見出し画像

人生をぶち上げる・なりの生き様   (GOAL B/JCC 0期生)

はじめまして。(JCC0期生の方はようこそ)
このページを見てくれてありがとうございます。

GOAL B / JCC0期生のなりと申します。

普段は会社員として働き、JCC0期生としてプロコーチでもあります。

このページを見てくれているということは、少しでもキャリアに悩んでいた
り、GOAL Bのコーチングに興味を持っている人がほとんどだと思います。
実際にコーチがどんな生き様を体現してきたのか赤裸々に本文章でお伝えしたく、この投稿を書いています。

最初にお伝えすると、私は凄い人でもエリートでもないです。
ただ、キャリアやコーチングについて考える機会の多さだったり実際の転職経験がみなさまよりもあると思います。
実際、転職を通して楽しい人生に変わりました。
また、コーチングを知り、受けることで自身の人生の可能性がさらに広がりました。
自分の好きなことを探究し、仕事とした結果、
今ものすごく人生が楽しいです。

もし、あなたが
『変わりたい』
『自分が何に向いているかわからない』
『コーチングを受けたい』
と本気で思っているなら、以下をご一読いただいて、
私をコーチとして”相棒”にするかどうか判断してください。

自己紹介

あなたの相棒候補として、「そもそもお前誰やねん」というご意見を払拭するべく、以下にて簡単に概要を共有します。

  • ニックネーム:なり

  • 年齢 : 29歳(1994年生まれ、大谷・羽生・山宮世代)

  • 出身 : 神奈川県川崎市

  • 職歴 : 社会人歴7年目、2社経験 

    • 1社目 JTC (大手金融機関)へ入社、法人営業、2.5年で退社

    • 2社目 外資系企業営業部門へ入社、法人営業を経験し現在企画職

  • 資格 : TOEIC 780点、FP2級、日商簿記2級、宅地建物取引士 

  • ゴール: 3年(2026年)以内に不動産事業とコーチングで生きていく(詳細は下記参照ください)

  • 趣味 : サウナ・筋トレ・ラーメン屋めぐり

1社目を辞めるまでは、人生で最も楽しかった瞬間は高校生の頃に野球に打ち込んだ時であり、これ以上の無我夢中で何かに打ち込む体験は死ぬまでもうないだろうと思っていました。
ですが、5年前転職した時から毎年「楽しさ・充実感」がアップデートされています。毎年「今年が最高に楽しかった!」と言えています。

2024年に入り、0期生になった今、やりたいこと・したいことが多すぎて1日24時間じゃ足りないと本気で思えるようになりました。
毎日が最高に楽しい!
そう心から感じています。

これまでの経歴

★ 小学生卒業まで

生まれは島根県松江市。宍道湖のそばで育ちました。
いわゆる田舎です。週末は祖父母の家に遊びにいき、AEONで遊び尽くす。典型的な田舎の生活を送っていました。

祖父母が大好きな子どもでした。
祖父は学生時代プロ野球にスカウトされるほどの実力者でした。祖父母の家ではいつも読売ジャイアンツの試合を見ていました。祖父は、定年後も野球を続けており、県のシニアソフトボール大会で国体に出場することになりました。兵庫県へ応援へ行ったことを今でも朧げに覚えています。
こういった経験から私は野球に興味を持ち始めました

その後、父の仕事の転勤で小学2年生の頃に隣の県、鳥取県鳥取市に引っ越しました。島根に愛着があった私は大泣きして、引っ越したことを鮮明に覚えています。
近所の3つ上のお兄ちゃんが野球をやっており、暇な時はキャッチボールをするようになりました。もっと上手くなりたい!と思った私は、地域の少年野球クラブに入部。野球漬けの日々でした。
祖父の遺伝なのか、野球は最初から得意でした。人よりも速いボールを投げることができたのです。その結果、小学5年生でエースピッチャーになりました。市内の大会でも優勝するなど充実した野球ライフを過ごしていました。

その後、再び転勤となり、小学5年生の頃、神奈川県に引っ越ししました。前回とは異なり、とても嬉しかったです。田舎から脱出できる!トイザらスがいっぱいある!すぐ行ける!そのような感情になりました。
※当時はトイザらスに行くのに広島まで行かなければならなかった
転校後、すぐにクラスには溶け込むことができ、少年野球クラブにも入部できました。そこで、人生最初の挫折を味わいます。鳥取ではチームの主役選手だった私ですが、投手をさせてもらうことはできず、ギリギリ試合へ出場するような選手になりました。完全に実力不足でした。鳥取の頃よりもメンバーはたくさんいて、年下でも突出して上手い選手もいました。なんとか、セカンドで出場していましたが、願っているポジションではなく、
”上には上がいる、俺には勝てない”
そう思いながら、野球をしていました。今振り返れば、鳥取時代よりは楽しくなかったかなと思っています。
転校してから、母親がママ友に影響され、中学受験の塾に通うことになります。突出して勉強できる方ではなかったです。偏差値も60弱くらい。私は地元中学への進学を希望していましたが、とりあえず受験する運びになり、無事第二志望へ入学することができました。

