甘えたいのです…

「私。主任と仕事ができて楽しいです」

「え?ああ。それはなによりです」

 上目遣いで高瀬を見ます。高瀬は黙ったまま、私を見つめ返しました。高瀬の口が半開きになり、私から目を逸らしました。頬に赤みがさしています。

 高瀬は定年前です。二十歳も年下の私に、じっと見つめられて照れただけかもしれません。

「主任は照れただけよ。解っているわ」
 
 でも…もし高瀬が死んだ姉に見つめられたらどうなるのでしょう?
 
 あの薄茶色の大きな瞳に覗かれたら?ヘーゼルアイに見つめられたら、どうなってしまうのでしょう?
 
 私はまた幻を見ました。高瀬の背中に、姉が白い乳房を押しつけ、後ろからぎゅっと抱きしめています。蛇のように身体をくねらせ、高瀬にからまっています。ヘーゼルアイが、私をじっと見つめ、薄笑いを浮かべているのです。

「姉さんやめて。やめてちょうだい」
 
 高瀬は姉に恋をするかも知れません。いえ高瀬だけは違います。高瀬は私を好きになってくれるのではないでしょうか?私の、外見ではなく、内面を愛してくれるのではないでしょうか?
 
 私はスマートフォンを取り出し、フェイスブックを開きました。高瀬に姉の顔を見せて、試してみたいのです。

 姉は『赤』が好きでした。でも高瀬は違うのです。高瀬は緑が好きです。私と同じです。何度もなんども繰り返しとなえます。とても恐ろしいのです。

「なにに怯えているの?大丈夫。大丈夫よ。主任は姉さんよりも、きっと私を好きになるわ」

 私は心の中で叫びました。

 姉は、姉の幻は、シュルシュルと少しずつ高瀬の身体から離れていきます。白い乳房と腰をくねらせ、霧のように消えてしまいました。

 秋が終わる頃まで、私と高瀬にはなにも起こりませんでした。スーパーマーケットの地下駐車場から、時雨れて薄暗くなった空を見上げます。透明のビニール傘を差し、錆びた階段を上り、社員入口のドアを開けます。傘をたたみ傘立てにいれると事務所に入りました。高瀬がパソコンに向かって仕事をしています。

「主任。お疲れ様です」

「お疲れ様です。何だか今日は冷えるね」

「主任?お風邪ではないですか」

「そうかな?目が少ししょぼしょぼするんだ」
 
 高瀬が黒縁眼鏡の鼻の部分を持って外しました。よく見ると高瀬は、苦みばしった渋い顔をしています。若い頃やんちゃだったのかもしれません。知的だと思っていましたが、意外と野性的なのかもしれません。
 
 高瀬がため息を一つつきました。肌が青白いのです。

「主任。今日はお帰りになった方がよろしいのではないでしょうか?」

「そうだね。申し訳ないけど、早退させてもらおう。ごめんね」

「はい。お大事になさってください」

 本当は帰ってほしくなかったのです。

 ふと高瀬の背中を見ると、また姉の幻が、高瀬をきつく抱きしめています。振り向いて大きな瞳で、私をじっと見つめています。頭がぼんやしてきました。姉の赤い唇。ふわふわとカールした柔らかい髪。
 
 私は急いで一礼すると、奥にあるロッカールームに進み、制服に着替えました。名札をつけて身なりを整え、事務所に引き返すと高瀬はいなくなっていました。おそらく自宅に帰って行ったのでしょう。私は倉庫に行き、台車でダンボール箱を店内に運ぶと、品物を棚に並べました。

 高瀬が並べるはずだった飲料を倉庫から運ぶ仕事をしました。

 高瀬の代わりに、ダンボールを載せたカゴ台車を倉庫に入れようとしました。安全バーを受け金具にロックしようとした時、手元が狂い顔に当ててしまいます。ひどい痛みを感じ、涙が流れました。
 
 高瀬がいない職場はつまりません。

「寂しいわ」

  私は他の女性従業員たちと、どうしても馴染めないのです。みんなが楽しそうに話していても、輪の中に入れません。誰かが気を使って仲間に入れてくれても、話題についてゆけないのです。愛想を振りまいたり、気を使ったり、合図値を打つのが苦手で、次第に孤立してしまいます。
 
 でも高瀬は、私が出勤すると「坂井さん。こんにちは」と落ち着いた口調で、必ず声をかけてくれます。私が無愛想にしていても口数が少ない日も、仕事ぶりを認めてマメに褒めてくれます。大切な仕事は私に頼み、任せてくれるのです。時には冗談を言って笑顔にしてくれます。きめ細やかな気遣いをしてくれる人です。

「私は主任が好きなのよ。主任が好きなの」

 家に帰りシャワーを浴びました。顔にできた傷がヒリヒリと痛みます。軟膏を塗ってカットバンを貼りました。ベッドに横になり、ぼんやりとしていました。高瀬の顔ばかりが、頭の中に浮かんでは消えるのです。

 高瀬にからみついた姉の幻が、頭の中から離れません。大きな瞳と、赤く吸いつきたくなるような、艶っぽい唇。
 
 下腹部に鈍痛がしました。ショーツを下げて見ると、少しだけ血がついて汚れています。下着を履き替えて生理用ナプキンをしました。
 
 汚れたショーツをゴミ箱の上から、ぽとりと落としました。

「赤く汚れている」

 私は顔をしかめ、赤い血をしばらく見つめました。

  毎月下半身から出てくる赤黒い血を見る度、自分が嫌いになります。事故の時、姉の額から流れていた血液を思い出すのです。

「あの赤。姉さんが好きだった赤。姉さんの赤い唇」

  私は考えていました。抽斗の中で羽化した蝶のこと。頭の中に霧がかかったようで思い出せません。

「あの優しい姉さんが、蝶を見殺しにするかしら?」

 いえ、あの蝶は私が殺したのです。

 自分の机の抽斗を開けたら、羽を広げた美しい蝶の死骸がありました。私の体に凄い衝撃が走りました。尻もちをついて泣き叫んだのです。気づいた姉が隣の部屋から走ってきました。

「美桜ちゃん。大丈夫?」
 
 姉は死んだ蝶を手の平にのせて、じっと見つめていました。中庭に下りて庭木の下を掘りおこし、中にそっと入れて土をかぶせました。姉の手は汚れていました。
 
 私は思い出す度、何度も苦しみ、蝶が死んだのは姉のせいだ、私のせいじゃないと頭の中ですり替えてきました。

「あの犬だって、姉さんは手が汚れても、そっと撫でてあげていた」
 
 小学校の頃、姉と港に向かう途中、車に撥ねられた犬を見つけました。赤い血が体から流れ、アスファルトを黒く汚しています。私は見て見ないふりをしようとしました。姉は港市場でパンと牛乳を買ってきました。

「神様お願いします。助けてください」
 
 姉は犬にパンを与えましたが食べません。せめてもと、片手の平をくぼませて牛乳をためると、飲ませようとしました。でも飲みませんでした。

 姉は涙を流しました。しゃがみこみ、犬が天に召されるまで、ずっと側についていました。私は立ち尽くして眺めているだけでした。

「私はつまらない人間です…」
 
 眠ろうと思いました。犬の体から流れていた赤い血が頭から離れないのです。

 翌朝7時に目覚め、起き上がると身体が鉛のように重く感じました。生理のせいでしょう。自分の身体の中に、赤い血が通っていることを毎月思い知らされます。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して飲みました。

