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day206 破壊がなければ、再生は始まりっこない。

昨日と今日、二度に渡り物損事故を目撃した。
昨日はショッピングモールの駐車場に、斜めに突っ込んだ車が輪止めを跨いでポールをひん曲げていた。
そして今日は、いつも行く岩手山神社での物損事故。手水舎で手を洗っていたら、後ろから聞き慣れない音。鳥居の側の柱が折れた模様だ。

今日は射手座の満月、不注意が増えるのも分からないでもない。

とはいえ、連続してこのような事故を目撃させられるのには何か意味でもあるのだろうか?

と、神社の参道の御神木に訊いてみたのだが、

『意味なんてないわ。人間はそうやってすぐに意味を付けたがるものね』と、軽く笑われた。

意味を付けたがる人間故に、この出来事の意味を自分なりに考察してみることにした。どうやらテーマは『破壊』だな、と。
しかも、壊そうと思って壊すのではなく、不意にやっちまう破壊。

そこになんの意図もないように思えても、実際のところは宇宙的な意図が存在している。すべては必然なのだから。

壊れてしまうのではなく、壊そうとするのでもなく、意図せず壊してしまうことがテーマ。壊れたら、それを直す必要性がある。
経年劣化したものを壊してしまったのなら、それは新しいものに刷新される。

同じようなものに置き換えられたとしても、それは明らかに『新しいもの』だ。
壊さなくても、ものはいずれ壊れていくわけだし、そうなるとまた、新しい何かに置き換えられていくことになる。

タロットカードの死神のカードが好きだ。
ライジング冥王星持ちの太陽蠍座生まれゆえに、命の繰り返しや死と再生、破壊は常にテーマとして持っている。
細胞だって毎日たくさんの数が死んで、たくさんの数が生まれているのだ。今日もどこかで誰かが命を落とし、また命を産み落としている。

わたしの中に、終わらせるものがあるのだろうか。意図せずにそれらを破壊してしまうのかもしれない。
でも確かに、意図して終わらせようとするときは何処かに『いい人でいたい』という忖度が入ってしまいがちだ。それなら不用意な破壊のほうが、いろいろとパンチ力がありそうな気がしている。

過去に人間関係でダメージが大きかったのも確かに、事故のように突然、苦言が矢のように降り注いだときだった。
あのときのような思いをするのは嫌だなぁと思っているが、何が起こってもわたしがわたしでいられるように、ただ祈るしかない。

壊れてしまえば、あとは再生のフェーズに切り換わる。壊れないように大事にすることも大切かもしれないけれど、ほんとうに大事なものなのかを今一度確認する必要がありそうだ。

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