★ 高校卒業まで

中高一貫校の共学へ入学しました。東京の学校だったので、神奈川県に住んでいる人は多くなく、時間をかけて通っていました。
野球を続けたいという気持ちから野球部に入りました。野球に注力しているような学校ではなかったので、ほどほど(週3)くらいの部活動でした。
それ以外は学校生活でほとんど記憶がないくらい平凡な生活でした。
一方、父が山陰地方へ異動するリスクがあり、今更子どもたちは田舎に帰れないだろうという親心から友人の会社へ転職しました。が、うまくいかなかったそうです。子ども目線でもそう感じるようになりました。その結果、家のグレードは落ち、母親は毎日大変な顔をして生きていました。その姿を見て、父を憎み、転職は悪であると思っていました。
高校に進学し、野球部が「軟式野球部」であったため、甲子園を目指さない野球部でした。それでも都内100校以上あるような部活動です。高校は何故か強豪校(国公立なのに)だったので、毎日野球をしていました。
そこで祖父譲りのセンスが光ったのか急速が軟式で140kmほど出るようになりました。ノーコンでしたが、都内で最も急速が速い投手になり、結果都大会優勝、関東ベスト4の結果を出すことができました。
野球を通して、勝つこと・レベルアップすることにやりがいを感じました。
そして、努力をしたら叶うことを経験しました。

★ 大学卒業まで

大学は理系大学へ進学しました。尊敬する先輩が真面目な大学生活を送っており、「この人のようになりたい」という気持ちから進学を決意したことを覚えています。
理系大学ゆえ、華のキャンパスライフではなかったです。8割が男性。
来世は美女に囲まれるキャンパスライフを送ってみたいものです。

入学したらサークルや部活にも入らず、そこらへんにいる大学生のような生活を送っていました。
バイトや飲み会に明け暮れる毎日でした。
大学では野球を辞めていたので、それはそれで楽しかったのですが
野球のように熱中できるものはありませんでした。
「何かに打ち込みたい」と思ったものの、選択肢が勉強くらいしか思いつかなかった私は「大学時代は勉強に捧げるか!」と何故か思い、実行しました。今考えるとゾッとしますね笑
授業はフル出席、テストも全て勉強する、課題はしっかり提出するを徹底した結果、学部成績優秀者として表彰をいただきました。
また、興味のあった資格を全て独学で取得しました(自己紹介の資格はほとんど学生時代に得たものです。)

その後、大学3年生になった際に、「将来のために就職活動はまじめにやろう!」と思い、当時はまだまだ行く人がいなかったインターンにたくさん参加しました。5日間のインターンを7つほどいったことが学生時代一番頑張ったことかもしれません。笑
デベロッパー・シンクタンク・金融機関・製薬 
あらゆる高い給料をもらえる会社を受け、内定を沢山貰いました。
中学生時代の父の転職のエピソードから、高い給料を貰えるところを前提条件としていたみたいですね。結果、就職活動マニアと化していました。
当時の第一志望は野村総合研究所(NRI)であり、見事6/1の就職活動解禁日に内定をもらったものの、2時間後にはお断りし、直感で金融機関を選択しました。「なんとなくこっちの方が向いてそう、楽しそう」と思ったのです。
これが人生の転記だったと思います。

★ 1社目:JTC(Japan Traditional Company)へ入社

一般的に就職活動をしている中では割と「勝ち組」と言われるような大手日系金融機関へ入社することができました。
直感と記載しましたが、振り返ってみると入社理由は30歳前半で1,000万円稼げる給料とモテそうだったからという理由くらいしかありません。
しょうもないなぁ俺。

本社の法人営業部へ配属されました。
どんな感じかというと、まさに半沢直樹の世界でした。倍返しのない半沢直樹。ずっとつまらなかったです。
体育会系、学閥のしがらみ、成果を出しても正当に評価されない
よくわからない飲み会が多い、上司の機嫌を取る、無駄な付き合いゴルフ
自動車を購入させられる(1年目からローン地獄!)、、、
過度なノルマのプレッシャーをかけ、コンプライアンス違反は日常茶飯事
1,000万円以上もらっている30代、40代の先輩はつまんなそうに仕事をしている姿ばかり・・・

最初の1年間はがむしゃらに毎日を過ごしていました。
「仕事なんてこんなものだ。面白い方が稀である。」と信じ込み、
同期と愚痴をこぼしながら過ごしていました。
入社1年半が経過した頃のクリスマスごろにふと「人生つまんないな」と心から思い、転職することを決意しました。気付いたらエージェントとのアポに向かっているくらい無意識で行動していました。
入社理由の【お金】が全くモチベーションになっていない証拠です。
父のエピソードで悪だと思っていた転職に手をつけてみた転機でした。

