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"南野陽子さんとカンボジア"から考える国際協力と人生論 前編-24時間TVとアナザースカイ

・はじめに


※カンボジア現地の情報についてはあくまでも個人の範囲内で調査した結果です。もしも間違っている点があればご指摘ください。
※映像に比べたら伝わりにくい部分はあると思いますが、ご了承ください。

2013 1/18。日本とカンボジアが外交関係を樹立して70周年を迎えたのに合わせて、女優・南野陽子さんがカンボジア大使に任命されました。
TV番組で2回訪問されたことがあることと、それにちなんでカンボジアについて想いをつづった楽曲「明日への虹」を制作されたことがきっかけです。
「何故、南野陽子さんがカンボジア大使に!?」「以前カンボジアに行ったことがあるって、具体的にどんなことしてたの!?」と疑問に持たれる方もいらっしゃると想像します。

今回は第1弾として、南野陽子さんがカンボジアにTV番組のリポートで訪問され、カンボジアとの交流を持たれるきっかけとなった、”1989年の24時間テレビ”と”2013年のアナザースカイ”について、掘り下げ比較しながら取り上げていきます。
おそらく、世間一般にも”24時間テレビ”・”アナザースカイ”での放送回の内容についてはほとんど知れ渡っていなく、覚えている視聴者も限られてしまうでは?と想像します。この記事が「知る」「見つめなおす」きっかけになれば嬉しいです。
また、南野陽子さん(以下、ナンノさん)がカンボジア訪問時に色々なことと真剣に向き合い、本当にカンボジアのことを想ってらっしゃることが少しでも分かって頂ければ幸いです。
更には「南野陽子さんについてはあまり知らないけど、カンボジアやボランティア・国際貢献に興味がある」なんていう方にも興味を持って頂けたらこれほど嬉しいことはありません。

・1989年 24時間テレビ


ナンノさんが初めてカンボジアに訪問されたのは1989年3月、24時間テレビの取材でした。8/26の24時間テレビ本放送内で「子どもたちに病院を! 南野陽子 カンボジア日記」という1時間程のドキュメンタリーとして詳細に取り上げられました。

司会、徳光さんによる「24時間テレビの特派員として南野さんはカンボジアに赴きました。南野陽子さんと一緒にカンボジアを見ていきましょう」という進行で番組がスタート。
(ナンノさんご自身からは、ボランティアに対し興味を抱いており、アイバンクに登録されていることが語られます。)

ポチェントン国際空港(現:プノンペン国際空港)から、カンボジアへと足を踏み入れられた
ナンノさん。


タイを経由し、日本からカンボジアには1日半かかったとの事。2023年現在も、日本からプノンペンまでの直行便はない模様。

カンボジアの首都・プノンぺノンの大通りや、オールセ市場の様子が映像で紹介されます。

「”貧しい”、”戦争の影響が残っている”というイメージを持っていたが、自転車が行き交わっており、すごく活気にあふれていた。飢えで困っていたと思っていたのは大きな間違いだった。」とナンノさん。
市場の大通りを歩くナンノさん。

カンボジアに降り立った時の印象に関して、スタジオで「いい旅であった・実際に行ってみないとわからない。想像とは違って活気に溢れていた。緑も多く、人も笑って一生懸命過ごしているけど、色々問題もある」と振り返ったナンノさん。
しかし、同じプノンペン市内に悪夢は取り残されていました。
まず、クメール・ルージュの遺構を訪ねられたナンノさんと取材班。収容され拷問されるにあたり撮影された人々の顔写真や、棚に整然と並べられ展示される骸骨等、内部の模様が映し出されます。
「思い出したくない、しかし忘れてはいけない歴史がありました」とナレーション。
※番組内で場所までは公開されていませんでしたが、トゥールスレン歴史博物館と思います。

