「響 〜小説家になる方法〜」の読み方がわかったのでシェアします

何年か前、会社の先輩に勧められたものの 1 巻で挫折してしまった漫画。たいていの漫画なら最後まで読み進められる僕が拒否反応を起こしてしまった漫画。それでいて世間ではかなり売れていて、実写映画化までした漫画……。そう、おわかりですね。「響 〜小説家になる方法〜」です。

Amazon レビューを見てみたところ、やはり賛否両論でして、主人公である響のキャラが受け入れられるのかどうかというところに議論が集約しているように感じます。実を言うと僕も、「このキャラはダメだろ……」という気持ちが読みすすめる上での障害になっていました。

僕が「響」を読めなかった理由

異様なまでの「響推し」というか、「響アゲ」というか。いわゆる「なろう系」っぽさを感じていた部分もありました。誤解のないように言っておくと、「なろう系」が嫌いなわけじゃなくて、好きな作品もあるんですが、何故か「響」のそれは相当イライラさせられたんですよね。

「響」は主人公の行動がダメダメなのに、作品内でほとんどお咎め無しで終わってしまうのが抵抗感を誘発したんだと思います。「オーバーロード」だったら、モモンガが悪いことしたら人間たちは怒るじゃないですか。人気の「なろう系」主人公たちが周りからチヤホヤされるのは、彼らがいいことをしたからですよね。「響」では、響が何をしてもそれはカリスマ性と解釈されます。そこが駄目でした。

ともあれ僕としては、一巻を読んだ段階でこの漫画は「ゴミ」の本棚に分類してしまい、それきり忘れていたのです。

「響」は「なろう系」ではない

時は流れ、つい数週間ほど前のことです。漫画好きの後輩から「響」をおすすめされました。僕としては、既に一度見切りをつけた漫画のことです。後輩にもそう伝えました。一巻まで読んだけど、「なろう系」っぽさが鼻につくし、主人公のキャラクターに全然魅力を感じない。すると……

「いや、narikin 先輩、これは所謂『なろう系』とは違いますよ。『響』には『響』にしかない面白さがあるんですよ。一巻だけじゃわからないんですよ」

そうなのだろうか?この時点で、僕は後輩の言うことに全然正当性を見出していませんでした。ただ、この後輩は自分でも漫画を描くし、もちろんずいぶん読んでもいるのです。それになにより、こちらには一巻で切った負い目があります。わかった、最新の 12 巻まで読もう。そのかわりに君は「ラブデスター」全 12 巻を読むんだぞ。

結論から言うと、後輩は正しかった。「響」は「なろう系」じゃない。もっというと、一部の人が書かれているような、「意識高い系」の物語でもないのです。では、この物語とはどう向き合えばよいのでしょうか。

※ この記事は一度「響」を読んだものの途中でやめてしまった人を対象にしているので、以下、ソフトなネタバレがあります。

脇役たちの物語?

僕を含めて、この漫画を読む人の殆どは天才小説家・鮎喰響の物語として読み始めると思いますが、その読み方だとこの作品の面白さに気づけず終わってしまうかもしれません。以前の僕もそうでした。

一般的な物語の構造では、主人公にはなにかが欠けています。その欠落を埋めるために行動して、なにかを得る。そこに読者はカタルシスを感じて、ああ良かったな、と思う。ですので主人公に共感できるかというのは大切なポイントです。そこで主人公の鮎喰響ですが、彼女に埋めるべき欠落はありません。なぜなら彼女は天才だからです

初めて小説を投稿すれば入選し、芥川賞と直木賞も同時受賞するし、初版は 50 万部出ます。なんとなく書いてみたラノベも有名レーベルの大賞を取りますし、人気イラストレーターのイラストがつくし、即アニメ化が決定して爆売れしてしまうのです。おまけに自分の価値観を絶対のものとして捉えており、全くぶれません。「共感」とか「成長」と言う言葉から最も程遠い存在だと言えます。

つまり、響の物語として消費しようとすると、どうしてもうまくハマらないのです。それでは、この作品の中に物語はないのか。もちろんあります。どこにあるのかといえば、それは脇役たちの中にあるのです