「頭痛がする」

 微熱があるのか?身体がやけに熱いです。布団に潜り込んで再び眠りました。そのまま昼過ぎまで眠り込んでしまいました。
「私は、赤に囚われいる。姉に執着している。狂ってしまいそうだわ。いえ、もう狂っているのかもしれない」

 両手で頭を抱えて苦しみました。

「主任。助けて。主任」
 
 今日は会社を休もうと考えました。その方が都合が良かったのです。高瀬は自分の風邪が、私に移ったと思うでしょう。顔に怪我もしたので心配してくれるかもしれません。

  私は職場に電話をして、主任と話しました。

「もしもし坂井です。主任。お疲れ様です。風邪を引いたみたいです。熱がありますので休ませて下さい」
 
 涙が零れました。私はしゃくりあげて泣きました。

「そうですか。顔の傷はどうなの?とても心配しているよ。大丈夫?」

「主任…」

「どうしたの?坂井さん。大丈夫?ご家族と一緒に住んでるの?」

「いいえ。私、アパートで一人暮らしなんです。大丈夫。主任、ありがとうございます」

「うん。それならいいけど」

「主任。今日一日休めば元気になります」

「うん。分かりました。心配してるよ。お大事にね」

「はい。ありがとうございます」

 胸が熱くなりました。

 夜になり微睡んでいると、インターフォンが鳴ります。覗き穴から見てみると、高瀬の姿が見えました。

「やっぱり、心配してきてくれた」

 嬉しくて私の胸が震えます。

 高瀬が背を屈めて何か置きました。直ぐに立ち去り、姿は見えなくなってしまいました。私はカーディガンの前を左手で合わせると、右手でドアノブを押し、外に出てみました。

 扉の横に一輪の白い薔薇が置いてありました。

 持ち上げると、巻いてあったセロファンが、カサカサと音を立てます。

「青いインクを水に溶いて吸わせたら、青薔薇に変わるかな?」
 
 一輪挿しを出して薔薇を生け、枕元に置いて眺めました。思わず笑みがこぼれます。

「何色にも染まっていない。私が主任を染めたい。私色に」

  いつまでも見ていたいと思いました。
 
 誰が女の子は『赤』だと決めたのでしょう?姉は『赤』が好きでした。本当は私も『赤色』が好きなのかもしれません。
 
 以前インテリアショップに行った時、小学生の学習机が並んでいました。机の側に、色々なカラーとデザインのランドセルが展示してあります。赤やピンク、ミントグリーン、オレンジ、水色。黒やブルー。白い縁取りや、レースや花の刺繍が施してありました。ボタンや留め金がとても凝っています。私はため息をつきました。

「まるで蝶々みたい。最近の子供たちはいいわね。色んな色や柄が選べる。女の子は『赤』だと決まっていない。自由だわ」
 
 私はうとうとしながら、深い眠りにつきました。

 目が覚めて時計を見ると正午を回っていました。外出する支度をして、ショッピングモールの小物屋に入ります。男物のハンカチーフを見ました。グリーンに白の水玉模様、黒い縁どりのハンカチを手に取り眺めます。自然と笑みがこぼれました。支払いを済ませ、包んでもらいます。

「こんな模様の、緑色の蝶々はいるかしら?」

 家に帰り軽く食事をして、出勤準備をします。会社に行くと高瀬が声をかけてくれました。

「坂井さん。大丈夫?」  

  事務所には、高瀬一人しかいません。

「はい。大丈夫です。ご心配をおかけしました。あのう。昨日はお花をありがとうございました。住所を調べて来てくださったのですね」

「しっ」
 
高瀬は右手の人差し指を立てて、目配せをしました。

「うん」

「それより、坂井さん。スマートフォンを持ってる?」

「あ、はい。電話番号の交換ですか?」

  私は笑いながら言いました。冗談のつもりでした。

「いや。本社からアンケートが来てるはずなんだ。まぁ、電話番号を交換してもいいよ。ラインはしてるの?」

「ラインはしています。待って下さい」

  私と高瀬は、急いでラインをつなぎました。私の手が震えます。高瀬が私の指先をそっと握りました。温もりが伝わってきます。
 
 しばらく見つめ合いました。今度は姉の幻は見えませんでした。
 
 おもむろに鞄から、ハンカチーフの入った包みを出して高瀬に渡しましあ。高瀬は私の目から視線を離さず受け取りました。

「これは?」

「ハンカチです。薔薇のお礼。使ってください」

「ああ。ありがとう。アンケートに答えておくように」

  高瀬は包みをポケットに入れると、背中を向けて事務所を出て行きました。

  三日経っても高瀬からラインはきませんでした。社交辞令だったのかもしれません。会社で高瀬と顔を合わせても、社員以上の会話はしませんでした。

 明日私は仕事が休みです。手作りの料理を持って、勝也の家に行きます。勝也は姉の夫です。

 小学校の時、私はブーツを買ってもらいました。姉と一緒に、幼なじみの勝也の家に遊びに行く時、時々靴の紐が解けます。姉はしゃがみこんで蝶結びにしてくれました。上から見る姉の髪には、ベルベットの赤いリボンが結んでありました。赤い蝶々のようでした。
 
 姉はブーツの紐が解ける度、蝶結びにしてくれます。私はそれをわざと何度もほどきました。姉は根気よくしゃがみこんで結んでくれるのです。しかしその度に、姉の赤いリボンを見る羽目になりました。

「赤なんて嫌いよ。大嫌い。私は緑が好き。緑が好きと言った主任が好き。私は主任が好きなんだわ」
 
 催眠術を自分にかけるように何度も繰り返し言います。

「うふふふふ」

  どこからか姉の笑い声がします。

「姉さん。今度はとらないで。お願いよ」

  翌朝七時に目覚ましをかけて寝ます。アラームで目が覚め、スマートフォンを見ると高瀬からラインがきていました。

『おはよう。坂井さん。今日は休みだよね?アパートに行ってもいい?』

『主任。おはようございます。どうぞいらしてください。お待ちしています』

 返事をすると直ぐに既読になりました。

 それから数時間後、インターホンが鳴りました。ドアを開けると高瀬が立っています。高瀬はグレーのハイネックリブニットに、ターコイズブルーのジーンズを履いていました。

「おはよう」

「おはようございます。どうぞ上がってください」
 
 高瀬は革靴を脱いで部屋に入ると、珍しそうに中を見回し、キッチンのコンロに目をやって匂いを嗅いでいます。

「美味しそうな匂いだね」

「肉じゃがを作ったんです。主任に食べてもらいたくて」

 頬が熱くなりました。

「そうか。嬉しいなぁ。家庭の味に飢えているからね。単身赴任だと、外食やお弁当ばかりなんだ」

「そうだと思いました。まだお昼前ですが、食べましょうか?」

「うん」

「じゃぁ、腰掛けて待っていてください。お味噌汁も作ります」

  私は高瀬に椅子に座るよう促すと、背を向けて料理を作りはじめました。背中に視線を感じます。油揚げを切る手を止めて振り向くと、高瀬はねっとりとした目つきで、私のお尻のあたりを見ています。

