七 月 〜蛇の目傘〜

—七 月—

 梅雨はまだ明けない。三週目の土曜日、日向さんと駅で待ち合わせをした。日向さんはなんと和服姿で登場。
「文士みたい」とわたしが言うと、日向さんは少し照れた。
「ただの作務衣だよ」
 でも、傘までジャパネスク。朱色に白い丸模様。
「蛇の目傘だっ。あめあめ降れ降れ、かあさんがぁ、蛇の目でお迎え嬉しいなぁ」
「そう。へびの目玉みたいな丸が付いてるから蛇の目傘って言うんだ」
「え、そういう意味だったの? 蛇にじっと見つめられたことないから、よくわかんないけど」
 わたしは自分の傘を畳むと、ささっと日向さんがかざしている蛇の目傘の中に入っていった。相合い傘である。ピチピチ、ジャブジャブ、ランランラン。
 そうして、ふたりして目抜き通りを歩く。雨のせいで、いつも観光客でいっぱいの通りも今日は人影がまばらだ。途中で老舗の喫茶店に入ることにした。というのも、
「ここの裏庭、雨の日には風情があるよ」という日向さんのリコメンドがあったから。
 テラス席に座る。適度に荒れた庭が濡れそぼっている。なるほど、いい感じのくたびれ方だ。この街には、まだまだ昔ながらの喫茶店がいくつも残っている。
「やっぱり昔ながらの喫茶店のコーヒーというのは、サイフォン式なんでしょうかねえ?」
 わたしが利いたふうな口でそう言うと、
「さあ、どうだろう。ここは普通のドリップ式なんじゃないの」
「紙フィルターで?」
「そうだね。他にはプレス式、なんてのもある」
「プレス式?」
「プレス式は、ほら、紅茶を入れる時に使うやつで、ぎゅっと」
「あ、はいはい。そう言えば、ハワイのコナコーヒーとか、そういう淹れ方しますよね」
「うん、紙のフィルターだとね、ぜんぶ濾過されるから豆が持っている独特の癖までなくなっちゃうんだ。まあ、その分きれいな味にはなるんだけどね。その点、プレス式は豆の油分なんかもそのまま抽出されるからうまいんだ。今度おいしいのをうちで淹れてあげるよ」
「日向さん、バリスタみたいだわー」
 ウエイトレスさんがブレンドコーヒーをもってきてくれた。ドリップ式なのかプレス式なのかわたしにはさっぱりわからないのだけれど、酸味の強い味であることは確かだ。
「おお、クラシカルな味」とわたしは感想を述べてみた。
「ここ、ずいぶん古くからある喫茶店だからね」
 続けて、わたしはこんなふうに言ってみた。
「老舗はどこもみんな味が濃いですね。そして、モダンなお店はどこも薄味。どうしてでしょうね。味もデザインも、なにもかも」
「ほう」
「なにもかもがみんな、どんどんさっぱりとしていくんです。そういうのって、なんだかちょっとつまらないですね」
「またきみは難しいことを言う」と日向さんは苦笑した。
「……」
 しばらくして、
「今月もお花見に行ったりする?」と日向さん。
「梅雨時の花はちょっと。わたし、紫陽花とかやっぱり苦手みたいで」
「そう言えば、つつじもダメだったね。水っぽい花がだめなのかな? でも、紫陽花ばかりが今の季節の花じゃないよ」
「じゃあ、他にこれぞ夏の花っていうの、なにかあります?」
 日向さんは三十秒くらい考えて、ノウゼンカズラ、と答えた。
「オレンジ色のきれいな鮮やかな花だ。たぶん、きみ好みだと思う」
「じゃ、それ見に行ってもいいです」

