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井の中から飛び出る蛙になるために

ずっと考えてきた。
自分が今本当に目指しているものが内定なのか。

就職活動をしなければならない時期に差し掛かり、前が見えない不安にずっと追いかけられながら走り続けてきた。

でも、立ち止まってもっと自分の心の声を聴く時間が欲しくてさとのば大学に入学した。

講義の中で、欲しい未来、マイプロ、今感じているモヤモヤ、とにかくいろんなことを考えて向き合ってきた。
今までずっと自分と向き合うのが怖くて逃げていたけど、初めてちゃんと自分の声を聴こうと思った。

そこで気づいたのは、やっぱり私は就活をしなければならないという現状に囚われているということだった。世間体を気にして、周りの評価が気になっているうちに、がんじがらめになっていた私自身だった。

就活と自分自身を見つめ直したいタイミングがたまたま同時に降ってきて、同時に降ってきたからこそ、(私にとっては)全く別の軸の上にいる2つを無理矢理1つの軸でまとめようとしていたんだな、と感じる。

自分の気持ちをやらなければならないの世界に閉じ込めていた。両輪ともパンクした自転車で必死に前に進もうとしていた。修理して空気をパンパンに入れたいと思う自分自身を横目に。

欲しい未来を考える時も、マイプロを考える時も常に就活という言葉がつきまとって、見えたいもの、切り開けて欲しい未来はもっと遠くにある気がするのに、目の前にある就活という言葉の便利さと、自分の現状からそこで足踏みを続けていた。


じゃあ、その言葉を取り払った時に私がどうでありたいのかというと、
井の中から飛び出る蛙になりたい。

たぶん、もともと何かを知りたい欲が強い人間なんだと思う。興味のアンテナを常にピンと張り続けていたい。自分自身が生きてる自分の中だけにある世界から飛び出して、新しい世界で知らなかったワクワクを見つけ出すことに楽しみを感じているんだと思う。自分だけの世界じゃなくて、もっと広い世界の中で生きたい。

どんな大人になりたいか、どんな人でいたいかを考えた時に、これ!って思う理想像はうまく見つからないんだけど、嫌だなと思うものはあって、「家と職場(学校)をただ往復するだけの日々を送る人」になりたくないっていう思いが強い。
高校の時も、それが嫌で楽しそうなまちづくりの市民団体に所属したんだったなあ。

でも、私の大学3年間は気づけば学校と家の往復をする日々だったと振り返って思う。
部活が忙しくて、部活がない日はバイトに行って、ご飯と寝るためだけに帰る家。自分が何に興味があるんだっけとか何がしたいんだっけとか考えることなんてしなくて、ただ日々がすり減っていた。
考えたくなかった訳じゃない。考えても、今の自分にはそれを達成する時間がなくて、考えるだけ無駄で虚しいからって考える行為そのものから逃げていた。興味のアンテナは出していても無駄なんだとしまいこんだ。
でも、どこかで“なにかすごいことをしている人“に憧れは感じていて、長期インターンやってますとか学生団体立ち上げましたとか留学しましたとか、いいなあと思いつつそこに近づこうとか、自分も何か一歩踏み出そうとかそういうことは考えなかった。考えても無駄だからって自分自身に言い聞かせてた。
(だからそういう話を聞くと、あー私とは違う世界で生きてきた人なんだなあって劣等感みたいなものを感じてしまう。学歴コンプとは違うんだけどこういうのなんていうんだろう)

もちろん、自分自身の大学3年間を否定する気はなくて、部活もバイトもプライベートもそれなりに充実していて、学びだってたくさんあった。


4年生になった春、世界は大きく変わった。
良くも悪くも全てがストップして、1人になった。(孤独になった、という意味ではない)

1人になって初めて今まで自分の中に封じ込んでいたエネルギーみたいなものが溢れ出る瞬間があった。興味のアンテナをもう一度引っ張り出したくなった。6月くらいだと思う。

エネルギーが溢れ出た時、そこにもっと耳を傾けようと思った。今までは溢れないように必死に閉じ込めてきたものを出る分だけ外に出してみた。

自分の興味アンテナとエネルギーがここだ!と反応した場所に(オンラインで)行ってみると、たくさんの人がいて、たくさんの世界があった。
ワクワクして、感動した。ああ、ここが私がいたかった本当の場所なんだろうなと肌で感じていた。
そして、今ここで感じている感動とワクワクをずっと止めたくない。ずっとこの気持ちと一緒にいたい。
だから、ゴールが内定でなければ、就活のために何かを頑張りたい訳じゃない。
そもそも今やってることが就活じゃないのにゴールを就活にしようとしてたのがもう違ったんだな。北海道に行きたいのに東海道新幹線に乗った感じ。


