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暴言で世間を騒がせた明石市の泉市長が辞任しました。

ここで問題です。

泉市長は職員に対して「怒った」のでしょうか? それとも「叱った」のでしょうか?

正解は両方です。

「怒る」と「叱る」は、本来違った意味を持っていたはずですが、現在は「怒る」も「叱る」の意味で使われることが多いようです。

しかし、厳密に言えば「怒る」と「叱る」は、少し意味が違います。

「上司に怒られた」という言い方はよく耳にしますが、厳密に言えば「上司に叱られた」とすべきだと思います。

なぜなら、「怒る」は自動詞、「叱る」は他動詞だからです。

同様に「開く」は自動詞、「開ける」は他動詞。

つまり、対象がなくても動くのが自動詞で、対象がなければ動かないのが他動詞です。日本語では「話す」「語る」は自動詞になりますが、英語では同じ「話す」でも、自動詞の「speak」と他動詞の「talk」に分けられます。

なので、対象がある場合、「怒る」より「叱る」のほうがしっくりきます。

「罵る」「虐める」「叩く」「殴る」は対象がなければ成立しないので他動詞です。「開く」「登る」など対象が人でない自動詞は、ふつう「開かれる」「登られる」とは言いません。しかし、対象が人間の場合は自動詞が他動詞的に使われることがあります。

「笑う」「泣く」といった自動詞でも「笑われる」「泣かれる」と言います。つまり、自動詞である「怒る」も対象が人の場合、「怒られる」と言えてしまうわけです。でも、自動詞であっても「怒られる」「笑われる」「泣かれる」と受動態になると、少し意味が変わってきます。

漫才が「観客を笑わせる」とは言いますが、「観客に笑われる」とは言いません。映画が「観客を泣かせた」とは言いますが、「映画が観客に泣かれた」とは言いません。

「笑われる」「泣かれる」は、対象者に「そんなつもりはなかった」という意味が込められています。そう考えると「怒られる」も同じように「怒らせるつもりはなかった」という意味が込められていると言えます。

「叱られる」は、「叱る人」が意図をもって対象者に対してする行為ですが、「怒る」は対象者がその場にいなくても成立します。

だから、自動詞である「怒る」を「叱る」と同じ意味で使うのは、やはり正確ではありません。なぜなら、「怒られる」というのは、意図せず「勝手に怒らせてしまった」という意味になるからです。また、対象者がいなくても成立するのであれば、わざわざ対象者に向かってする必要のない行為だからです。

ただ、「怒られた人」が「やべえ、こいつ怒ってるから、今後は怒らせないように気をつけなきゃ」と態度変容を促す意味では、「叱る」と同じ意味になります。

「叱る」のなかには「怒る」行為が含まれています。そういう意味では「怒る」は、暴言や体罰に近い効果が期待されているとも言えます。対象者に恐怖で制圧する行為です。今回の泉市長の暴言はこれに当てはまります。

これは犬のしつけに似ています。「叱る=怒る」は、アメとムチのムチです。アメだけで制圧できないときに、ムチを使うわけです。アシカやイルカの訓練はたぶんムチは効果がないため、アメ(餌)だけで芸を覚えさせているのでしょう。

つまり「叱る人」は、「叱る」演出として「怒る」のであれば、効果が出ることはあるかもしれません。しかし、対象者の問題を改善する意図なく、自分の感情に任せてて「怒る」だけではまったく意味がありません。

映画『ゴッドファーザー』のマフィアのボス、ドン・コルレオーネは、いついかなるときも決して怒鳴ったり、激昂したり、暴言を吐いたりすることはありません。恐怖で支配しているから、そんなことをする必要がないとも言えますが、それ以上に配下の者が尊敬と畏怖の念を抱いているから、静かに囁くだけで、手下は忠実に従い、全力で働くのです。すぐ頭に血がのぼり、冷静になれないマフィアはたいていあっさり殺されてしまいます。

効果のない「怒り」を部下に発散するだけの市長も阿呆ですが、それを「なんで怒んの?」とチクる職員も阿呆です。ニュースによると、幹部職員の言い分は「すでに契約は進んでいたので市長は勘違いして怒った」とのことですが、ボスにそんな基本的な報連相もできていなかった幹部職員もやはり底なしの阿呆です。


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