 日向さんの家のある方角に向かう。でも、今日はいつもの路地は曲がらず線路伝いをまっすぐ北へ進む。蛇の目傘の中は思ったよりも明るい。傘の和紙を透過すると、空からの光は実際よりも柔らかく、そして明るくなるみたい。わたしの頬もいい感じの朱色に染まっているかしら。
 お寺の入口。石段のところに野点の傘が立て掛けてあった。わたしたちの傘とおんなじ朱色。その脇でオレンジ色の花を咲かせているのがノウゼンカズラ、だった。西洋の花のようだ。からりとしている。抹香臭くない。
「好みです」と言うと、
「だろ」と日向さんは言った。そっけない。でも、きみのことはたいがいのことはわかっているよ、とでも言うようなそっけなさだった。そういうのは、ちょっと嬉しい。
「雨が上がったら、もっと真夏の花って感じになるんだけどね」
「いえいえ、雨のノウゼンカズラもいい感じです」
 そう言って、花から滴っている水滴を手で拭おうとしたら、
「ダメダメ。ノウゼンカズラには毒があるから」
「え?」
 冗談ではないみたい。わたしは急いで境内の手水舎で手をすすいだ。ノウゼンカズラ、ただものではないようだ。
 山門の手前に井戸があった。
「昔からある有名な井戸だ。じっくりとのぞき込んでいるとね、自分のココロの本音が見えてくるという言い伝えがあるんだ」
「ほんとですか!」
 わたしはしゃがんで小さな井戸をのぞき込む。細かい雨が幾筋も針のように水面を指している。
「なにか見えてきた?」
 日向さんが傘を差し掛けながら、わたしの隣に中腰になる。
「ええ、日向さんとわたしが仲良く並んでいるのが見えますね。これがわたしのココロの本音の景色なのかなぁ」
 わたしは、ちょっとおどけた感じでそう言ってみた。日向さんの瞳とわたしの瞳が一瞬だけ、井戸の水面を経由して互いに見つめ合ったような気がしたが、すぐに日向さんはぷいっと立ち上がって先に行ってしまった。
 本堂でお参りをする。
「この先にもうひとつ面白い場所があるんだ。行ってみない?」

 日向さんに連れて行かれたのは薄暗い洞窟みたいなところ。
「この街には、こういう洞窟がいっぱいある。山に囲まれて平地が少ないからね、山の裾野に穴を掘って住居にしたりお墓にしたりしてたんだ」
 そう日向さんが説明してくれた。
「じゃあ、ここもお墓みたいなところ?」
「そうだね、ここはもうちょっと特殊かも。たぶん、村の人たちの信仰の場所だったんじゃないかな」
 そう言えば、洞窟の正面には仏像らしきものが安置されている。
 洞窟の地面にはたくさんの穴が穿たれていた。そして、そこから水が滔々と溢れ出ていた。わたしはドキリ、とした。
「ここの水はね、ずっと昔から涸れたことがないみたいだよ」と日向さんが言う。
 ああ、マズい。また感じてしまいそう。この場所が黄泉のくにのどこかと繋がっているような気がしたのだ。……最近。わたし、なんだか感じやすくなっている。
「人間、精神が弱ってくるといろんなものに頼られやすくなっているからね、気をつけないと」
 職場のスピリチュアル好きの同僚がそんなことを言っていた。
 夜眠る前にも妙な感じになることが多い。ベッドに入って目を閉じていると、明らかにまだ覚醒しているはずなのに、まるでもう夢の中にいるみたいに荒唐無稽なストーリーが瞼の裏のスクリーンに出てくるのだ。夢と現実の境目が曖昧になってきているみたい。大丈夫かしら、わたし。
 でも、今回は隣に日向さんがいてくれたので大丈夫。少し肩に寄り掛からせてもらって事なきを得た。でも、これ以上は歩けそうもなかったので、日向さんの家まではタクシーに乗って帰ることにした。

