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発信することの楽しさと怖さと葛藤

わたしはかれこれ2年ほどTwitterとnoteを書いている。

Twitterはざっくり、広く繋がりをつくって情報収集をするため 
noteは自分の思考を整理していくため

プラス、継続する力をつけて、いつか、なにかに結びつけたらいいな、という気持ちでなんとか続けている。いずれも、「なりゆり」というアカウント名を使って。もちろん、本名ではない、SNS用の名前。(ここで「山田なりゆりと申します」とか言ったら、え、ってなるよね??笑)

顔も名前も細かい個人情報は公開せずに、気楽に書いていた。楽しい。言いたいことを言って顔は知らないけどいいねもらえたり、コメントもらえたりして。自分の書いた文章に、何かしら共感してもらえたりしたってことだから、単純にうれしくて。自分の好きな言葉を紡いでいる人々やアカウントに出会って、なんて楽しいんだって。


仕事で、実名でインターネット上に私の個人情報を上げた上で、記事を書くことになった。

急に、文字を書く手が進まなくなった。

怖い。


発信することがどうして怖いのか。実名で発信していく必要があって、こわいと感じた。どうしてなのか

それは、自分の所属している組織の看板をつけた状態でなにかまずいことを言ったらどうしようとか、どこの誰のことなのかが、「バレてしまう」という感覚。私は何も有名人でもないのだけれど、インターネットという海の中で、誰でも私の書いた文章、かつどこの誰で顔もバレている、という状況が恐ろしいと思ってしまったのだ。きっと、実名を伴って発信すると、リアルな人間関係に慮って言いたいことが言えなくなってしまうのではないかという恐れ。

漠然とした怖さも分析してみるとわかってくる。

あと、先日読んだ小説「スマホを落としただけなのに」が怖すぎたの。あれは作り話なんだろうけど^^;


生身の人間同士ではなく、文面のみの表現では、テキストでは伝わりきらない人物性があるだろう。だから、語弊があっても、相手の顔色が悪くなってもその場では修正できない文字での発信っていうのは難しいと思う。だけど、八方美人な文章なんて面白くない。文章で表現されるからこそ垣間見える部分もある。だから、自分が守りたいことと開示していいことの境界を決めていかないと離れてほしくないのに離れていく人もいるだろう。自分を見失ってしまうこともあるだろう。


私、疲れたときにキラキラハッピー、やる気満ち溢れたハイテンションな投稿は見たくないと感じる。だけどそんな自分をどこか虚しい、辛いなって思っている時期もあった。

だが違う!自分の気持ちも大切に 気持ちにムラがあるのが人間だから。


楽しいという感度は高く持っていたい。自分にとって快の感情への感度は高く持って、情報は取捨選択、見たくないものは見なければいい。

そうやって割り切って、発信を続けていけば、私の発する言葉を好きになって見続けてくれる人も現れてくれるだろう、逆に離れていく人はそれでいいのだ。


発信する内容に併せてフィールドを選ぶこと。発信する相手(ペルソナ 届けたい相手)は分けて、適した役になり切ること、そしてアンチ的なものは気にしないという強い気持ちがあれば大丈夫なのかな、と思う。

自分の側面を全部わかってもらうような文は書けないけど(だって直接やり取りしたってお互いを全部理解するなんて難儀)、そのツールに併せて自分の一部を選択して出していけば、自分のその部分に合う人達が集まってくれる。そして、そのプロジェクトやグループはきっとうまくいくのだ。

最近、自分の多重人格性に気づいた。でもそれがきっと人間で、うまく自分の出し方を身に着けてコントロールできれば、人生うまく行くような気がしてる。自分のこと全部わかるのは自分だけでいい。

そんなことを思う、2020年6月の終わり。

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