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拉麺ポテチ都知事10「男の背中」

エヴァが終わったと思ったら、DC/PRG(以下・DCPRG)も終わってしまった。どちらも最も熱心だった頃ほど追っていた訳ではないが、いざ完結してしまうと寂しいものである。だが何事も始まったら終わるだけだ。サスティナブルであることも大切だが、決着を付ける勇気とセンスを現代は忘れてはいないだろうか。

さてDCPRGの最初の解散は存在を知らなかったため見ることができなかった。雨が降った再結成の野音は親に借金をしてチケットを買い、ビニール傘を買う金もなくてびしょ濡れで観た。良き思い出である。

初めて聴いた曲は何だろう。「構造Ⅰ」だった気がする。あれは4拍子と5拍子の両方で取れるベースラインを主軸にした楽曲なのだが、最初は全くリズムを取ることができずに、理解度としては恥ずかしながら4が前景化するセクションでようやく拍が取れる程度であった。だが変拍子もポリリズムもよく分からなかった私でも、彼らの楽曲を分析し体得することで律動のリテラシーを上げることができたのだ。ありがたや。

大学生の頃におけるビジョンでは今頃、自分もDCPRGに加入しているはずなのだが、残念なことに私のサキソフォン技術でリクルートされることはないのであった。しかし、その代わりに一緒に散々バンドをやっていた秋元修くんが最後のドラムスを務めたので良しとしたい。解散ライブで彼が「構造Ⅰ」の4拍子×5拍子に6拍子のビートを重ねて、リズムの3層レイヤーを創出した瞬間は見事だったなあ。

そして主宰・菊地成孔氏の「もし客席に若い音楽家がいたら」というMCもしみじみと感動した。「想像力を持ち、原理を知り、チームワークを知れば君たちもできる。自分にできたのだから諦めるな」という旨の内容だったと思う。

DCPRGの音楽性は緻密なアフリカ的ポリリズムによる混沌、山下洋輔イズムを発展させたフリージャズ的リズムの混沌、M-BASEの書法による1拍を共有したインド的リズムの混沌など多様だが、どれもが菊地氏のたゆまぬ音楽的追求の果てにある。それは才能やセンスだけではなく、サスティナビリティとは違う意味における持続の結果だ。

巻上公一氏のHPに集団即興「JOHN ZORN'S COBRA」の1993年から1999年にかけての貴重な演奏記録が載っている。見てみると「菊地成孔部隊」が1995年12月と1999年4月の2度に渡り企画されていたことがわかる。これについては巻上氏とパソコン通信に感謝したい。

1度目は<ベース/チェロ/ヴォーカル×2/ターンテーブル/ストリングス/サックス×2/キーボード/ドラムス/サンプラー/パーカッション/チェロ、ピアノ>という編成。菊地氏の別楽団であるペペ・トルメント・アスカラール(PTA)とDCPRGがミックスされた様な形だ。プロンプター(指揮)も5人いる。

2度目は<ヴァイオリン×2/ヴィオラ×2/チェロ×3/コントラバス×2/ハープ>にプロンプターは菊地氏のみで、ほぼほぼPTAの編成である。1999年はDCPRGが結成された年だが、PTAも同年に発進していたと言うことができるだろう。

もちろん菊地氏の創作は膨大で上記はその一部にしか過ぎないが、この前史から足掛け約30年をかけて、あの夜に至っていることを強調したい。つまり、これは彼が「諦めなかった」記録の一端なのだ。長く生きれば生きるほど巻き起こる人生の紆余曲折のなかで、何かを追求し続けることは時に容易くない。でも彼はやり続けてきた。繰り返すが、この持続はサスティナブルとは言えない。だからあのMCに心が動いたのである。

他にも書こうと思えばあの夜のことは音楽的にだって、文脈的にだって、いくらでも書けるが控えたい。

エヴァもDCPRGも終わった。「では自分が何かを始めますか」といきたいところだが、どうだろう。アイデアはだんだん溜まってきたので、それを少しずつ形にできたらいいなと思ってはいる。確かなのは私も追求を諦めていない、ということだけだ。

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