「姉さん…」
 
 高瀬の背後に姉の幻が立っています。高瀬の両肩から細い腕を回しています。吸い込まれそうな瞳で、じっと私を見つめているのです。

「姉さん。とらないで」

  再び包丁を動かし続けます。脈が早く打ち、身体に力が入ります。

「やはり私は、赤に囚われている。頭が痛い」 

 全て緑に塗り替えたい。姉ではなく『美桜』に塗りつぶしたいのです。

「さぁできましたよ。いただきましょう」

 無理やり笑顔をつくりました。

「うん。それにしてもたくさん作ったんだね」

「ああ。いいんです。気にしないでください。あまったら明日、食べますから」

「それにしても多すぎじやないの?」

「気にしないでください。さぁ、どうぞ。たくさん食べてくださいね」

「でも、これは作りすぎだと思うよ」

「いいんです」

 私はにっこり微笑みました。高瀬は肉じゃがを美味しそうに食べましたが、ご飯は一膳しか食べませんでした。
 
 勝也なら、もっとたくさん食べてくれるだろうと思いました。
 
 私は食後のお茶を入れて高瀬の前に置きました。高瀬はお茶をすすると、ポケットから、私がプレゼントしたハンカチを出して口を押さえました。私は頬が熱くなりました。

「美味しかったよ。ご馳走様。またなにか作ってくれる?」

「もちろんです。いつでも遊びに来てください」

「なんだかお腹がいっぱいになったら眠くなってきた」

「少しお休みになりますか?」

  私はキッチンの奥のドアを開けました。手前に白い絨毯が敷いてあります。奥にシングルのベッド、向かって右側にドレッサーがあります。高瀬は部屋に入ると絨毯に横になりました。私はベッドから毛布を取り、身体に掛けてあげました。

「坂井さん、側に座って」

「え?はい」
 
 私が側に座ると、高瀬は膝に頭を乗せます。しばらくすると腿を指で上下になぞりはじめました。高瀬がスカートの中に手を入れて、ゆっくりと上下に撫でながら動かします。

「酒井さん」

「はい」
 
 私は生唾を飲みこみました。喉を鳴らした音に気づかれたかもしれないと顔が火照りました。

「坂井さん」
 
 高瀬はショーツの上から下半身を触ろうとします。私は身をよじりました。

「主任。やめてください」

「こうなること、分かっていたんだろ?」

「主任。ごめんなさい。いま私、生理なんです」
 
 高瀬は無言で手をスカートから出しました。しばらくすると寝息を立てて眠ってしまいました。私は高瀬の頭を優しく撫で、髪を指に絡めます。高瀬の顎髭を触ります。
 
 どうして女の子は『赤』なのでしょうか?いま血液が流れ出なければ、高瀬と抱き合えたかもしれないのです。
 
 どこからか姉の含み笑いが聞こえます。瞳を見開いて、嬉しそうに笑っている姉の幻が現れました。

「姉さん。主任に触って欲しかったのよ。抱いて欲しいの」
 
 私は、もう何年も男性に抱かれていません。誰かに愛されたい。『赤』じゃなく、緑色が好きと言った高瀬。高瀬に愛して欲しいのです。
 
 高瀬が帰ると、しばらくぼんやりしていました。私は気を取り直して、タッパーに肉じゃがを詰めました。風呂敷で包んで片手で抱えました。靴を引っかけて表に出ます。午後の日差しが黄色い銀杏に当たり、まぶしく輝いています。急いで勝也の家に向かいました。手料理を持って行ったら、どんなに喜ぶでしょう?勝也ならたくさん食べてくれるに違いありません。
 
 格子戸をくぐりインターホンを押します。

「義兄さん。こんにちは」

「美桜ちゃん?開いてるよ」

「お邪魔します」

  私は玄関から奥に入り居間に向かいます。勝也は黒い皮のソファに座って、ぼんやりしていました。右手を握って口元に当て、眉間に皺を寄せています。

「義兄さん。また、姉さんを思い出しているのね」

「ああ。ごめん。つい、休みの日は思い出すんだよ。仕事をしている時は、そんなことないんだが」

「私、義兄さんが寂しくないように、毎週の義兄さんの休みの日に、仕事の休みを、合わせてもらってるのよ」

「うん。分かってるよ」

「姉さんが死んで、もう随分経ったわ。義兄さん。元気を出してほしい。しっかり食べて、よく眠って健康でいてほしい」

「うん。でも、友梨奈との時間が長かったからなぁ。簡単じゃないんだよ」

「ごめんなさい。私がしっかりしてたら、姉さんは車にひかれなかった」

「美桜ちゃんのせいじゃないよ。あれは事故だ」

「うん。信号機が赤に変わりそうだった。点滅していた。私は姉さんをとめたのよ」

「もうその話はやめよう」

  勝也は深いため息をつきました。そうして思い直したように言います。

「美桜ちゃん。今日も何か作ってきてくれたんだろう?美桜ちゃんの手料理は、友梨奈の味と似ている。嬉しいよ」
 
 似ているのではありません。真似ているのです。姉さんに近づきたいのです。そうしないと、勝也は、愛してくれないからです。
 
 どうして女の子は『赤』なのでしょう。
 
 姉が赤で横断歩道を渡らなければ、交通事故に遭いませんでした。勝也は苦しむことがありませんでした。私も泣きませんでした。傷ついたりしなかったのです。姉に帰ってきて欲しいのです。姉が憎いのに、愛おしいのです。

「どんなに後悔しても、もう姉さんはいない」
 
 私は台所に行き、タッパーの中身を鍋に移しました。コンロを弱火にして温めます。炊飯器をあけるとご飯が炊いてありました。流し台の側の窓に夕日が差しています。キッチンが柔らかい日差しで満たされていました。

「ちょっと早いけど、お夕飯にしましょうか?」

 私は、肉じゃがを器に盛って、ご飯を茶碗によそうと、勝也の席に置きました。勝也は椅子に座って、箸立てから自分の箸を取ります。私は勝也と向かい合って座りました。以前は姉の椅子でした。テーブルの中央に手を伸ばして見つめます。

「美桜ちゃん?どうしたの」

「いえ。なんでもないわ」

 箸置きに赤い箸が入れてあります。姉の箸です。もう必要ないのに、勝也はずっとそのままにしています。見る度に胸が痛みます。私は違う箸を手に取り、肉じゃがを食べ始めました。勝也は美味しそうに食べています。

「義兄さん。たくさん食べてくれるのね」

 夕飯が終わり居間に行くと、大窓のカーテンを閉めました。

「美桜ちゃんは、神経質だなぁ。直ぐにカーテンを閉めたがる」

「だって、誰か見てるような気がするんだもん」
 
 居間にあるドアを見つめました。いつも閉めてあり、中を見たことがありません。

「いつか入ってみたい。きっと家具やベッドは、姉の好きな赤が使われているに違いないわ」

 姉は綺麗好きでした。掃除を欠かさなかったでしょう。花を飾るのも好きでした。編み物をしたり、凝った料理を作ったり、家庭的でした。

 勝也はそんな姉を誰よりも愛し、尊敬していました。勝也は神聖な室内を、誰の目にも触れさせたくないのです。私はとても興味がありました。どうしても覗いてみたいと思っていました。