次に、番組内ではカンボジアの歴史について触れられます。
・ベトナム戦争後もカンボジアでは内戦が続いたうえ、ポルポト政権下、クメール・ルージュの独裁政治により、自動車・印刷機など一切の文明が破壊された上に、人々は強制的な移動や虐殺を強いられたこと。
・お坊さん、教師、医者等の知識人が虐殺の対象となったということ。
・ヘン・サムリン政権が政権を握るころには街中が廃墟と化していた。現在の情勢は他の国の援助なしでは立ち直れない状況となっており、日本との外交関係はなく、民間援助を進めていくしかない 
ことがリアルな映像とともに解説されます。

※以下、クメールルージュについて解説されたネット記事

https://history-go.com/archives/16666/2

その後は、カンボジアが未来に向けて変わりつつある、ということについて取り上げられます。

最初は訪ねたのが、プノンペン市内から50分ほど車で離れたkandal Stueng州(カンダル州/カンダール・ストゥン)にある、バグゥーン小学校。

バグゥーン小学校。89年当時は快適とは言えなさそうな学び舎だった。
到着後、花束を受け取り、合掌し挨拶するナンノさん。カンボジアでは挨拶の際に合掌をすることは風習となっているが、合ただ単に手と手を合わせているのではなく、相手によって手を合わせる高さも異なるという。

小学校の模様が映し出されると共に、通訳を通じて、実際の小学校の先生から小学校の現状が語られます。
・教科書の絶対数が足りなく、先生一人分の教科書しかない(その中からやさしい問題を選んで授業で取り上げている)こと。
・生徒80人に対し先生一人しかいない。先生や校舎が足りないため、授業は午前/午後の二部制となっていること。
が説明されました。ナンノさんは空いている後部席に座りましたが、「邪魔するみたいで嫌だった。よそ者が来ることでみんな、緊張して見ちゃうのではないか。真剣なまなざしでたくさん先生に質問等をしていた」と振り返られています。また、映像中の学校の模様からは、電気もなく!?、子供たちは石板をノート代わりに用いているという、日本の学校と比べ恵まれているとは言い難い学習環境であることが伝わってきます。

授業後、校庭へと出て子供たちとの交流は続きます。
カメラの前に群がってくる子供達に対し、「そうだよねー。カメラの方が珍しいもんね」とナンノさん。

日本の位置とカンボジアの距離を地球儀でそれぞれ差し、日本とカンボジアの距離の近さを伝えていたナンノさん。

「宿題とかやってる めんどくさくない?」「家帰ったらなにしてる?」というナンノさんからの質問に対し、「やってる。牛の面倒を見たりとお家のお手伝いもしてる」と答えた子供達。
その後、子供に「小さいころ何して遊んでたの」「いつも何食べてるの?」と質問され、ナンノさんは「なわとび・鬼ごっこして遊んでた」「お米が好きだからご飯ばっかり」と回答されていました。

小学校を立ち去るナンノさん。この後、子供たちは車を懸命に追いかけ続け、
ナンノさんも手を振り見送り続けた。

次に、24時間テレビではカンボジアに教科書の印刷工場を設立し、技術者を派遣していることが語られます。
フル稼働で教科書を印刷し続けているものの、小学校から大学まで、4年から5年に1回しか教科書が受け渡らないのが当時の現実だったようです。

小学校を訪ねたことに対し、スタジオで「勉強したいって子に対し教科書がない。凄い好奇心・勉強熱心。真剣なまなざしでたくさん先生に質問等をしていた。暑い中でもみんな一生懸命勉強してるから、冷房設備等があればもっとすごいのではないか」と振り返ったナンノさん。

その次に取り上げられたのは、プノンぺノンにあったカンボジアで唯一の小児科病院。

カンボジアで唯一の小児科病院(現:国立小児病院)。
ここには、病に苦しむ人達であふれていた。

通訳を通じて、医師からどのような患者が多いかの実態が語られると共に、
病院内のリアルな映像が映されます。
感染症による下痢・呼吸機系の障害を抱えた子供、何を飲ませれば良いのかのか分からないことによって正しい栄養を与えられずに痩せ細った子供、病室のベットの数が足りなく、廊下で待つ以外にない親たち…