鮎喰響と関わった人間は、大なり小なり試練を経験し、それを乗り越えて「なにか」を得ます。それは自分の夢に折り合いをつけることだったり、もう一度チャレンジしてみようという思いを抱くことだったり、ヤンチャ坊主を卒業して大学受験の勉強を始めたりすることだったりします。そこにはカタルシスのある物語がたしかに存在します。

物語の中盤では、タイトルの「小説家になる方法」の部分が回収されますが、ここは本当にいいシーンだと思います。一度は小説を諦めかけた小説家が、響との衝撃的な出会いを経て再起し、そして……。この一連のエピソードは、超越した存在である響が介在したことで、脇役の物語が大きく動いた例でしょう。

鮎喰響とどう向き合うか

作品の中で、「世の中の多くの人は自分にまだ見ぬ才能が眠っているのではないかと考えて生きている」という内容のセリフがあります。実際はそんなものないわけですが、その期待を完璧に打ち砕いてくれるのが鮎喰響という存在です。凡人たちは、響と向き合う中で自分の欠落をどう埋めるのか真剣に考えて、行動しなくてはなりません。これこそがまさに読者である僕たちの物語であって、共感し、楽しめる物語なのです

とはいえ、この読み方では響の面白さの半分ほどしか味わえないでしょう。そもそも、この漫画の殆どは鮎喰響その人にスポットを当てて書かれているわけですから、やはり鮎喰響自身の物語を読みたい……そう思うのは至極当然のことです。登場人物たちの多くと同じく凡人である僕たちもまた、鮎喰響と向き合わなければならないでしょう。

ここで、先程の問題……鮎喰響自身は超越した存在であって、克服するべき欠点を持たないという問題が、再び現れてきます。こういう「お話」、現代日本漫画にはほとんど見られません。ですが、意外なところにヒントがありました。カンのいい人ならすでにおわかりでしょう。「バーフバリ」です。

「バーフバリ」の神話的構造

「バーフバリ」を見たことのない方(ほとんどいないとは思いますが)のために少し解説をします。「バーフバリ」はインド映画の大傑作で、バーフバリの名を持つ親子二人の英雄譚です。この作品、日本人の感覚からすると馴染めない描写も多くあるのですが、口コミで広がり大人気となりました。

バーフバリは、完璧な存在です。何 km の高さかもわからない滝を身一つで登り、暴れ象を一瞬で手懐け、ヘナタトゥーを意中の相手に気づかれずに描く(しかも上手)こともできます。戦えば無敵です。それも当然です。というのも、バーフバリはインド神話の世界を映像に落とし込んだ作品だからです。この現代に、マハーバーラタの如き叙事詩がかくも華麗な復活を遂げるとは……まさにインド人もびっくりと言ったところでしょう。

初代バーフバリの妻が裁判にかけられるシーンで、バーフバリは相手方の言い分をろくに聞かずにその首を撥ね飛ばします。現代人の感覚からすると無茶苦茶ですよね。ですが不思議と、それが受け入れられるのです。それどころか、畏敬の念すら抱いてしまいます。なぜならバーフバリは神だから。神のやることに人の理は通用しないのです。

どんなに無茶なことをしでかしても、「ああ……バーフバリ様なら当然だよな」となります。作品中の群衆も、バーフバリが何をしてもバーフバリを信じてくれますし、最強の奴隷剣士はスライディングしながら跪いてバーフバリを崇めます。鑑賞者は、絶対者たるバーフバリの前にすべてを投げ出して、ただその姿を信仰することしかできません。バーフバリ!!バーフバリ!!!バーフバリ!!!!

「響」という神話

閑話休題。つまるところ、鮎喰響は神なのです。神なのだから、我々人間の物差しで行動をはかるべきではありません。部活の先輩と口論して気に入らないことがあるなら、本棚を倒しましょう。セクハラしてくる小説家にはキックを食らわせましょう。自分の尊厳を傷つけてくる人間がいるなら、パイプ椅子でもスコップでも中華鍋でもなんでも使って、必ずやっつけましょう。テレビ局の社長を人質に交渉するのも良いでしょうね。鮎喰響は歩く自然現象であり、神なのだから。

上記の鮎喰響の行動は、現代の社会通念ではかると完全にアウトですよね。いくら相手が許してくれたとしても、どう考えたってとんでもない問題になるはずです。でも大丈夫。鮎喰響に関わった人間は、例外なくその神性に当てられます。どんなトラブルがあったとしても、最後には必ず鮎喰響のカリスマ(=神性)に屈して、彼女と敵対することはないのです。

