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DJ WADAヒストリー 過渡期編①

さてさてさてさて、こんにちは。
今年も残り1ヶ月。
2019年がチラ見えする
時期になってきましたが
いかがお過ごしでしょうか?

本当はね、もっと早く更新したくて
先月半ば頃に1/3ほど
書いて(?)いたんですが
「明日もあるしネ〜」なんつって
ボヤボヤしてたら
急なお仕事の渦に飲み込まれて
途中で放置せざるをえなくなってしまい
そこからの、なんか気に入らなくての
全書き直し更新です。

もう、ちんたら書いてるからダメなんだよね。
隙を見つけたらサササっと書かなきゃね。
ただのメモのくせに何年かかってんだよ。
って感じで。

はい、サササっと書きます。

97年のPlastics Cityと
Tribal Americaからのリリース
そして1stアルバム「Co-Fu」の発表により、
あれよ、という間に
(とは言っても本人達からしたら
 色々あるんだろうけど。)
テクノアーティストとしての
ポジションを確立した
TANIさんとWADAのユニット“Co-Fusion”。

前回の記事では
海外での活動を中心に
当時の活躍ぶりをご紹介しましたが
国内でも言わずもがな。

前回の予告どおり、
私の拙い文章では
収拾がつかなくなりそうだし、
ご存知の方も多そうなんで
もう、詳しくは割愛しますが
(いつか気が向いたら番外編とかで
 書いてもいいかもね〜。
 って、約束はしませんが!
 ↑ハードルは下げとくタイプ。)
ディスコでの経験で培った彼らの実力と
たくさんの友人たちの支えに加えて
当時のテクノ・ブーム、
インディーズ・ブームの追い風も手伝い
国内でも音楽好きな若者を中心に
カルチャーに精通するような人たちの間では
知られた存在になりました。
彼らはメディアへの露出や
国内での大型フェスやイベントにも常連となり
今から考えれば、ちょっとした
お祭りのような時期を過ごします。

楽曲制作、REMIXワーク、
インタビュー等のメディア対応、
そしてイベントでのライブ出演…etc.
アルバム「Co-Fu」後に
発表した作品も順調で、
2001年には2枚目のアルバム
「Co-Fu2」を発表。
(もう詳しくはDiscog見てください。笑)

それに伴い、
Co-Fusionとしての活動だけでなく
各々のDJとしての活躍の場も増えていきます。
WADAは毎週土曜日の
『Maniac Love』“CYCLE”に
活動のベースを置きながら
その合間を縫って
その他の国内外イベントへの出演。

人生何度目かの黄金期を迎えたWADAは
この目まぐるしく変わった環境に
精神的にはどこか他人事のように感じながらも
物理的にはこの忙しないペースに合わせるべく
最初のうちは必死に頑張っていました。
しかし、もともとが
おっとりのんびり屋で神経質。
しかも、やや虚弱。
そんな彼がこの忙しい生活に
十分な耐性を持つはずもなく。

ディスコ時代の忙しさは
若さで知らぬ間に乗り切れたものの
「Co-Fu2」を発表した2001年には
彼はもう42歳。
気づけば40を超え、
無理の利く身体ではなくなり、
次第にその頑張りにも
限界の兆しが見え始めてきます。

年齢に加えて、
ディスコ時代から続く昼夜逆転の生活、
そして喫煙。
元々胃腸が弱くて食が細いくせに
身体を労わるには不十分な外食ばかりの日々。
ディスコ時代に個人的にお店から出された
禁酒令のおかげで
酒量こそ減ってはいたものの
この不健康極まりない生活に
いつも貧血気味で顔色が悪く、
WADAのこの頃の体型は
最低で170cm43kgの超ガッリガリ。
海外ツアーの間にクラブで
プッシャーと間違われたこともあったそうな。
(そんだけ見た目もヤバかった)

そして、デフォルトになった
この体調不良に加え、
彼のとある性質も精神衛生に
悪影響をもたらします。

それは、
同じことを続けるのが苦手
ということ。

ん?40年もDJやってるのに?
とお思いかと思いますが、
そうなんです、
意外と苦手なんです。あの人(笑)

テクノに限らず
基本的に音楽全般が好きで
いつも様々な音楽に触れていられる
DJという職業は
望まずして始めた仕事ながら
まさに天職。

DJという職業自体には
何も疑問は感じていませんでした。
問題は、“様々な音楽”という部分。

彼のDJを聴くと
感じられるかもしれませんが
与えられた時間内だけでも
彩豊かに次々とイメージの変わるプレイにも
その性質は良く現れているかと思います。
長年彼のプレイを聴いてくれている人は
その時期ごとに微妙に変化する
彼のプレイからも
それを感じるかもしれません。
もっと言えば、
EQ捌きの落ち着きのなさなんかも
その類いかも(笑)