「美桜ちゃん。もう帰らないと。暗いから。途中まで送って行くよ」

「うん。泊まっちゃだめかな?」

「だめだよ。泊めるわけにはいかない」
 
 勝也の後ろについて路地を行きます。線路の下にあるトンネルを抜け、海岸線を並んで歩きました。波の音が耳に心地よいです。

「いつまでも、こうして歩いていたいわ。よく、義兄さんと姉さんと三人で歩いた。今もよ」
 
 薄紅のワンピース姿の姉の幻が、勝也の前を歩いています。

「え?今も?なんのことだい?友梨奈を一番忘れられないのは、美桜ちゃんかもしれないなぁ」

「子供の頃、穏やかな日々がずっと流れていくと思っていたの」
 
 港からの潮風に吹かれ、薄紅のワンピースの裾をひるがえす姉の姿。麦わら帽子が風に飛ばされないように、両手で押さえている。早足で海を見に行く姉の姿。
 
 市場の前を通り、ショッピングモールの近くに着きました。

「じゃぁ。美桜ちゃん。しっかり戸締りするんだよ」

「義兄さんも。気をつけて帰ってね。送ってくれてありがとう」
 
 私と勝也は微笑み合いました。勝也の背中を見送ります。

「こんなことを、何度繰り返すのだろう。迷路をぐるぐる回っているみたい」

 翌日から会社で、高瀬とできるだけ顔を合わせないようにしていました。あれから高瀬はラインをして来ませんし、声をかけてきません。一週間黙々と働きました。パート社員の誰かが、高瀬のマンションの話をしていました。

 職場のスーパーマーケットの駐車場から見上げる、高瀬の部屋の灯り。ビルディングは、まるで、巨大なツリーのようです。
 
 その時ラインの通知音が鳴りました。高瀬からです。私はほくそ笑みました。わざとメッセージを見ないで、ラインアプリを閉じました。閉店準備をして、売り場から事務所に戻り、タイムカードを押し真っ直ぐ帰宅します。荷物を置いて、しばらくしたらインターホンが鳴りました。覗き穴から見ると高瀬でした。

「来ると思っていた」

 ドアチェーンを外し、扉を開けます。

「こんばんは」

  高瀬はグレーのジャージの上下に、紺色のパーカーを羽織って、いたずらっぽい目をして見つめました。

「主任。どうしたんですか?私、今帰ったところです」

「坂井さん。中に入っていい?」

「え?」

「ラインに『今夜行ってもいいかな?』とメッセージしたけど、坂井さんが読んでくれなかったから」

「ああ。すみません。気がつきませんでした」
 私は嘘をつきました。
 
 高瀬は無理やり扉を押して、ずかずかと中に上がり込み、キッチンを抜けて、私の部屋のドアノブを押し室内を見回しました。鼻から息を吸い込み、目を閉じて息を吐きました。ベッドに座り黒縁眼鏡を外すと、左手でマットレスを叩きます。

「坂井さん。ここに座って」

「はい」
 
 私は躊躇するふりをして、高瀬の横に座りました。高瀬はいきなり唇を重ねてきました。高瀬は仕事をして汗をかいている私を抱きました。私は嫌がる素振りをしました。

「主任。私、仕事で汗をかいていたのよ。シャワーも浴びてないのよ」

  私はわざと高瀬を責めました。でも、嬉しくてたまりません。声がうわずりました。身体がとても乾いていたのです。

 まるで薔薇に巻かれたセロファンのように、カサカサと音を立てていたのです。

「主任。恥ずかしいわ」

 背中がぞくぞくします。

「美桜」

「主任?」

「美桜、大丈夫。今日のことは秘密だよ。いいね?」

「うん」

「僕がしたことを、誰にも言っちゃ駄目だよ。いいね?」

「うん」

「美桜はいつも寂しそうだ。悲しい目をしているよ」

「悲しい目?」

「綺麗な澄んだ瞳なのに。どうしてかな?」
 
 高瀬が私の瞳を見つめました。誰かに瞳が綺麗だといわれたのは初めてでした。

「僕の妻は、若い頃流産してね。それ以来精神を病んでしまった。美桜みたいな悲しい目をしている」

「ああ。そうでしたか…」

「それから、身体の関係もなくなった。美桜、僕はずっと寂しかった」
 
 高瀬が私の胸に顔をうずめて泣きました。高瀬の背中を優しく撫で、ぎゅっと抱きしめました。
 
 夜が更けても私たちは抱き合いました。
 
 高瀬も私と同じで、身体が乾いていたのでしょう。心が砂漠のように、乾燥していたのでしょう。
 
 私は疲れ果て、いつの間にか眠ってしまいました。目が覚めると、高瀬はいなくなっていました。
 
 シャワーを浴びて朝食を食べると、いつも通り出勤しました。高瀬は、何事もなかったように仕事をしています。私も見ないふりをして品出しを続けました。私と高瀬は時々目を合わせ、瞳だけで微笑み合いました。帰りに高瀬が声をかけてきました。

「坂井さん。お疲れ様でした」

「お疲れ様でした」

  私は小さな声で応え、会釈をしました。
 高瀬が私の目をじっと見つめます。黒縁眼鏡の奥の瞳が、異様に輝いていました。高瀬の

「誰にも言っちゃ駄目だよ。いいね」という言葉が、頭の中で反響しています。私の全身が震えました。

「主任と私だけの秘密ができた」

  興奮して頬が熱くなります。私は胸を踊らせました。高瀬は私と同じ寂しい人です。

「主任には別の顔がある」

 私は高瀬に自分と同じ匂いを感じました。

 それから高瀬は、私の休みの日には必ずアパートに来るようになりました。午前中に来て午後には帰って行きます。前の晩から泊まっても、翌日昼にはいなくなります。私にはとても都合が良かったのです。公休日の夕方は、勝也に手料理を届けています。数年前姉が亡くなってから、ずっと続けているのです。

 この日も早朝から高瀬とベッドの中にいました。高瀬は私の心と体の乾きを、たっぷりと潤してくれます。

「美桜の初体験はいつだったの?」

「秘密」

 私は含み笑いをしました。

「なんだ。つまらないなぁ。じゃあ、今までで、一番好きだった人は?」

「産婦人科の先生」

「え?お医者さん?」

「うん」
 
 高瀬が眉間に皺を寄せました。いたずらっぽい目をして顎髭を触ります。高瀬は聞き上手でした。少年のような表情をして、私の瞳を覗き込みます。まるで子供が絵本を読み聞かせてくれと言うようです。

「もうずいぶん昔、膣が痒くなったの」

「それで?男には分からない話だな。興味があるなぁ」
 
 相槌を打ちながら真剣に聞いてくれます。高瀬に話す事で、心に溜まっていた不満や悲しみが癒されてゆくのです。高瀬に聞いてもらう事で、私の一つの事件が終わりを迎えます。誰にも聞いてもらえなかった苦しみが終結します。私は安堵するのでした。

「実家の近くの産婦人科で診てもらったの」
 
 原因は、カンジタという細菌だった。

「もうすぐ、生理になりそうですね。生理前になったら、身体の変化が分かりますか?たとえば、お乳が張るとか」
 
 先生がいいました。

「いえ、よく分かりません」

「生理後は排卵があります。コンドームを必ず使って下さいね」

 優しい口調でした。

 陰部に塗る薬とクロトリマゾール膣錠を処方され、会計を済ませ、医院の庭を見たのです。幼い頃かくれんぼをして、よくここに忍び込みました。植え込みにじっと隠れていたのです。その頃の先生の息子が、いま産婦人科を継いでいます。
 