次に映されたのは重症者患者の病棟。
意識がなく、医者に呼吸器を用い呼吸を援助してもらっている瀕死の赤ちゃんと、駆けつけ、悲しみ泣く母親の姿が映像に映し出されます。

一人の赤ちゃんの死の間際がありのままに映され、番組内で取り上げられる…あまりにも複雑かつ強烈です。

瀕死の赤ちゃんを目の前にし、ナンノさんも涙ぐんで見ておられ、病院を出た後も泣き崩れてしゃがみこんでしまいます。

真実を映し、伝えるメディアも必要であり、社会的意義も大きいかもしれませんが、人道的には複雑さを感じます。

瀕死の赤ちゃんを病院で目の前にしたことに対し、「誰でもその場にいたら動揺してしまうとは思うけど、カメラに映すことで何人もの部外者が来ることになり、お母さんも嫌だろうし、カメラの光などを射当てることで子供の寿命もより縮んでしまうと思った。」と振り返ったナンノさん。

徳光さんより、日本には薬を飲めば治るが、お医者さん・充分な情報伝達がされていなく、戦争の影響もあり十分な教育を受け入れられていないことが解説され、”与える福祉”だけではなく”育てる福祉”が必要であることが語られます。

次に訪ねられたのは、プノンペン市内にある第一孤児院。

1歳から20歳まで300人達の孤児たちが共同生活を行なっていたそうです。
ポルポト軍により親を殺されたりはぐれた子供の数は(89年当時の本放送曰く)30万人、カンボジアの人口の20人に一人に及んでいたといいます。

食事をし、交流するナンノさん。

日本語を覚え、「きれい!…あなた」とナンノさんに語りかかる少女、ナンノさんにカーラーを巻いた少女….

ナレーション「日本から突然訪れてきた22歳の女の子をみんな、あたたかく迎えてくれました。カタコトの日本語で「綺麗ですね」と微笑みかけてくれました。その一言で 胸につかえていた何かがとれたような気がしました。カンボジアを訪れた中でいったい自分に何ができるのか、最後まで自問自答の繰り返しであったが、でもこの時初めて、ありのままの自分でできることは何かわかったような気がしました。」

孤児院の中で、地面に腰掛け自身の歌「涙はどこへ行ったの」を用い、歌と日本語を子供たちに教えるナンノさん。映像から、日本と比べ設備・インフラが充実していたわけではなく、電気もない!?自然の環境の中とも推察されます。また、カーラーを巻かれた、化粧っ気のないすっぴんの素顔で子供たちと交流されており、アイドル「南野陽子」としてではなく、「等身大の一人の若い日本人女性」としてひたむき・自分らしくありのままに交流されている点がより感動を誘います。
テープを流し、振付とともにサビ部分を子供たちと合唱するナンノさん。

♪あの頃の 涙はどこへ行ったの ねぇ 愛しあう二人の頬にこぼれた涙はどこへいったのもう目隠しを外して 愛よはやく ここまで来て

夜空に響く「涙はどこへ行ったの」

とてもあたたかい光景でした。

(見ていると、”涙”という日本語の奥深さに関しても考えさせられるような気がします)

次に、街中で腰掛けながら、カンボジア訪問ついて一人振り返られるナンノさんの映像へと移ります。

すっぴんに近い素顔で語っておられ、飾らずありのままのお気持ちを述べられている感じが伝わった。


(以下、ほぼ原文ママ)