この気持ちとずっと共にいるために、私は蛙になりたいと思う。もうすでになってるかもしれない。

そして今の私が本当に欲しい未来は、
たくさんの蛙が、もっと自由に、もっと広い海で泳げるようになることだと思う。
一匹でも多くの蛙が広い海に飛び出しやすくなるように、井戸の高さを下げること、そして一匹でも多くの蛙が海に飛び出たい思える井戸を作ることが私のやりたいことだと思う。

もっと近い言葉で置き換えると、興味とか、知りたいことを知ろうとすることに対するハードルを下げたい。学びと捉えてもいいんだけど、あえて”興味”という言葉のまま進めようと思う。

数ある就活に関するネット記事の中で、どうしても忘れられない記事が1つある。就活生へのインタビュー記事で、「内定をもらったけど、その会社が何をする会社なのかはよくわからない」というような内容の記事だった。
私にとってすごく衝撃的で、その会社でこの人は何がしたいんだろう?そもそもなぜ選考を受けたんだろう?となぜなぜ症候群に襲われた。

この記事に感じたなぜ、とモヤモヤを紐解くと、わからないなら自分で知ろうとすればいいじゃん、がでてきた。わからないならわからないなりに、自分で知ろうとする必要があるんじゃないか、と。わからないをそのままにしていていいのかと。

似たようなモヤモヤを感じていることがもう1つあって、選挙のこと。
選挙に行かない理由の1つとしてよく聞かれる「政治のことよくわからないし、、、」

じゃあ、自分で調べれば、知ろうとまず興味を持つことから始めればよくない?


人ってないものねだりだなあつくづくと思う(もちろん自分も)。
記事のことも、選挙のことも、置き換えれば”教えてくれる人がいないからわからない。誰か教えてくれればいいのに。”っていうことなんだと思う。
ずっと、与えられるのを待っている。
そうじゃなくて、わからないな、じゃあ調べてみようかな、知るためにこんなことをしてみようかなって自分を主語に自分から乖離しないで知ろうとする姿勢が何よりも大事なんじゃないかなって思う。

でも、知るって難しいことでもあると思っていて、何をどうすれば知ることができるのか、調べられのかっていうのは難しいよなあって思ったり。そもそも自分の知りたいことが言語化できていなかったり。そういった意味でも、もっと"知る"に対するハードルが下がるといいなあ。

興味アンテナも同じだと思っている。何に興味があるかなんて最終的にはその人自身にしかわからなくて、それを拾えるかどうかは、アンテナを張るか張らないかだと思う。(突如しまい込んでいたアンテナがビビッて何かを急に拾うことだってもちろんある)
「やりたいことがない」ってよく聞く言葉だなと思うけど、じゃあそれを探すためにアンテナを張ってみることからじゃないかなと思う。
でも、そのアンテナを出すタイミングもまたその人次第で、私だって大学3年間はしまい込んでいた。
アンテナを出したくなった時にアンテナを出しやすい環境であってほしい。井の中から飛び出したくなった時に、飛び出しやすい高さの井戸であってほしい。

その人が、その人の意思で動きたい、知りたいと思った時に動きやすくて知りやすい場であること。それが私の言う”興味とか、知りたいことを知ろうとすることに対するハードルを下げたい”だと思う。
ないものねだりで、ずっと受け身でいるんじゃなくて、身近なことでも、遠い存在のものでもなんでもいいからその人が興味を持ったことについて、その人なりのペースで、その人らしく知ることができる世界。


家と大学の往復の日々を過ごしてきた私が、この2.3か月で見て、入り込んできた世界は、刺激的で、でも楽しさと明るさが詰まった世界だった。
ずっと井戸の中で縮こまって、井戸の外を知ろうともせず、知らないことに疑問も抱かずに過ごしてきた。でも、井戸の上にかかっていた雲が急に晴れた時、とても広い海が広がっていて、その海に飛び出したくなった。飛び出してみたら見えていた海よりももっともっと広かった。穏やかな波の流れるままに揺られたこともあったし、高い波に溺れそうになったこともあった。それでも私は泳ぎ続けたかった。広い海の、行けるところまで行きたかった。行きたい。
そんな海に、今すぐ、誰もが、じゃなくていい。自分のタイミングで、行こうと思えた時に飛び出せる蛙が一匹でも多くいるように。自分らしく泳ぎ続けられるように。地図なんてない広い海で、自分の思うままに行きたい方向に向かって泳げるように。



なんだかまとまらなくなってきた。
ここから先はまだ自分自身でも見えないものを探っていくことになるんだろうなと思っている。
欲しい未来は(ところどころぼやけながらも)見えるけど、どうやって?誰のために?がまだピンとくるものがない感覚。

きれいな終わり方じゃないけどこの辺で。
お付き合いありがとうございました🍨



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