 日向さんが玄関で下駄を脱いでいる。白い足袋の所々に泥染みができていた。
「縁側でトウモロコシでも食べない?」と日向さんが言う。
「昨日茹でておいたんだ。産地直送」
「それも、あの市場で買ったの?」
「そうだよ」
 わたしは先月のことを思い出す。あの時はずいぶんと迷惑をかけちゃった。その後で、日向さんは私を元気づけようとあの市場に連れて行ってくれたのだ。
 トウモロコシは縦に半分に切ってあった。また元気を取り戻したくて、わたしはわざと荒っぽくかぶりつく。柔らかくて甘いトウモロコシだった。
「おいしいですねえ」
 すると、わたしの食べ方を眺めていた日向さんが微笑みながら、
「きみはいつもそうやってかぶりついているの?」
「え? 他にどんな食べ方が?」
「例えば、こんなふうに食べたりしない?」
 日向さんが私の隣に座って器用なことをし始めた。左の掌でトウモロコシを支え、右手の親指で一列分だけをパラパラとほぐしていく。すると、あざやかにひとつひとつの実がはがれていく。
「あ、すごい。手品みたい。そんなの見るの初めてです! いつもかぶりついてました」 
 日向さんがニヤニヤ笑っている。
「豪快でいいんだけど、それやると歯のすき間に詰まっちゃうだろ?」
「なるほど。でも、まだわたしは若いから大丈夫」
「ああ、そうか」
「あ、……」
 ごめんなさい、そういうつもりじゃ、とわたしは心の中で謝る。日向さんが年を取っているとか、そういうことを言うつもりじゃなかったのに。
 しばらくの間、沈黙。わたしは縁側に置かれた、日向さんが食べた後の抜歯されたようにきれいに穿たれたとうもろこしの穴の列を見ていた。そうしたらまた、さっきの薄暗い洞窟の地面の穴を思い出してしまった。そこから黄泉のくにのどこかに繋がって。……ダメだ。過敏になり過ぎている。
 しばらくしてから、
「最近どう?」と日向さんが聞いてきた。トウモロコシは半分以上なくなり、わたしたちはビールを飲みながら縁側で糠雨を眺めている。
「まともな彼氏はできた?」
 まともな、というところでわたしは少しカチンとくる。
「いいえ。同世代の男は」とわたしが言いかけると、
「優しいばかりで物足りない、だったよねえ」と日向さんは笑った。
「スポーツでもすればいいんだよ」
「スポーツ!」
 わたしは素っ頓狂な声を上げる。
「日向さんの口からスポーツ、だなんて」
「失礼な。こう見えてもスキーは得意だよ」
 なるほどスキーか。それなら、なんとなくわかる。でも、日向さんがテニスをしたり野球をしたりサッカーをしたりしている姿は想像できない。
「きみもスポーツでもやればさ、同世代の男どもと仲良くなれるのに」

 わたしは、四年ぐらい前にちょっとだけ付きあっていた男のことを思い出す。いつもミントの香りのさわやかなトワレを付けていた。いろんな洒落たレストランを知っていた。乗っている車も格好よかった。スポーツマンだった。休日はアルバイトでテニススクールのコーチをしていた。優しかった。ベッドの中でもなかなか余裕シャクシャクの男だった。
 でも、彼に対して、突然、触らないで! と叫び出したくなる瞬間が何度かあった。あれはどうしてだったのだろう。決して不快なところはなかったのに。きれいな体をしていたし。話にもなかなかユーモアがあった。でも、突然叫び出したくなるのだ。触らないで!
 彼は今なにをしているのだろう。相変わらずテニススクールでナンパした女の子と遊んでいるのだろうか。それとも、もう誰かと結婚して家庭を持ったりしているのだろうか。ところで、わたしが彼と付き合い始めたきっかけはなんだったっけ? 友人の紹介? どこかのバーで知り合った?……ダメだ。思い出せない。そもそも、ほんとうにわたしはその彼と付き合っていたりしたのだろうか? 記憶がなんだかあいまいになってきている。現実と想像の境があやふやになってきている。……