天才小説家であるところの響(作中では最初、フルネームを隠して小説を発表しています)は、顔の見えない、存在すら疑われる存在です。民衆は顔の見えない鮎喰響の言葉に感動して、崇拝します。登場人物は言います。鮎喰響がどんな行動をしても、カッコよく見えてしまう、と。これはまさに、鮎喰響が信仰の対象であるからにほかなりません。すべての事例を取り上げることはしませんが、この作品が神話であることはこのようにエピソードの端々から伺えるのです。

神話のレンズを通して「響」を読んでみましょう。鮎喰響は、荒れ狂う神であり、人智の及ばない能力をもち、すべてをなぎ倒しながら進みます。その歩みに神々しさを見出しましょう。バーフバリを称えるように、鮎喰響を称えるのです。準備はいいですか 、響!!響!!!響!!!!次の「響」ファンの集いに備えて、大きな声で言う練習をしておくことをオススメします。

ヤンキーものとしての「響」

一方で、今回「響」を読みながらふと感じたことがありました。「響」は神話だ。それは間違いない。しかしそれだけでは説明できない、既視感がこの作品にはある。この既視感の正体がわかれば、もっと楽しめるのだが……。そう感じた僕は、「響」を勧めてくれた後輩と改めて話をすることにしました。その会話の中で、ふと納得いく答えにたどり着いたのです。

ヤンキーものだ!

文学少女というフィルターに隠されてはいますが、鮎喰響の行動は完全にヤンキーです。入学早々、高校の番長格をシメて部室を奪い取り、その後も最強サイコパス幼馴染や他の文芸部員達(ヤンキーの割合が多い)とともにヤンキー人生を邁進します。ムカつく教師には根性焼きだ!目についた武器で敵を倒すその姿は、僕たちがかつて少年漫画で憧れた不良漫画のヒーローとダブります。というか、ヤンキー漫画は神話だったのですね。それを知らずに今日まで生きてきてしまいました。

考えてみれば、「今日から俺は!」の三橋と鮎喰響は似ています。気に入らないことがあれば深く考えず暴力で解決しようとする。相手が誰であろうと関係ない。基本的に戦法は卑怯。メチャクチャ強くて、どこにいても駆けつけてくれる相棒がいる。おまけに文学が好き(三橋が詩人になりきるエピソードがありましたよね)。完全に一致。

ここまで考えを進めて更に気がつくことがあります。ヤンキーが、社会的に上り詰めていくこの構造。教師、有名小説家、テレビ局のプロデューサーに文部科学大臣とスケールアップしていく敵たち。ヤンキー的な行動で社会的に成功していくその姿は、日本で最も有名なサラリーマンと一致するではありませんか。そう、

「サラリーマン金太郎」です。

「響」は、偉大なる日本ヤンキー漫画のレガシーに連なる作品だったのですね。

もう一度「響」を読もう

「響」を一度読んで受け入れられなかった方は、上記を踏まえてもう一度この作品に挑戦し、感じてください。鮎喰響は神であり、最強のヤンキーなのだ、ということを……。そして「響」が、ヤンキーものとして非常に優れた作品であることに驚くことでしょう。サブタイトルの「小説家になる方法」は、一旦脇に置いておきましょう。混乱しますから。

というか、このサブタイトルは「響」という作品への誤解に一役買っている気がします。前述したように、サブタイトルは作中で回収されて、それはそれでテクニカルで見事なんですが、「響」の「旨味」みたいなものが十分に伝わらないように思えるんですよね。「響」はまだアニメ化されていませんが、その際には思い切ってサブタイトルを変えることを提案したいです。「小説家になる方法」より、「文芸ヤンキー伝説」とかのほうが実態に即していると思いますし。売れるかどうかはわかりませんが。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。最初に想定していたよりはるかに長くなってしまいましたが、この文章が「響」の新しい魅力の発見に繋がることを願っています。そしてもしよろしければ、「ラブデスター」も読んでください。ついでに「G のレコンギスタ」も観てください。あとは毎日寝る前に Netflix で「ネオ・ヨキオ」を流すのも忘れないでくださいね。

「響」、面白いですよ!

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