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【蘭学事始】

シーボルト(1796〜1866)が長崎郊外に作った「鳴滝塾」のことを考えています。
シーボルトは神聖ローマ帝国の司教領ヴュルツブルクに生まれました。ヴュルツブルクは現在のドイツのバイエルン州にある町です。シーボルト家は祖父も父もヴュルツブルク大学の医師であり、医学界の名門家系でした。ヴュルツブルク大学に通う中で、シーボルトは植物学に強い関心を持つようになりました。そして、東洋学研究を志すようになると、1822年7月にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となりバタヴィア(現在のインドネシアのジャカルタ)に赴任します。オランダ東インド会社は1602年3月20日に設立され、世界初の株式会社と言われています。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権などの特権が与えられていました。帝国主義の先駆けとも言われる巨大な組織でした。

オランダ領東インド総督に日本研究の希望を出して認められたシーボルトは、1823年8月に来日。鎖国時代の日本の対外貿易窓口であった長崎の出島のオランダ商館医となります。1824年に長崎の出島郊外に鳴滝塾を開設し、西洋医学(蘭学)教育を行いました。また、日本の文化を探索・研究し、1825年に出島に植物園を作りました。日本を退去するまでの期間に栽培した植物は1,400種以上と言われています。鳴滝塾には日本各地から多くの医者や学者が集まり、彼の講義を受けました。著名な人物に高野長英、伊藤玄朴らがいます。
鳴滝塾で学んだ伊藤玄朴と高野長英、高野長英に学んだ佐藤泰然について説明します。
伊藤玄朴(1801〜1871)は、後に江戸幕府の奥医師となり近代医学の祖と呼ばれました。官医界における蘭方の地位を確立した人物です。
高野長英(1804〜1850)は、現在の順天堂大学の基礎を作った人物として知られる佐藤泰然を指導することとなります。
佐藤泰然(1804〜1872)は、蘭方医を目指して高野長英に学んだ後に長崎に留学しました。留学を終えた後、江戸に戻って「和田塾」を開設します。彼は、藩主堀田正睦の招きで1843年に現在の千葉県にある佐倉に移住。病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」を開設しました。彼の息子が有名な松本良順です。
松本良順(1832〜1907)は佐藤泰然が開設した「佐倉順天堂」で助手を務め、1849年に江戸幕府の奥医師であった松本良甫(1806〜1877)の養子となります。後に長崎海軍伝習所に赴き、オランダ軍軍医のポンペ(1829〜1908)から医学などの蘭学を学びました。江戸幕府の奥医師となり、同時に西洋医学所(東京大学医学部の前身)の頭取となりました。そして、医学所をポンペ式の授業に改めました。彼は幕末に活躍した新選組の局長である近藤勇とも親交があり、1868年の戊辰戦争では幕府陸軍の軍医となりました。敗走する新選組の副長土方歳三らと従軍し、隊士らの治療にあたりました。明治維新後の1873年には、大日本帝国陸軍初代軍医総監に就任しました。

緒方洪庵(1810〜1863)は、1838年に大阪船場に蘭学の私塾である適塾(大阪大学医学部の前身)を開き多くの人材を育てました。適塾で学んだ著名な人物は下記の通りです。
①福沢諭吉 (1835〜1901)
②橋本左内 (1834〜1859)
③大村益次郎(1824〜1869)

シーボルトが開いた鳴滝塾について考えることは、江戸時代の鎖国下の中で発展していった「蘭学」の流れを理解するために重要です。そして、現在の日本にある大学の中で、江戸期の「蘭学」の流れを汲んでいるのは大阪大学医学部と順天堂大学医学部です。

江戸幕府はキリスト教思想の流入を極度に恐れた政権でした。安土桃山時代と呼ばれる時代の織田信長、豊臣秀吉は南蛮貿易から得られる利益に注目して絢爛豪華な文化を築きました。南蛮貿易の担い手は、カトリック国のスペイン人とポルトガル人でした。大航海時代のヨーロッパではルターによる宗教改革が始まったばかりの時代でした。スペインとポルトガルな反宗教改革として世界各地にカトリック教徒を増やそうと布教活動を行いました。
豊臣秀吉は、当初キリスト教の受け入れに寛容でした。しかし、宣教師による信仰の強制や日本人を奴隷商品として国外へ売却する事例を知り、態度を硬化させ1587年にバテレン追放令を出しました。そして、その後の日本が鎖国に至る決定的な事件が1596年のサン=フェリペ号事件です。豊臣秀吉は、スペインやポルトガルのイエズス会宣教師たちの間に日本征服計画があるのを知り、その後徹底的にキリスト教徒を弾圧するようになりました。