 翌日の朝トイレでおしっこをしたら、血液が混じり尿が赤くなっています。生理になったのです。私は舌打ちをしました。産婦人科が開く時間になって、電話で問い合せました。

「もしもし、昨日診ていただいた坂井美桜です。生理になったのですが、膣剤を入れても大丈夫でしょうか?」

「先生にかわりますのでお待ち下さい」
 
 受付の女性が先生に電話をつないでくれました。

「もしもし、坂井さん。生理になりましたか」

「はい。先生。どうしたら良いですか」

「生理が終わるまで、膣剤は入れないで下さい」

「生理が終わって診察に行けば良いですか?」

「いや。生理が終わって膣剤を入れてください。膣剤が無くなってから診察に来てください。わかりましたね?生理が終わってから、来てくださいね」
 
 私には医者の声が、かったるく面倒くさそうに聞こえました…

「私ね、先生は生理が嫌いなのだと、勝手に思い込んでしまったの。『生理が終わってから来てください』って強調するんだもの。出血が汚いと思っているに違いないと思ったのよ。赤い血が嫌いなんだわ」

「え?赤い血が嫌いって。どうして?」
 
 高瀬が、怪訝な顔をします。

「それで私、先生がとても好きになった。好きで好きで、たまらなくなったの。赤が嫌いだからよ」

「え?よく解らないよ。解るように説明してくれ。さっぱり分からないよ」

「分からなくていいのよ」
 
 高瀬が興味深そうな瞳をして、じっと見つめます。私は身震いをしました。高瀬が好きです。自分と似ています。高瀬の鋭い切れ長の目と、満たされていない心…
 
 治療が終了した日、久しぶりに医院の庭に出てみました。
 
 赤い塊が、男の足元を、ぼたぼたと取り囲んでいるのが見えます。胸の高鳴りを押さえながら近づきます。血の海は、ぽうっと明るい灯火を放っていました。

 そろりそろりと歩み寄ると、枝にもぶれついていた椿が、うじゃけて落ちて、幹の周りに散らばっているだけでした。

 幼い頃、椿の枝をしならせて手に持ち、私と姉に話しかけた母の、後ろ姿を思い出しました。

「椿を摘んで、花の首元を吸ってごらんなさい」
 
 私は、黒髪を結い上げた母の、白い首筋を見ていました。椿の紅に映えて妙に艶めかしいのです。

「さあさあ、友梨奈。美桜。千切って吸ってごらん」
 
 母に促され、私は花を小さな指でもぎ取ると、唇に押し当てて、ちゅうと吸ってみました。仄かに優しい香りと甘い味がします。病みつきになり、次から次へと摘んでは口で吸いこみました。
 
 姉は蜜を吸うことを拒みました。私がすすめても「花が可哀想だ」と言い、手を伸ばさなかったのです。姉はおびえて震えていました。「鳴き声がする」としゃがんで耳を塞ぎます。

 私は嬉しかったのです。見せつけるように引きちぎります。姉の悲しみに歪む顔を、どうしても見たかったのです。
 
 姉の瞳が潤み光に煌めきます。ぽってりとした赤い唇が半開きになりました。姉の表情は、まるで、遠い異国の人形のようでした。

「とても可愛らしい」

 私は姉の前で、夕暮れ時も朝の美しい日差しの中でも、残酷に、白い指先で引きちぎりました。その時の感触と姉の愛らしさが、記憶の中に手の先に、まだ生暖かく残っていて、時たま震える右手を、左手でぎゅっと握りしめ、喜びに耐えているのです。

「嗚呼、姉の宝石みたいに輝く瞳を、いつまでも記憶の箱に封じ込めて鍵をかけ、誰にも触らせたくないわ」
 
 あの姉を知る者は誰もいません。
 
 それからの私は、椿の落ちるすがたを見ると、血の海を見ているようで、幻まで観てしまい、怯えて震えてしまうのです。

 姉の悲しみに歪む姿を思い出し、興奮して目が眩むのでした。

 私は貧血をおこして倒れました。

 看護婦が見つけ、病院のベッドに寝かされます。先生が脈を測り、私の上着とブラジャーをたくしあげて、聴診器を当てました。ひんやりとした感触がします。心配そうな顔をして覗き込みました。私は嬉しかったのです。受付の女性が、私の自宅に電話する声が聞こえます。しばらくして姉がタクシーで迎えに来てくれました。先生が姉に事情を話しています。私は薄目を開けて見ていました。

「先生。妹がご面倒をおかけして申し訳ございません」
 
 姉が深々と頭を下げます。

「いえいえ。あなたのことは図書館で時々お見かけします。あなたが坂井さんのお嬢様ということは知っていました」

「まぁ、そうでしたか。今度はお声をお掛けください」

  姉が上目遣いで先生を見つめます。先生の頬に赤みが差しました。私は、少しがっかりしました。先生も姉が好きになったのでしょう。私は人を魅了する姉が、とても自慢でした。

「姉さんを、私だけのものにしたかった。とても憧れているの。姉さんになりたい。姉さんになれるのは、私しかいない」

「美桜、大丈夫か?本気で言っているの?まぁ先生も、友梨奈さんを好きになったんだね」

「そう。姉さんに見つめられたら、みんな姉さんを好きになるの」
 
 私は姉が好きでたまらないことを、高瀬に告げることができて安心しました。今まで誰にも話せませんでした。

 でもその反面、姉を憎んでいることは言えなかったのです。
 
 姉は私の好きな者をみんな盗みます。みんなを魅了します。先生もとられてしまいました。

「お姉さんの友梨奈さんは、どんな人なんだろう?興味があるなぁ」

「そういえば、小学校低学年の時、姉さんと苺のショートケーキをお皿にのせて運んでいたの。私はお皿を床に落としてしまった」

「うん。それで?」

「私は大声で泣いたの。姉は自分のショートケーキから苺をつまんで、私の口に入れた。私は泣きながら噛んで飲み込んだ。それから姉は自分のケーキを半分にして、私に食べさせてくれた…姉さんは赤色が好きなの。大好きな赤を私にくれた。どうしてだろう」

「赤色?うーん。友梨奈さんは、優しいお姉さんなんだね。写真はないの?」

 私は、高瀬に写真を見せました。

「美桜と友梨奈さんは、少し似ているけど…目が全く違うね」

「そうね。残念だけど目が全く違うわ。姉さんは瞳が大きくてヘーゼルアイなの」

「ヘーゼル?」

「身に着けるものや照明で、瞳の色が変わって見えるの」

「ああ。聞いたことがある」

 姉が十九歳、私が十五歳の正月でした。母が晴れ着を準備してくれました。赤と緑、二枚の振袖で、母がたとう紙を広げて見せてくれました。

「わぁ。綺麗」
 
 私は手を叩いて喜びました。

「さぁさぁ。友梨奈、美桜。どちらの色がいいの?」

「友梨奈は赤がいい」

  姉が即座に答えました。姉は自分のことを話す時、「私」ではなく「友梨奈」と言います。私は姉がいつまでも甘えていて、幼稚だと感じていました。甘ったるい声でわざとらしいと思っていました。

