プロローグ

プロローグ

 わたしは月に一度、日向さんの家に行く。土曜日の午後、都心から一時間電車に乗って観光客でいつもにぎわうあの街の駅で降り、土産物屋がいっぱい並んでいるあの通りをしばらく歩き、何本目かの路地を左に曲がる。そして、幅の狭い踏切を越えお寺の門を抜け、苔むした境内を進んでいくと、ようやく日向さんの住んでいる家が見えてくる。日向さんの家はお寺の敷地と裏山に囲まれるようにして建っている。純日本風の家屋と庭。庭の真ん中には五メートルぐらいの大きな木が枝を広げている。
 日向さんは三年前にこの家を買った。と言っても、わたしが日向さんと知りあったのは今から一年前だから、そのあたりの詳しいことはわからない。古家付の土地を買って改装したらしい。
「墓地の隣だからね、けっこう破格の値段で買えたんだ」
 そう日向さんは言っていた。でも、純日本風の家はとても手入れが行き届いているし、庭を含めると百坪近くもありそうな土地だ。生半可な値段で買える物件ではないと思う。それをどうやって、ほとんど仕事もしていない(わたしにはそう思える)日向さんが手に入れることができたのだろう。
 日向さんは何年か前に会社を辞めて、今はフリーの原稿書きをしている。でも、書いているものといっても機内誌とかのエッセイぐらいで、とてもそれで生計が立てていけているとは思えない。日向さんは、
「遺産が入ったんだよ」と言う時もあるし、
「会社の退職金が思いの外よかったんだ」と言う時もある。

 まあ、それはともかく。わたしはこの日向さんの家に、一年前から月に一度のペースをきちんと守りながら通い続けている。月の初め、わたしは日向さんに電話をする。
「来週の土曜日、あいてますか?」
「あいてるよ」
「じゃあ、お昼過ぎに伺いますから、待っていてくださいね!」
 いつもそんな感じだ。わたしは四週のうちのいずれかの土曜日の午後、日向さんの家に来て、その日のうちか、あるいは一晩泊まって翌日の日曜日に東京に戻っていく。泊めてもらう時、日向さんは客間にわたし用の布団を敷いてくれる。そこでひとり寝。だからまだわたしは日向さんといっしょに寝たことはない。念のため。
 日向さんはわたしのことをどう思っているのだろう?
「やあ、来たね」と声は掛けてくれるが、本を読むのに集中している時なんかは何時間も放ったらかしにされる。そして、日が沈みかけてもまだわたしがずっとひとりで縁側にいるのに気が付くと、
「なにか食べる?」
 お腹を空かせた野良猫に餌でもやるように話しかけてくる。いったい、日向さんはわたしのことをどう思っているのだろう?
 でも、そんなこと、文句を言えた筋合いではないのだ。というのも、実はわたしには他に付き合っている人がいるのだから。あまり自慢できる相手ではないのだけれど。
 年は三十八歳。妻子あり。出口が見つからないのは十分承知しているけれど、なかなか別れることができない。そんな問題を抱えながら、わたしは月に一度日向さんの家に通っている。前の晩、彼とホテルで一緒に過ごした後にそのまま電車に乗ってやって来ることもある。だから、わたしの方から日向さんに何かを求められるような筋合いではない。
 筋合い。以前、なにかの拍子にわたしがその言葉を使った時、
「きみみたいな若い女の子が、筋合いなんて言葉、あまり使わないものだけどなあ」
 そう日向さんに笑われたことがあったっけ。

 まあ、それはさておき。わたしはどういう訳だか同世代の男子を好きになることができない。いつも年上。日向さんだってそうだ。今付き合っている彼以上に年上。わたしよりひと回り以上離れている。
 日向さんのプライベートについて、わたしはなにも知らない。ずっと独身を通してきたのか結婚したことがあるのか。子供はいるのか。奥さんとは別れてしまったのかそれとも別居しているだけなのか。そして今、誰か付き合っている女の人がいるのかいないのか。そういうことをわたしは全く知らない。ただ、少なくとも土日にわたしがお邪魔している時に限って言えば、女の人が訪ねてきたり電話をかけてきたりしてきたことはない。でも、何度か洗面所のところに見知らぬガラス瓶を見かけたことがあったし、書斎の空気の中にふんわりと香水の残り香を感じたこともあった。
 でもまあ、そんなことこちらが言えた筋合いではないのだ。そして、日向さんもたぶんわたしの今の状況について、薄々はわかっているような気がする。
「あんまり自分を削ってまで無理をするなよ」
 そう日向さんに言われたことがあったっけ。

 月に一度、わたしはここにやってきて日向さんといろんな話をする。日向さんはいろんなことを知っている。たくさん本を読んでいるしいろんな場所を旅行している。そんな日向さんと過ごす時間のことを、わたしはここに書きとめて置こうと思っている。これから一年間続けるつもり。
 わたしがなにか文章めいたものを書こうとしているなんてこと、日向さんが知ったら、いったいどんなふうに思うだろう。
 前に一度、日向さんがこんなことを言っていたのを思い出す。機内誌のエッセイの原稿を書いていた時のことだ。
「なにを書いているの?」とわたしが尋ねると、
「どこの街のどの店の、なにがうまいかとかなにがお土産にいいとか、そういう類のお決まりの文章だ」
 珍しく日向さんは自嘲めいた感じでそう言った。だから、わたしは思い切って聞いてみることにした。
「じゃあ、ほんとうは日向さん、なにを書きたいの?」
 日向さんはキーボードに入力する手を休めて、ゆっくりとこちらを振り返った。わたしは言葉を続けた。
「エッセイ? それとも小説? あ、きっと、ミステリー小説でしょう」
 日向さんが苦笑している。
「ボクにミステリーはムリだ。人を殺すトリックなんて考えつかないよ」
「じゃあ、やっぱり恋愛モノね。今まで誰も思い付かなかったような奇想天外なラブストーリーを、いつか日向さんが書いたりして」
 そんなことをわたしがおどけた口調で言った時、日向さんは急に真面目な口調になってこう言ったのだ。
「奇想天外なラブストーリーを書くことなんて、ボクには全然興味がないよ。恋愛モノをきちんと書くということはね、男女の平凡過ぎる日常の駆け引きに、この先ずっと自分がどっぷり浸かり続ける覚悟を持つ、そういうことだと思うけどね」
 それを聞いた時、わたしは少し殺気を感じた。ひょっとして。日向さんはもう既に、そんな覚悟で毎日なにかを書き綴っているのかもしれないと。

 わたしはこれからの一年間、日向さんといっしょに感じたり思ったり話したりしたことを、ここに書きとめて置こうと思っている。もちろん、わたしの書くものに覚悟めいたものなどなにもない。わたしはただ書き連ねていきたいだけなのだ。そうすることで、少しでも日向さんとの記憶を形にして残して置きたい。ただそれだけのこと。
 でも、どうして一年? たぶん、あと一年ぐらいはわたし、やっぱりここに通い続けるだろうし、そしてあと一年ぐらいが、わたしのモラトリアムを終わらせるにはちょうどいい期間だと思うから。

 まずは春の一日から始めようと思います。日向さんと出会ったのも去年の春だったし、たくさんの花が咲く四月は、やっぱりこの街には一番ふさわしい季節だと思うから。

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ドキ♡
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naotoiwa

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