「カンボジア、見てびっくりしちゃった、っていうのが最初の感想なんですけれども…まず飛行場について降りて、街の中を車で走ってなんかすごいなーって、人とかすごく活気にあふれてて。私が思ってたのと全然違うなって。
確かにこの国は日本と比べたら貧しいかもしれないけれど、今の日本よりすごい勢いで成長しているっていうか。20年もの間ごちゃごちゃ色んなことに巻き込まれて、どん底まで落とされたけれども、そこを10年間でここまで一気に持ち上げたって、すごいなって思ってのね。(中略)10年前なんて、私は何になりたいとか考えてなくて、ぼーっと楽しく過ごしてた時で、恥ずかしいなーじゃないけど。だって教室入ってびっくりしたもん。こそこそ隣の子と話したりとかしてないで先生の言うこと一生懸命聞いてね、一生懸命答えてたりとかね。日本なんて今は何でもあるじゃん。ある程度どんなことに対しても満足してて、後なんかすることないかな~ってなって、”同じことするんだったらいいことしよう、それならボランティア”とか、なんか思いがち。それはなんか違うんじゃないかなーと。
本当にこの国は凄いんだよ頑張ってて。自分たちで何とかしようっていう、すごい活気があるの。
でも貧しすぎるから、どっから手付けたらいいのかわからない状態なんだよね。勉強に必要なモノとかテーマとかある程度は与えてあげないと、そこから考えてることはできないから、そういうのは(援助)してあげないと。こうやってみんなに本当の状態を見て何かを感じてもらって。 
病院でね、あと何時間後に死んじゃうかもしれない赤ちゃんと会ったんだけれども、目の前にしたら誰でも動揺すると思うのね。私は何にもしてあげられないの。見てるしかなくて、病気がなくなればいいなとか、お医者さんがいればいいなとか、お母さんがしっかりしてばいいなとか、そういうことは私一人ではどうすることもできないけど…みんなで真剣に考えたら何とかできると思うし

本当にありのままのお気持ちを述べられていることが伝わります。
”すっぴんの素顔”で語られている点が、アイドル「南野陽子」としてではなく、「等身大の一人の若い日本人女性」として語られている点で、より説得力が増されていると思います。

エンドロールとなり、徳光さんの「カンボジアに対して受け止めたものは?」という問いに対し、「毎日いろいろ考えることが多くて…イメージが違って混乱してしまったんですよ。私じゃなく他の人が来れば、もっと違うことで役に立ったかもしれないと思うと、来なければよかったかもと迷ったり、物資をあげるための代表としてきたというのは違うんじゃないか、同情や気休めでいいことをしに来たのではないんじゃないか」とナンノさん。
しかし後日、ボランティアを20年間続けられている女性と出会って、”なんでボランティアをしてるんですか”と質問したら”自己満足ですと返されそうですが、次のようにアドバイス頂いたことで、意義を見出されたそうです。
見返りを求めてどうするんですか? それで人の命が助かったり、誰かが喜んだりすれば嬉しいでしょう。同情だけでは救えないけど、それが始まりなんじゃないかな」

「”volunteer”は英語で自発的という意味、いい単語だと思いますね」と徳光さん。

「もっと勉強すべきだったんじゃないか? こんな私でもできるんじゃないか? 必要にしてくれるんじゃないか?と悩んだけど、誰かを待っている人が向こうにはたくさんいるし、今度行ったらもっとカンボジアの人々とわかり合うために私も踊り練習しようとか、言葉覚えようとか衛生的なことについてについて学ぼうとか、私も頑張んなきゃって感じなんですけどね」と最後に述べられたナンノさん。

最後に、エンドロールで字幕で流れたナンノさんからのコメントになります。

「この国の人々のパワーに驚き、感動した。
そして、一生懸命頑張って生きようとする姿勢を教えられた。
こんな私からでも何かを得ようとしている。
うかうかしていられない。もっと頑張ってこたえたい
-カンボジア また訪れたい国 南野陽子」