「私は。私は、緑」
 
 私は赤の晴れ着を見ながら言いました。緑の振袖には目を向けませんでした。
 
 母が姉と私の髪を上手に結い、晴れ着を着せてくれます。母は器用で、お茶会に行く時には、自分で着物を着付け、洒落た簪を挿していたものです。

 母が桐の簪箱を二つ出し、蓋を開けると、蝶をかたどった髪飾りが入っていました。
 
 私は目を見張りました。姉と顔を見合わせて笑います。

  母が簪を取りだして、姉と私の髪に飾ってくれました。
 
 赤地にピンクや白の薔薇が描かれた晴れ着に、黒い帯を締めた姉は、華やかでモダンでした。赤い帯締めがキリリとしてクールな印象です。
 
 姿見で自分を見ました。青緑の着物は古典的な菊柄で、薄桃色の帯に黄色い帯締めが、子供っぽく感じました。しかし姉が着たらどうでしょう?おそらく品が良く、一段と映えるのでしょう。

 やはり姉は素晴らしい。
 
 私が地味に見える一番の原因は、顔立ちのせいです。姉と私は瞳だけが全く違うからです。とても悔しいです。

「私の瞳は黒くて切れ長でしょ?子供の頃から、姉さんの目は綺麗で、とても羨ましかった。みんな姉さんに惹かれたわ。姉さんに憧れた。瞳のせいだわ」

「うーん。でも人は見た目じゃないと思うよ」

「それは建前よ。綺麗な方がいいに決まっている。就職試験でも、同じ成績なら見た目がいい方を選ぶんじゃないかしら?あってはならない事だけれど」

「そう言えば、フェイスブックでも綺麗な人がもてはやされているね。人は顔じゃないのに」

「あら?主任は、フェイスブックをしているのね。姉さんもしているの」

 私は嘘をつきました。

「友梨奈さんが?」

「そうよ。私はしてないわ」

「へぇ。友梨奈さんが…」

「やっぱり興味があるのね。姉さんに話しておきましょうか」
 
 私は高瀬の胸に置いていた両手をぎゅっと握りしめました。鳥肌が立っています。高瀬は何も言いませんでした。ただ天井を見つめているだけでした。頬を当てた高瀬の肌から、体温と心臓の音だけが伝わってきます。
 
 窓に顔を向けると、空は青く、どこまでも続いているようでした。

 高瀬が帰り、洗面所で顔を洗い、鏡を見つめました。青白く血色のない頬と虚ろな瞳が映っています。垂らした髪は、針金のように真っ直ぐで、黒々としています。薄い唇の色は悪く、不健康そうに見えました。
 
 私は部屋に戻り、クローゼットを開けると、紺色のハイネックワンピースを取り出して、しばらく見つめていました。おもむろにワンピースを羽織ると、ドレッサーの椅子に腰掛け、髪を丁寧にブラッシングします。手ぐしで緩く髪の毛を編み込み、ベルベットの臙脂色のリボンを結びます。濃い目に化粧をして血色を良くすると、赤い口紅を塗ります。胸にはカメオのブローチをつけました。

 また姉の幻が現れました。私の後ろから抱きついて瞳を向けています。吸い込まれそうでとても美しい。赤い唇を半開きにして笑っているのです。輝くように綺麗な姉。

「美桜をそれでいいのよ。ひねくれていないで、私になりなさい。私として生きてゆけばいいの」
 
 姉が含み笑いをします。
 
 私は立ち上がり、美顔アプリを使用して胸から上を撮ります。黒目を加工します。色を変えて丸く大きくし、睫毛を長くして、輝きを加ええました。

 姉にそっくりです。

 フェイスブックを開いて、プロフィール写真に設定しました。写真の下には、坂井友梨奈と書いてあります。私は姉に化けていました。
 
 数日後、友達リクエストが一件きていました。確認すると高瀬でした。

「やっぱり」

 フェイスブックのカバー写真は、白い羽の帽子を、目深にかぶった女性のフリー画像を設定しています。女の瞳は隠れて見えていません。高瀬が写真にリアクションしました。
 
 私は舌打ちをしながら、承認ボタンを押しました。

 しばらくすると、高瀬からメッセージがきました。

『こんばんは。高瀬新一です。友達リクエストをご承認下さり有難うございます。よろしくお願いいたします』
 
 私は返事を返しました。

『こんばんは。初めまして。坂井友梨奈です。よろしくお願いいたします』

『僕のプロフィールに、職場が書いてありますが、実は、友梨奈さんの妹さんと、一緒に働いています』

『まぁ、そうでしたか。いつも妹がお世話になっております』

『いえいえ。美桜さんは、実によく働いてくれます。友梨奈さん。仲良くして下さいね』

『はい。ありがとうございます』
 
 メッセンジャーを閉じると、私は眉間に皺を寄せました。歯噛みをして、スマートフォンを畳に放り投げます。携帯は滑るように移動して壁にぶつかりました。右手の親指の爪を噛み、ため息をつきました。

「まただ。また姉さんにとられた」

 翌日私は昼ご飯を食べると、薄手のセーターを着て、上に白いポロシャツを重ね着しました。黒いスラックスを履き、ドレッサーの椅子に座ると、鏡を見ながら髪をブラッシングします。三つ編みにしてゴムで結ぶと、唇に透明のグロスをぬりました。相変わらず血色のない青白い顔をしています。姉とは大違いです。
 
 ジャケットを羽織り、車を運転して会社に行きます。事務所のドアを開けると高瀬がデスクワークをしています。

「主任。お疲れ様です」

「はい。坂井さん。お疲れ様」
 
 顎髭を左手で触りながら、右手でパソコンを打っています。清潔そうな白いシャツにチャコールのベスト、黒フレームの眼鏡が知的な高瀬に合っています。

 私のアパートに訪れる、野性的で色気のある高瀬とは、全く別の顔をしています。私はほっとしました。高瀬には色んな顔があります。

 私が姉のふりをしても悪いことではありません。

 姉になりきっても、分かりはしません。

 もう姉はこの世にいないのです。何年も前に交通事故で亡くなっています。

「あの事故で、消えた。怖がることはない。私が姉になってもいいのよ」

 思わず笑みがこぼれました。

「何か言った?」

「いえ。何でもありません。主任」

 高瀬が瞳だけを動かして、私を見つめます。眼光が鈍く光って見えました。

  ロッカーに鞄を置き、ジャケットを脱いで入れると、私は売り場に出ました。バックヤードから荷物が積まれた台車を運び、売り場に次々と並べてゆきます。数時間集中して仕事をしていました。高瀬も催事コーナーに荷物を補充しています。チラチラと私を見ているようです。

 おそらくフエイスブックのことを聞かれはしないかと気にしているのでしょう。私の公休日は月曜日と木曜日です。また数日後になれば、高瀬はアパートにやって来ます。私は仕事を終えると、わざと高瀬に声をかけずに黙って職場を後にしました。

