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陰陽師のオシゴト

陰陽師は、古代の天皇天武天皇の時代に「国家の機関」として、存在していたことが『日本書紀』からわかっています。

当時国のセクションの中に「陰陽寮」なるものがあり、国家の防衛を測っていました。

防衛とは…天体観測のこと。

農耕にとっても最も大事なのは、その年の天候を知ることです。

雨が多いのか日照りが予想されるのか。それは自分たちの食料に直結するのだから、もっとも大きな関心ごとなのは当然ですね。

天気を知ることは、国の最重要事項だったのです。

観測の結果、天候不順が予測されたら、それを回避する儀式が行われます。

観測と呪術的な対応がセットになっていたわけですね。

さらに、年間通じて天候を観測することから、四季を読み暦を作ることも仕事でした。

天皇は神の子孫であり、すべてを支配するという立場だったので、暦を作ることは、天皇だけができる支配者の証。

天皇の権力は時間すら支配するのだ!ということ。

天体観測により、一年の星の動きなどを知ることで暦を作り、暑くなるとか寒くなるとか、四季を読むことで天候を予測することができました。

その四季を知る…暦は国家の機密事項にあたります。

陰陽師たちは、私的に観測の機器を使ってはいけなかったし、勝手に観測してもいけなかった。

これがどのくらい厳密に守られていたのかはわからないけれど、きっと「自分たちは国防の最前線にいるのだ!」という気概でもって仕事していたんじゃないかと思います。

平安時代くらいになってくると、フリーランス陰陽師が出てきます。(もしくは、有力貴族の風水コンサル)

それが安倍晴明に代表される陰陽師たちです。

彼らは天体観測の結果、日照りが続いた雨乞いの儀式をしたり、雨が多いとやませるまじないも施します。

そしてさらに「なぜ日照りなのか」「なぜ雨が多いのか」という疑問にも答えてくれました。

その回答のひとつが「怨霊」です。

日本の怨霊というと、菅原道真公が有名だけれど、実はその発生は奈良時代に遡ります。

怨霊になる要素は何かというと、ズバリ「不幸な死に方をした」こと。

平安京を作った桓武天皇は、自分の片腕となって働いてくれた早良親王が裏切ったと思いこみ、無実を訴える弟の言葉に耳を貸しませんでした。

早良親王はハンストして抗議、そのまま死去、というすさまじい最期を遂げます。

早良親王の死後から、桓武天皇の自身も、彼の身内も病人が続出し「これは早良親王の祟りではないか…?」と思うわけですね。

確かめるすべとしては、陰陽師に占ってもらうこと。

占いの結果は「タタリでビンコですね!」

かくして、早良親王を鎮めるお祭りが始まるのだけど、「ほんとにタタリかどうか」はむろんわかりません。

しかし、心あたりのある人のところに不幸が連続すると、原因を求めたくなるものです…。

これは桓武天皇のみならず、誰でもそうだと思います。

こんな風に「ふだんと違うこと」「不幸が続出」「困った事態が改善しない」ことがあると、「怨霊」に原因を求めることが多かった。そういう時代だったのです。

「大津皇子」という人物がいます。

冒頭に出た天武天皇の皇子で、とても優秀で、人気者で、お金持ち。
体格も良く、ジョークも楽しく礼儀正しい、というドラえもんの出木杉くんと、ちびまるこちゃんの花輪君を足したような人物です。

彼は、政争に破れて死に追いやられるのですが、追いやった人物こそ、天武天皇の后、のちの持統天皇でした。

持統天皇は自分の子供である草壁皇子に皇位を継がせたいあまり、大津皇子を死に追いやったというのが、一般的な見方です。

この大津皇子が、悪霊になって、しかも悪い龍になったという伝承が奈良の薬師寺にあります。

奈良の薬師寺は、天武天皇が持統天皇が病気になった時に、その回復を祈って発願した寺と伝わります。

しかし、建設途中で天武天皇は死に、持統天皇がその志を継ぎました。

お寺を建てた時、中心になった人物を「本願」と言うのですが、薬師寺の本願は天武天皇・持統天皇だと言われています。

持統天皇は、自分が殺した(ようなもの)である大津皇子を恐れていた。

実際、彼が死後龍になって暴れ回ったという縁起が『薬師寺縁起』に伝わっています。

悪龍を鎮めるために活躍したのは、陰陽師でなくお坊さんなのですが、「大津皇子の怨念が龍になった」「怨霊は存在する」「水に関する困った出来事は、この悪龍のしわざなのだ」ということを当時の人は認識していたのです。

現在薬師寺に「龍王社」というお社がありまして、ここには大津皇子がお祭りされているのです。

龍王社ができたのは、持統天皇も亡くなったずっとずっとあとのこと。

大津皇子自身も、なぜ今頃自分が怨霊と化したのかわからないくらいでしょう。

でも、人々の中に「若くして死を賜った可哀想なひとがいた」「その奥さんは、辛すぎて気が狂ってしまったらしい」「そのお姉さんも、悲しい歌を詠んで弟の死を悼んだ」ということが人々の中に息づいていたのでしょう。

だから時間が経っても怨霊認定されたのでしょう。

陰陽師や、陰陽師のように呪術的な鎮めを生業としていた人々は、怨霊を鎮め、慰撫すること。
そして何よりも、
「怨霊を作ること」がオシゴトだったと言えるかもしれません。

(イラストは原井けいこさんのものを入れさせていただきました。原井さまありがとうございました)





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