・2013 1/11放送 日本テレビアナザースカイ


次に、2013 1/11放送された日本テレビ系列「アナザースカイ」について取り上げていきます。
89年の24時間テレビから約23年後、ナンノさんはカンボジアを再訪されます。
23年の月日が経過し、カンボジアはどう変わったのでしょうか? 何が変わらずに残っているのでしょうか? ”人”はどうなのか、どうしているのでしょうか? 
そしてカンボジアでは感動の再会も実現します。

まず、「カンボジアのテレビ局でアナザースカイが取材に来たと報道された。」という映像から始まります。
※番組開始冒頭、MC今田さんがナンノさんに対し美容の秘訣を聴くと、ナンノさんより、「アイドルは大衆であれ。腹筋を1日2回など、皆ができるようなことしかしない」という持論が語られました)
アイドル時代一世を風靡されたことが語られる一方で、”ナマイキ説”が出ていたりテレビに出してもらえない時期があったことも語られ、カンボジアでの出来事や想いと合わせつつ、「芸能活動での苦悩・葛藤をどう超えたか」が番組を通じて語られます。

ここでOP。まずはアンコールワットを訪ねられるナンノさん。

「南野陽子のアナザースカイ、カンボジアです! 来ちゃった。うふふっ(笑)」

アンコール・ワットは森の木々に覆い尽くされていた神秘なる寺院であり、日本人旅行者が行って良かった観光スポット(調査の結果、番組放送当時2013年の前年、2012年時点)NO1にも選定されています。
・第一回廊は、古代インドの叙事詩「マハーバーラタ」王族同士の戦いの物語などが書かれている
・最も高い中央塔は、「神の住む場所」と言われている
ことが解説されます。

スタジオで、ナンノさんは24時間テレビのパーソナリティーをした時にカンボジアに行く機会があったことから、カンボジアを第二の故郷だと思ってらっしゃることについて語られました。
しかし、気持ち的な距離もあり、23年間の間再訪することが叶わなかったそうです。

この後、23年の間でのカンボジアの変化の模様が、89年の24時間TVの映像や写真も取り上げられつつ比較されていきます。

まず最初に、かつてたくさんの自転車が往来していたプノンぺノン市街地は…
”移動の足”はバイク・自動車へと変わり、高い建物もたち、経済発展を遂げていました。

1989年
2013年

そして、23年ぶりにバグーン小学校を訪れられます。23年前、子供達は勉強ができることにとても喜びを感じていた雰囲気があり、それが今どうなっているのかを知りたかったそうです。

89年当時のカンボジアの印象について、
・大虐殺で知識のある大人たちが殺されてしまったので、おばあちゃんと子どもだけになってしまったこと。
・何の知識もなく、歯ブラシで髪の毛を整えてたりと、「道具はあるんだけどわからない」という状況だった。
・子供たちの「勉強させてもらえることに喜びを感じる」「勉強が大好きで嬉しい」(恵まれた環境にあるが故に、日本人として生きていると、なかなかそういった姿勢を持つことは難しいですよね💦私もそうです)
ことがナンノさんより語られます。

いざ、バグーン小学校へ到着。
お世辞にも快適とは言えなかった学び舎は…校舎も改修され、すっかり生まれ変わっていました。

2013年、23年ぶりにバグーン小学校を訪ねられたナンノさん。

子供たちは校舎でどのように過ごしているのでしょうか!?
ナンノさんは外から学校の様子を覗きますが…校舎は変わっても、子供達の前のめりになって授業に励む姿・ひたむきな学習意欲はあのまま。少しでも多くのことを知りたい、吸収したい、そんな想いが伝わってきたそうです。
そんな子供たちの姿を見て、ナンノさんは、校舎の中には入らず外から見守り続けます。