鎖国とは江戸幕府が行った貿易を管理・統制・制限した対外政策です。1639 年の南蛮船入港禁止から1854年の日米和親条約締結までのおよそ215年の期間を指して言います。鎖国の主な内容は下記の通りです。
①キリスト教国(スペインとポルトガル)の人の来航の禁止
②日本人の東南アジア方面への出入国の禁止

鎖国下の日本で通商関係を許されていたのは、下記の4ヶ国のみです。
①朝鮮王朝
②琉球王国
③中国(明朝と清朝)
④オランダ

徳川幕府が鎖国に踏み切ったきっかけは1637年に起きた「島原の乱」でした。スペイン、ポルトガルのカトリック勢力は締め出され、新教であるプロテスタントを信仰するオランダは布教活動をしないことを条件にして貿易を許されました。貿易の場所は長崎の出島に限定されました。出島は、1634年に江戸幕府の対外政策の一環として長崎に作られました。面積は3,969坪の日本初の人工島です。ここにオランダ商館が置かれ、シーボルトは1823年にこの商館に赴任してきたのです。当時、西洋のことを学ぼうとすれば長崎の出島に行かなくては情報を得ることはできませんでした。現在のようにインターネットやメディアが発達して誰でも情報を得られる環境ではなかったのです。そして、情報を得るためには最低限の語学の知識が必要でした。ハードルはとても険しかったのです。

緒方洪庵は、1810年7月14日に現在の岡山県北部の備中国足守藩の武士の家の三男として生まれました。15歳の時に、父が大阪堂島にあった足守藩大阪蔵屋敷の留守居役となったのに合わせて大阪に出てきました。
1826年、16歳の時に大阪蘭学の祖のひとりとされる中天游(1783〜1835)の私塾「思々斎塾」に入門して蘭学、特に医学を学びました。その後、江戸に出て5年ほど学んだ後に1836年に長崎へ遊学し、出島にいたオランダ人医師ニーマンのもとで医学を学びました。長崎の出島での遊学を終えて、1838年に大阪に戻り医業を開業します。開業と同時に、蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開きます。
開業後の緒方洪庵は名声が高まり、門下生も増えていきました。そのため建物が手狭となり、過書町と呼ばれた地域の商家を新たに購入して適塾を移転させました。それが現在記念館として残る適塾です。
医師としての緒方洪庵は天然痘治療のために、牛痘種痘法を行いました。これは牛の天然痘である牛痘膿をワクチンとして、Y字型の器具を用いて人間に接種させる治療法でした。この天然痘治療法の貢献により、緒方洪庵は日本の近代医学の祖とされています。

洪庵が大阪で適塾での活動を行なっている当時、江戸幕府の奥医師で蘭方医のトップにいたのは伊藤玄朴です。
伊藤玄朴は、後の東京大学医学部の前身である「西洋医学所」の頭取でした。自分の後任として緒方洪庵を招聘します。1862年のことです。洪庵は健康上の理由で固辞しましたが、最後には求めに応じて奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕しました。この時、洪庵は幕府陸軍に出仕する医師の選出の指示を受けて7名の医師を推薦しました。その内のひとりが手塚良仙(1826〜1877)であり、漫画家で有名な手塚治虫(1928〜1989)の曾祖父にあたる人物です。

伊藤玄朴の招聘に応じた緒方洪庵は、大阪から江戸に出てきました。そして、1862年12月26日には医学界の最高位の称号である「法眼」に叙せられました。しかし、無理がたたり翌1863年7月25日に喀血し、窒息のため死去しました。享年は54歳でした。
緒方洪庵の亡き後、後任として幕府の西洋医学所(現在の東京大学医学部の前身)の頭取になったのが松本良順です。良順は、順天堂大学の基礎を作った佐藤泰然の息子です。

江戸時代に発達した「蘭学」は長崎の出島から始まりました。そこでシーボルトに学んだのが、伊藤玄朴と高野長英でした。伊藤玄朴は奥医師兼西洋医学所(東京大学医学部の前身)の頭取となり、後任に適塾(大阪大学医学部の前身)の緒方洪庵を推挙しました。
高野長英は佐倉順天堂(順天堂大学医学部の前身)を開設した佐藤泰然の師でした。繰り返しとなりますが、その佐藤泰然の息子が松本良順です。

西洋医学所は東京大学医学部の前身です。その頭取の初期の歴任者は下記の通りです。
①伊藤玄朴
②緒方洪庵
③松本良順

そして、「蘭学」と日本近代医学の祖とされる伊藤玄朴が師事したのがドイツ人医師のシーボルトだったのです。この一連の流れを考える時、シーボルトが日本の医学界に与えた影響が大きなものであったことがわかります。

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