「じゃぁ質問。美桜はいつ初潮を迎えた?」

「主任は、そういう事を聞くのが好きね」

「女が話す時の表情っていいよね。恥ずかしがる子もいれば、あっけらかんと話す人もいる。サバサバした女が、急に色っぽくなったりする」

「いい趣味ではないですね」
  私は両方の指先で、高瀬の顎髭を触りました。

「さぁ美桜。答えるんだ。美桜」

  正座した私のスカートの中に高瀬が指を這わす。高瀬は、私を横にして、ショーツの上から、人差し指と中指でさすりました。

「話さなきゃだめですか。主任は、私を欲求不満解消の道具にしているの?」

「命令だ。命令。上司の言うことを聞かないと悪い評価をしてやるぞ。美桜。さぁ話して。恥ずかしがらないで」

「そうやって、色んな場所で、部下を遊びの道具にしていたの?」

「美桜。触ってやるから。気持ちいいだろ。それともやめて欲しいのか。恥ずかしいのか」

「うふふふ」
 
 私は嬉しいのです。高瀬との、会話のゲームやセックスは、なかなか面白くスリルがあります。

「さぁ美桜。話してくれ。気持ちいいことしてあげる」

「ああ。あの日。晴れ着を着た日でした」

「あの記念写真の日?」

「そうよ…」
 
 お昼になり、客間でお節料理を食べて満腹になった私は、ストーブの側で横になり、ぐっすりと眠ってしまいました。目が覚めて時計を見ると、三時を回っています。身体に掛けてあった毛布をめくります。仏間の前を通り、渡り廊下を抜けて離れに向かいました。手前が姉、奥が私の部屋でした。姉の部屋を通る時、中から声が漏れて聞こえました。

「かっちゃん」

障子に少し隙間があり、片目で中を覗くと、幼なじみの勝也が見えます。勝也は姉の赤い着物の裾を大きくめくって、手を入れていました。

「今、僕が美桜を触っているように、友梨奈さんが触られていたんだね。どんな顔をしていた?」

「ああ。主任」

「美桜。友梨奈さんはどんな顔をしていたんだ?気持ち良さそうだったか」
 
 姉は、赤い唇を半開きにしていました。眉間に皺を寄せて、色っぽい声で喘いでいます。勝也は、姉の首筋に舌を這わせていました。姉は着物の裾から白い腿を覗かせて、気持ち良さそうに悶えていました。
 
 姉が、薄茶色の瞳をこちらに向け、私と一瞬目が合いました。瞳孔がひらいたように見えます。まるで一匹の白蛇が、こちらを見つめているようです。身体をくねらせ、乳房を震わせています。
 
 白蛇になった姉は瞼を閉じ、恍惚の表情を浮かべていました。赤い唇から、熱い吐息と、喜びの鳴き声を上げているのです。

「ああ。かっちゃん」
 
 私は鳥肌が立ちました。自分の部屋に入り、静かに障子を閉めると、着物と襦袢を脱ぎました。ショーツに違和感があり、下げて見ると、真っ赤な血液が、下着にべっとりとついていました。生理になったのです。

 「美桜は初潮が少し遅かったんだ。友梨奈さんがいたぶられてるのを見て、ショックで生理になったのか。友梨奈さんと男が。そんないことをしていたのか。へぇ。僕も見たかったなぁ。友梨奈さんが喘ぐ姿」

「姉をとられたのよ。私だけの姉でいて欲しかった」

「でも女は、いずれ嫁にいくんだぞ。友梨奈さんをずっと美桜のものにしておくのは無理だったんだよ」

「嫌よ。一番欲しいものを、一番好きな人がとるなんて」

「は?何を言ってるの?美桜?」

  高瀬はいつになく興奮して、私を四つん這いにさせ、スカートをめくってショーツを下げました。後ろから両方の大腿をグッと掴み、腰を深くうずめました。
 
 一番欲しい姉を、一番欲しい男がとったのです。悔しくてたまりませんでした。
 
 瞳から涙が零れました。

 夕方になり、いつも通り勝也の家に向かいます。岸壁に沿って歩きます。波の音が荒く、私を急かしているように聞こえます。いえ、私の心が、勝也に早く会いたいと叫んでいるのです。

「美桜ちゃん、髪がずいぶん伸びたね?切らないの」

「切らないわよ。どうして」

「昔から短いのが好きじゃないか。短い方が似合うよ」

「義兄さん。昔、母さんが着物を着せてくれたことを覚えてる?姉さんが赤い晴れ着。私が緑の着物だった」

「覚えてるよ。二人とも可愛かった」

「あの時は頑張って髪を伸ばした。着物を着て、髪を結ってもらいたかったの」

「うん。あの時は長かった。でも…」

「今は長くしたいのよ。姉さんみたいにね」

「美桜ちゃん、俺はフエイスブックを利用している」

「え?」

「美桜ちゃんは、友梨奈の名前で登録しているね?顔も加工して、友梨奈にそっくりじゃないか。どうしてそんな事してるんだ。自分の顔写真で、自分の名前で、フェイスブックをやるべきだよ。友梨奈の名前で、友梨奈の顔で、男たちにもてはやされても、仕方ないだろう」

 私は全身が震えました。

「義兄さん。今日はカレーを作ろうと思うの。カレー、好きでしょ?来る時に、うちの店で材料を買って来たのよ」

「話をそらすなよ」

「先にお風呂に入ってきたら?」
 
 私はレジ袋を下げて、そそくさとキッチンに移動しました。一呼吸して、背中を向けてドアを閉めます。涙がとめどなく流れました。まな板を出して、人参を置くと、上から包丁を振り下ろして、真っ二つに切りました。

 白蛇に化けた姉を切り刻むように動かしました。

  私は床にしゃがみこみ項垂れました。長い髪が顔を覆い、しゃくりあげて泣きました。

「美桜ちゃん?大丈夫」

 勝也がそっとドアを開けてキッチンに入ってきます。

「うん。大丈夫よ。義兄さん」

「美桜ちゃん。もう友梨奈はいない。誰のせいでもないんだ。交通事故で亡くなった。美桜ちゃんは、友梨奈が大好きだった。気持ちはよく解る。俺だって」

「俺だって?」

「俺はもう、恋愛はしない」
 
 また姉の幻が現れました。勝也の後ろから抱きつき、白い太腿を絡めています。柔らかい髪が、勝也の腕に巻きついているのです。

「義兄さん」

 勝也が私に近づき、静かに両腕で抱きしめました。私は勝也の胸に顔をうずめ、思いっきり泣きます。勝也の両手に力が入り、震えています。

  いま私は、姉に抱かれた勝也に、抱きしめられています。

  勝也の顔を見上げると瞳に涙がいっぱい溜まり、苦悩の表情を浮かべているのです。勝也の背中に腕を回し、しっかりと抱きしめました。
 姉の幻が消えました。
 
 窓から夕日が差して、勝也の肩に当たっています。光は勝也のうなじの産毛を浮かび上がらせていました。私は両手の指先に力を入れて、勝也の匂いを思いっきり鼻から吸い込みました。

「カレーを作るの、手伝うよ」

 抱き合ったまま勝也が言います。

「うん。一緒に作りましょう」

「ジャガイモの皮を剥いたらいいかな?」

「うん」

 私は勝也の胸で微笑みました。

 あれは幻です。姉がいくら望んでも、もう勝也に触ることなどできません。
 
 ざまあみろと思いました。でも、どうしたら良いのでしょう。私は姉をとても愛しています。そして、殺してやりたかったのです。
 
 勝也と野菜の皮を剥き、鶏肉と鍋に入れてコトコトと煮ます。湯気が立ち、戸を放った隣の居間の空気をあたためています。勝也は穏やかな表情で、黒い革張りのソファに座りました。若い頃の面影を残した、優しい目元で微笑んでいます。私はほっとして勝也の隣に腰掛け、肩に頭を乗せました。時計の針の音だけが室内に響いています。
 