ナンノさん「これは入ってはいけないですね…」ナンノさんの瞳からは「優しさ」「あたたかさ」「本当に子供たちのことを心から思う"愛"」を感じます。

また、89年当時、後ろの席に座らせてもらった際、思わず「図々しくてごめんなさい」という”アイドルとしてはタブー"の言葉が出てしまったことについて回想されます。

89年当時、アイドルは”愛想を振ればいい”、”笑顔だけの役割”と言われていたものの、ナンノさんは本心では「自分の言葉で伝えないと意味がない、一個一個つっぱらないと自分じゃない」と思われており、アイドルに求められていることと自分らしさとのギャップ・偶像と実像とのギャップに悩まれていたようです。
「自分の言葉で伝えるということは、レポートするときには必要なことであるものの、23年前はまだ出来なかった」
「あっという間にトップアイドルへ仲間入りを果たせたものの、TVに出られる回数等が減っていたときはすごいしんどかった。芸能会の波に流されちゃいけないと必死だった」
とも振り返られました。
ナンノさんの「"アイドル"としてのプロ意識」が本物であったことが伺えます。

そんな89年当時、カンボジアでは心癒される出会いがありました。
カンボジア現地の第一孤児院で出会い、3日間共に過ごした子供達です。
当時は友達・妹たちのような感覚で会話していた。
「20数年経っても、写真を頻繁に見返している。皆どうしてるのかなあ。今は立派になったのかなあと気になっている」とナンノさん。
”カンボジアの妹”たちに会いたい…

第一孤児院のあった地は…
取り壊され(89年訪問時から5年後=93~4年頃?だったそう)「女性省」へと生まれ変わっていました。

孤児院だった建物は取り壊され、「女性省」へと生まれ変わった。
「女性省」は、女性が差別されることなく社会に参画できるよう、女性の地位向上やジェンダ ー平等促進に取り組んでいる機関だという。

ナレーション「己を見失うまいと必死だったからこそ、少女たちの裏表のない優しさ、暖かさに救われた」

施設は跡形もなく無くなってしまったものの、現地スタッフが”カンボジアの妹たち”を見つけてこの日集まり、再会が実現することに!

最初に、当時、皆のリーダーだったTさん(番組内では実名が述べられますが、この場では控えさせて頂きます)と再会。
Tさんに案内され、ナンノさんはついていくと…そこでは”カンボジアの妹たち”が待っていました。
互いに再会を喜び合い、それぞれ、思い出と現在について語り合います。
・Tさんこそ、日本語を覚え「きれい!…あなた」とナンノさんに語りかけた少女当人。38歳(13年当時)となった現在でもまとめ役。
・ナンノさんにカーラーを巻いたNさんは 国連の仕事についていた。
ことが語られます。
そして”カンボジアの妹たち”は全員共通して、ナンノさんに対し次のように話したそうです。

私たちはヨウコから幸運をもらえたの

ナレーション「思い悩んでいた時期だからこそ、カンボジアにいた人々の優しい温かさに救われた」

23年の時を経て再訪されたカンボジアのイメージに対し、ナンノさんは次のように語られてます。
街は変わったが、人が変わってない。皆優しい
温かく 優しい 心は変わらないまま」とナレーション。

そして、カンボジアの人々と出会ったことで分かったことがあるといいます。
「大した努力をしていなくても注目されたことがあった一方で、努力すればつかめることでもないと分かった。何を一番に持ってきたら素敵な人生となるのかと考えた時に、”感動”という言葉にあるように、自分らしく、感じたままに動けばいいんじゃないかなと思う。」

ナレーション「自分らしく少女たちと向かい合いたい。だからあの時は、ただただ一緒に歌い続けた」に続き、”カンボジアの妹たち”と「涙はどこへいったの」を合唱していたことが回想されます。

それから23年後…
89年当時とは逆に、"カンボジアの妹たち"からナンノさんの前で「涙はどこへいったの」を歌い出し、改めて全員で合唱します。
"カンボジアの妹たち"とハグしあう映像に合わせて、以下のナレーション。「感じて、動けば 胸いっぱいの感動をもらえる カンボジアにまた一つ教わった」