 気を取り直す。
「スポーツがお勧め、なんて日向さんにしてはずいぶんと平凡なことを」
と言いそうになったけど、わたしは切り返して、
「じゃあ、日向さんとスキー、行ってみたいですね」と言ってみた。
「きみ、スキーできるの?」
「ボーゲンぐらいなら」
「ボーゲン!」
 日向さんが絶望的なイントネーションでリフレインする。
 わたしは想像する。静寂の中、わたしは日向さんの後ろについて誰もいない雪山の中を滑っていく。風はまったくそよとも吹かない。外気は頭の奥の方までしびれるくらいに冷え切っている。……そういうところになら行ってみてもいいなと思う。
 ああ、ダメだ。考えること考えること、みんなあっちの世界に行きそうなことばかりだ。どうしちゃったんだろう、最近のわたし。
「日向さんもやっぱり、梅雨は嫌い?」とわたしが聞くと、
「そうでもないな。雨は生命力の源だからね」と日向さんは答えた。
「生命力の源?」
「ああ、例えば、縄文杉」
 ずいぶんと話が飛びますねえ。
「縄文杉って、屋久島の、あの大きな杉の木のこと?」
「そう。杉の木があれだけ成長し続けられるのはまさに水のおかげなんだ。屋久島は日本で一番降水量が多い土地だからね」
「ふうん」
「ふつうはね、杉の木というのは生きられてもせいぜいが数百年。でも、屋久島では、水とそれに溶け込んだ栄養分が豊富だから、千年以上生き続ける杉の木も存在するんだ。だから、まさに生命力の源なんだよね、水は」
 なるほど。でも、とわたしは思う。逆に言えば、その縄文杉は死に切れなかったんじゃないかしら。ほんとうなら数百年で寿命をまっとうできるはずなのに、無理矢理栄養分を供給されてなかなか死に切れない。そしてそのまま千年が過ぎていく。そういうことなんじゃないかしら。
 ああ、ダメだ。またネガティブな方向にばかり物事を考えてしまう。でも、水は、生命を豊饒に育てる水は、わたしにはどこかそら恐ろしい存在であることは確か。だからわたしは梅雨が嫌い。
 気を取り直す。
「あ、そう言えば。わたしこんなもの作ってきたんです」
 わたしは鞄の中から単行本サイズの木版を取りだした。厚さ一センチの木版に和紙を貼り、背のところにわたしの名前と〈貸し出し中〉と書いたラベルを貼ってある。
「昔、小学校の図書館で本を借りるときはこういうシステムだったの」
「システム、ねえ」と笑いながら日向さんは、
「どれどれ」と手に取った。
「けっこうきれいに和紙貼ってあるじゃない」
「こう見えても手先は器用なんですって」
「……」
「さあて、今回はなにを借りていこうかしら」
 ガルシア・マルケスの『百年の孤独』をもとあった場所に戻し、わたしは次の本を物色する。あ、ウチダヒャケンの全集が並んでいる。
「あ、これにします。前から読んでみたかったの。ウチダヒャッケン」
「ほう」
「まずはどれから読めばいいですか?」
「有名な短編小説が入っているのはこの巻だね。あてのない鉄道旅行に出たかったらこちら」
「じゃ、あてのない旅に出ることにします」
 日向さんが苦笑している。
 今日は泊まらずに帰ろう、とわたしは思う。ちょっと怖いのだ。今日のわたしは、またよからぬ事を想像し、よからぬ余分なことを言ったり感じたりして、日向さんと気まずくなりそうで怖いのだ。みんな、雨のせい。梅雨のせい、低気圧のせいである。
「じゃ、今日はこれでお暇することにします」
「え? 帰るの」
「明日、友人の結婚式があるんです」(ウソ、である)
「うん」
「明日の朝は、美容院でばっちり髪の毛作ってもらわなきゃ」
「そうか。そうしたら、きみも結婚したくなるかもしれないね」
「……さあ、どうだか」
 もう一度、気を取り直す。今日、何度目だろう?
「次は八月ですね。真夏です。海に行きましょう!」とわたしが言うと、
「八月はもう夏の終わりなんだけどね。夏至からはずいぶん時間が経っているし。カナカナカナ」と日向さんが言った。
「どうして、そんなせつないことを言うんですか? 八月はまだりっぱな真夏です!」と声を張り上げて言ってはみたものの、その続きの言葉をわたしは見つけることができないでいた。


敢えてこの街の地名を記さない脚注(七月篇)

*駅から小町通りを入ってすぐの老舗の喫茶店の奥の庭は今も健在です。最近では名物のホットケーキやフルーツサンド目当てのお客さんが多いようですが。
*ノウゼンカズラの咲くお寺は海蔵寺です。水の寺とも呼ばれています。山門手前にある井戸以外にも、本堂の手前を左奥に抜けていったところに16の穴が穿たれた井戸があります。この井戸は空海(弘法大師)が掘ったという説もあるようです。
*ちなみに海蔵寺は、六月篇で登場した佐助稲荷神社のあたりから、中世の時代からある坂を経由して行くこともできます。


*六月篇は、こちら

*五月篇は、こちら

*四月篇は、こちら

*プロローグは、こちら
 


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