“Co-FusionのDJ WADA”として、
“Maniac CYCLEのDJ WADA”として約5年、
いつの間にか定着し、
求められるパブリックなイメージ。
選曲のカラーも必然的に
そのパブリックなイメージから
出ない範囲になっていきます。
そして、人気者ゆえに、多くの人が
そのパブリックな“DJ WADA”を求め、
それを軸に様々な仕事が展開し、
彼の中では“DJ WADA”が
一人歩きを始めたかのような感覚に
なっていきました。

そんな中で、
2001年「Co-Fu2」発表の後ごろから
彼の中でパブリックな“DJ WADA”と
自分が新たに求めるものとのズレを
微かに感じ始めます。

人間、経験を積めば
学習による悟りや
新たな発見もあったり
時代の流れや状況も変化したりで
それに応じて思考も変化するのは当たり前。
彼にも約5年間走り続ける中で
何かしらの学びや発見などの
変化があったのでしょう。

なんてキレイに言ってみてるけど
結局のところ乱暴に言えば、
「飽きた」んじゃね?
とも言われるかもしれませんが
そう単純なものでもなくて、
パブリックな“DJ WADA”としての音楽も
“Co-Fusion”としての活動も
やっている時はそれはそれで楽しい。
お客さんが反応してくれることは嬉しい。
一人歩きしているようだとはいえ、
それも自分、
そういう感覚はあったと言います。

しかし、その一方で、
彼の新たな表現を求め、
そこからまたさらに
現状を進化させたいという願望は
日を追うごとに
ムクムクと存在感を強めていきます。

その頃の様子としてわかりやすいのは
当時、J-WAVEのFREEFORMという番組で
やっていたDJ MIX。
『Maniac Love』“CYCLE”などの
(当時の)普段のイベントで聴く
“DJ WADA”のプレイと全く違った
実験的で多彩な選曲のMIXになっていました。
(少し後にテクニークで販売していたMIXも
 そんな感じだったな。)

こうして、少しずつ、
現状と並行しながら自分の新しい表現を
実験的に発表する場を
探り始めたWADAですが、
新しいものがすんなり
全部に上手く馴染むのは
なかなか簡単にはいかない話。
特に現状が上手くいっている最中に
求められるものと違うものを出せば
周囲から厳しい意見が出るのも
自然なことでしょう。
その新しいものが
時代の潮流にあっていて、
周囲の期待に応えられるという
保証もありません。

多分、こういう葛藤は
多くのアーティストに
共通することかと思います。
メジャーで活躍してる人なんか特に。
そのアーティストの持つ
パブリックなイメージによって
生計を立てている人も、
夢や希望を持つ人も
たくさんいるのだから。
その中で博打を打つことは
かなりの勇気を要するでしょう。

まぁ。そこのバランスを
上手く取れるかどうか、
綺麗なグラデーションを描いて
進化させられるかどうかも
その人の才能や手腕なのかもしれませんが
残念ながら、どっちかというと
WADAはそんな器用な才能を持つタイプの
アーティストではなかったようで。。。

というわけで、WADAも
そういう葛藤パターンにもれなく陥り、
その、微妙なズレの中で踠きながらも
忙しいスケジュールをこなしていきます。

そして、2002年3月、
この精神面の不安が
じわじわと彼を蝕んできた
体調面の不安を後押ししたのか
何がトリガーとなったのか、
彼の身体はとうとう限界を迎えます。

ということで、続きます。
次は来年ですかねー。
あまりにも早すぎるし
かすか〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜な、
ほんと何ngかもわかんないくらいな
“年内にあともう1本くらい、
いけるかもしれない”
という期待もないわけではないので
「良いお年を!」というのは避けますが
どうか楽しい平成最後の12月を
お過ごしください!

そうそう、12/1(Galaxy)と
12/8(R-Lounge)に
DJセットですが、またTANIさんと一緒に
Co-Fusionでやります。
今回の記事のしんどい展開の時であれだけど、
12/1は『Maniac Love』と
銘打つイベントなので
記事と時期的にリンクするので
公式アカウントがシェアしていた動画を
貼らせていただきますね。
(YouTubeに飛びます)

ご覧になっていただけると当時を知らない方も
なんとなく雰囲気がわかるかも。

あと、12/9はKO UMEHARA君とのユニット
「Contatto」でまたCo-Fusionとは
違ったWADAを!

と、告知はしません!といつかの更新で
言ったにもかかわらず
怒涛の告知で終わりますが(笑)

ま、諸行無常、
人間も変わって当たり前ということで!

あ、ちなみに
今はもう、WADAに
今回の記事のような葛藤は
多分ありません。多分、ね。(笑)


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