日本語の歌を歌えるだけでも凄いにもかかわらず、89年当時とは逆に"カンボジアの妹たち"からナンノさんに向け歌い出されるのが、感動を一層引き立てます。私も視聴したことで、月日や国境を超えて互いを結びつける音楽の偉大さ・秘められた力を再認識しました。

ナンノさんは「これからもずっと彼女たちと繋がらなければいけない」と思われたそうです。

最後に後日談旅行記として、ナンノさんはカンボジアの水上生活者の様子に興味をお持ちであったことから、トンレサップ湖のアンコール遺跡群・シェムリアップへ赴き、シャムワニとの力比べを行なった映像が少し紹介されました。

最後に、「カンボジアとは!?」という問いに対し、
「キッカケの場所」と回答されたナンノさん。

ボランティアに対して興味も抱いていたが、色々大変な人がいる中で何に向ければよいのか決めきれずに来たけど、子供もいないことから、両親を持てない子供たち/子供を持つことができない大人たちを一緒にして何かできればいいな。今回、そんなことを考えなおす”キッカケ”にもなった。
「キッカケの場所」、カンボジア。

最後に、「思ったら(ボランティアを)やらなくちゃ、頑張る」とナンノさん。

そちらに対しても、2023年現在の南野陽子さんの直近の活動を見ても
・コンサートにシングルマザーの会の方を招き入れる
・障がいを持った団員で構成されている劇団とコラボレーションした演劇公演「なくなるカタチとなくならないキモチ」の上演
・京都府舞鶴市の方々との地域交流を深め実際にお米づくり体験をされており(楽曲制作も検討中のこと)
等、方向性は少し変わったかもしれませんが、精力的に活動されているように思います。

・おわりに

※私は直接国際貢献やボランティアに深く携わったことはないので、説得力に欠けるかもしれませんがご容赦ください。

エッセイ「月夜のくしゃみ」の中に記されていた、ナンノさんが24時間テレビの取材中に出会ったという、約20年間ボランティアを続けていたという女性・Kさんの言葉が深く印象に残ったので、共有いたします。

「ボランティアは自己満足だと思います。でも何に期待するのですか?見返りを求めてどうするんですか? それで人の命が助かったり、誰かが喜んだりすれば嬉しいでしょう。あなたのようなタレントさんが他の国を訪れて、日本人にピーアールすることも必要なんですよ。番組を見た人は興味を持つでしょう。だけど、それだけではだめ。物資の援助だけではなくてもっと精神的な面、つまり本当に相手の国の人たちの気持ちに立って自立をうながすような協力をしなければ…いろんな面からバックアップすることが大切です。」
ボランティアにおいて、本当に必要な支援は何か、ということは度々議論になるそうですが、Kさんの発言は正当と思います。

これを受けて、私たちが国際貢献していくためには「一人一人が本当に相手の立場に立って、自分事として物事を考え捉え、学びの姿勢をもって、日々行動する姿勢に移すことが大切。」と考えます。

現に、私も24時間TVについては当時本放送を見ていたわけではありませんが、放送から何十年もの時を経て視聴することが叶い大きく感銘を受け、カンボジアや国際貢献に対して少なくとも”0から1”くらいは興味を抱く「きっかけ」になりました。ナンノさん自身にとっても番組でカンボジアを訪ねたことが、いろいろなことに対する「きっかけ」になったのですから、色々な人に対して大きな意味があったと思います。
また、私がこの記事を書いていること自体も、自己満足といわれてしまえばそれまでだと思います。
しかし、「南野陽子さんとカンボジアの関わりを、一人でも多くの方に知って頂けたら嬉しい」「同じように、記事を通じて知って興味を抱いて頂くきっかけを提供することに貢献したい」という思いに至ったことから、「記事として文字に起こしてまとめてみて、公開してみる」行動へと移してみました次第です。

オークン、ありがとうございました!


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