 大窓から川向うの竹林を眺めます。竹の幹が北風に弄ばれ、左右にしきりに動いています。

「また見ている」

   私は窓の側に移動して、カーテンを閉めました。振り向いて勝也をじっと見つめます。

「美桜ちゃん?また誰かに見られてるような気がするの?誰も見ていないよ。気のせいだ」

「竹の葉の隙間から、視線を感じるのよ。いつもよ。義兄さんと寛いでいると、いつも感じるわ」

「こんな田舎に覗く人なんていないさ。怯えなくても大丈夫」

「義兄さんの部屋で話したい。あのお部屋なら、誰も見ていないわ」

「だめだよ。あの部屋は、俺と友梨奈の部屋だ」

「義兄さん。もう姉さんを忘れて。新しい人生を歩んでちょうだい。姉さんだって、義兄さんの幸せを願っているはずよ」

「鍋、見なくていいの?もうそろそろ、煮えたんじゃないかな。料理の続きをしよう」

  勝也はソファから立ち上がり、キッチンへ移動しました。鍋の蓋をあけて、中を確認しています。私も仕方なく台所に行き、料理の続きを始めました。勝也の横顔は虚ろです。私は瞳を閉じて、深いため息をつきました。
 
 料理が出来上がり、私と勝也は沈黙したままカレーライスを食べます。スプーンがお皿に当たる音だけが、カチャカチャと響いていました。長い沈黙でした。瞳を動かして勝也を見上げると、強ばった顔で口だけを動かしています。辺りの空気がひんやりとしてきて、身震いがしました。

 アパートに帰ると、私は真っ直ぐに自分の部屋に入りました。ドレッサーの椅子に座り、鏡に映る自分を見つめます。
 鏡台に置いてあった鋏を右手で持つと、左手で長い髪を掴み、刃を入れようとしましたが、指先が震えて下に落としてしまい、切る事が出来ません。

「うふふふふ」

 どこからか笑い声がします。

「姉さん?どこ。どこなの?」
 
 私はジーンズのポケットを探ってスマートフォンを取り出しました。フェイスブックを開けて『中谷勝也』という名前を検索します。写真とプロフィールを確認しました。勝也のアカウントをブロックします。勝也は、私の投稿を見ることが出来なくなったのです。

 シャワーを浴びてから布団に入り、スマートフォンを枕元に置いて寝ようとしましたが、なかなか寝付けません。携帯のアルバムを見ていたら、勝也の家の庭に咲いた、白い水仙の写真が目に入りました。

  姉は花が好きでした。花壇や、プランターで育て、咲いたら、勝也と並んで眺めていました。勝也が姉の手を握っています。穏やかな日差しが二人の背中に差していました。私は遠くから姉と勝也の姿を見つめていました。姉が何度も振り向いて、私を手招きします。私は微笑むだけで、近づくことが出来ません。私には入れない神聖な場所に思えたのです。姉と勝也のいる所だけが明るく、私の居場所は薄暗いのです。姉はいつも私を気遣ってくれました。優しくされる度、私と姉と勝也の距離が、だんだん離れていくような気がするだけだでした。

「一番欲しい姉さんと、一番好きな義兄さん。両方、手に入らない」

 フェイスブックに、水仙の花の写真を、さも自分が植えていたように投稿してみます。

『お庭に咲いた水仙です。可愛らしいです』

  直ぐに、たくさんの男性たちがリアクションをしてくれます。その中に高瀬新一の名前もあります。

 私は声を立てて笑いました。両手を上に伸ばし、何かを掴むように手を握ります。胸をそらし、女王のような気分になりました。
「姉さんなら、フェイスブックなんてしないわよね。姉さんには、義兄さんがいたんだから。もう死んで、義兄さんに触れることもできないけどね」
 
 ざまぁみろと思いました。

「両方手に入らないなら、義兄さんを手に入れたい。義兄さんがほしい」

 姉の清純な表情を思い出します。私がどんなわがままを言っても、黙って聞いてくれました。

「虫唾が走る」

 でも、姉のふりをしなくては、誰にも相手にされない、自分が惨めでした。

「姉さん。私が嫌いじゃなかったのかしら?私が欲しいのは、姉さんじゃなく、姉さんの姿なんだ。あの姿が欲しい。ヘーゼルアイが欲しかった」

 しばらくして高瀬からメッセンジャーがきました。

『お庭の水仙、綺麗ですね。水仙の花言葉は自己愛ですが、色にもよります。白い水仙の花言葉は、神秘です。友梨奈さんにぴったりですね。おやすみなさい』

『おやすみなさい。ありがとう』
『そういえば、僕とフェイスブックの友人になったことを、美桜さんに話しましたか?』

『いいえ。話していません。なぜかしら?』

『いえ、別に理由はありません。職場で美桜さんが何も言って下さらないので。少し気になりました』

『秘密にしていようと思います』

『秘密に?どうして』

『高瀬さんと同じです。別に理由はありません。その方が、高瀬さんと親しくなれると思います』

『嬉しいなぁ。秘密かぁ。僕と親しくなりたいですか?僕は仲良くしたいですよ。何でも話してください。僕は人の話を聞くのが、とても好きです』

『ありがとうございます。申し上げにくいのですが、高瀬さんを、お名前でお呼びしてもよろしいでしょうか』

『名前で?それは光栄です。美桜さんは、男性たちの憧れの的ですからね。どうぞ新一とお呼びください』

『ありがとうございます。新一さん。おやすみなさい』

『おやすみなさい』
 
 高瀬はきっと、いたずらっぽい目をして、顎髭を触っている。高瀬も下らない男たちと変わらない。見た目ばかりを好きになる蛆虫だ。私は布団に潜り込みました。

「やっぱり。義兄さんは違う。私が本当に好きなのは、義兄さんだ。主任なんて、どうでもいい。欲求不満を満たしたいだけよ」

  私の意識は、すっかり姉になり変わっています。高瀬は姉を抱きたいでしょう。姉の長く柔らかい髪。丸く白い乳房。長い手足。くびれた腰とふくよかな尻。私は自分の身体を弄びました。姉になった身体を、高瀬が触る想像をしていました。高瀬は、いつになく興奮していて、いきなり私のスカートをめくり、下着を下げると、深く挿入してきました。

 身体に衝撃が走り、快感の波が襲ってきます。

「ああ。義兄さん。勝也。勝也」

 私は頭の中では、高瀬に抱かれていました。でも勝也の顔を思い出しました。何度もなんども勝也を呼び、喘ぎ声を出してしまったのです。

「義兄さんは、いつまで姉さんを想うのかしら?姉さんは突然死んでいなくなった。だから余計に、義兄さんの心に強く残った。私が消えていたらどうだったかしら?義兄さんは、悲しんでくれたかしら」
 
 次第に高瀬も、私が化けた姉を好きになってゆく。私を忘れていきます。

  姉が死んで、姉の存在は小さくなり、消えると思っていました。

  義兄さんも私も、姉さんが忘れられません。だんだん大きくなっていきます。膨れ上がってゆきます。

「美桜?美桜」

  姉の声が聞こえます。私は耳を塞ぎました。

「幻聴だわ。姉さんは、私のものになったのよ。私と一体化するの。私には、姉さんと同じ血が流れている。姉さんと同じ、赤い血が」

https://note.com/naomi504/n/n94ee527ecdc5









#創作大賞2023 #ミステリー小説部門

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