★ 2社目:外資系企業へ転職

どうせ転職するなら毎日Happyで過ごしたいと思う一方、何が適職なのか一生懸命考える日々が始まりました。
いろんな本を読んで自己分析を行うことをしまくった結果、
甲子園優勝を目指す野球部のような環境で働いてみたい」ということが
私にとって望む環境でした。
誰もが目標のために努力を惜しまず行い個人のスキルをひたすら磨く。そして、そのようなオールスターのようなメンバーがチーム一体となり目標のために動いてく。そんな環境に身を置きたいと決心しました。

紆余曲折があり、結果的に上記を軸に転職活動を行なった結果、望む場所は 
メガベンチャー企業 
または 
外資系企業の2択でした。

過去より、英語がずっと苦手だった私が外資系企業に入社すること、働くことは想像できなかったので、メガベンチャーをメインで受けることとして、
外資系企業は”記念受験”という形で受けることにしました

結果、第一志望のメガベンチャーの内定をもらい、転職先が決まりかけましたが、記念受験の1次面接が決まっていたのでとりあえず受けてみるとトントン拍子で受かってしまいました
もちろん、対策等は入念に行いましたが、当時TOEIC500点台の私が受かると思っておらず・・・
結果、奇跡的に受かることができました。

世界的企業への入社の切符を思いもよらず得てしまい、悩みました。

『世界的企業で学べることがあるはず』
『英語ができなくてもどうにかなる(かもしれない)』
『望んでいる環境は揃っている』

上記のような感情が沸々と湧いて、
結果的に失敗してもいいからという気持ちで外資系企業に入社を決意しました。

★ 現在まで

転職し、4年以上が経過します。転職してよかったと心から思っています。
最高の環境を手に入れることができ、仕事が大好きになりました。
まさに野球部のような環境で仕事をすることができています。

積極的に挑戦もできています。
3年間法人営業として会社の目標を達成した結果、最短規模での昇進や社長賞などの受賞も頂戴しました。

2023年からは志望して営業企画(社内部門)へ異動し、海外のメンバー(外国人)と一緒に仕事をすることとなり、人生でも指折りに入るくらい辛い1年間でした。
専門的な話を英語でディスカッションする。常に会話は外国人。
「何言ってんだこの人」という感想が毎日脳裏をよぎる。
日本語で聞いてもわからない話を英語でされるので、なんにもわからない。
また、業務量も多く、英語での社内文章の作成を全て任される。
ちんぷんかんぷん・・・辛い・・・
毎日自身を無能認定する日々でした。
最初の数ヶ月は捌くので精一杯、頭は一切使わず作業をしていたと思います。
辞める or 専門的知識を取得し、英語を勉強する という強制的な選択肢を常に与えられた結果、 「専門的知識を取得し、英語を勉強する」という選択肢を選びました。というか、住宅ローンのため、嫁のためだったかもしれません笑
そして1年後の今、なんとか業務が回り、成果物へ自分の色を出せることができています。なんとか英語で実務的なコミュニケーションもできるようになりました。今では外国人とのミーティングは怖くないです。
これは強制的にコンフォートゾーンがずらされ、退路を絶たされたユニークな体験だったと思います。

この経験を経て、自分自身への期待値や自らを自信することができるようになりました。俺ならなんでもできる! 心からそう思っています。
そして、このような経験を他の人にも感じてほしい!
そうしたら人生Happyになる!
そう思っていたら、山宮健太朗さんのJCC0期生募集の動画を見ました。
コレだ!!!そう思い、妻にも言わず入会しました。
(事後報告をしたら、なぜ事後なんだとブチギレられました・・・トホホ)

なお、転職は悪だと思っていた価値観が自身の経験でひっくり返ったので、父に謝罪し、今では家族が仲良くなっています。可能な限り、恩返ししていきたいと思います。

★ これから


2024年からは本業の会社員のほか、2つに人生を注ぐ。
これを徹底し、人に胸を張って言える生き様・在り方を体現する。
小学生の頃に自身へ蓋をした”上には上がいる”から派生した”俺には起業できない・そんな才能はない”という解釈を捨て、徹底的に行動して自身を変える。

1つ目:GOAL-Bのプロコーチとして満足度トップのコーチになる。人を徹底的に信じて、この結果を作り上げる。
2つ目:不動産の大家としてアパートと一軒家を1つずつ買う。この過程でノウハウを知る。

3年後には、合計で3,000万円の売り上げを生み出し、
その後は地方行政の空き家問題に介入できる組織コーチとなる。

また英語と筋トレは継続的にトレーニングをする。
この2つは死ぬまでやめない。

あなたも変われる

ここまでご一読いただきありがとうございます。
お気づきの通り、先天的に何かを得た人間ではなく、様々な経験を通し今の私がいます。
今(2024年2月時点)、人生で一番楽しいです。
あなたは最も楽しいと言いきれますか?

もし言い切れないのであれば、こちらからYoutubeでまずGOAL-BのコーチングをCheck!
変わりたい!という感情があればぜひ、
GOAL-Bのコーチングを受けてください。

一緒に人生ぶち上げましょう。お待ちしています。

GOAL-B /JCC 0期生 プロコーチ なり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?