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ただいま

子供のころ、家に毎日届く新聞を読むのが好きでした。

漢字がすべて読めるわけでもなく、理解の及ばない記事ばかりでしたが、政治記事の次にある国際情勢と最後のページにある社会記事のふたつ、そしてご褒美のようにテレビ欄を見るのが日課でした。小学生から高校生まで続いたと思います。あの頃は毎日きちんと眠れていました。両親からたくさん愛情をもらっていることに気づきも感謝もなかった一方、活字で外国のことを知るのが心地よく、日常を飛び出したい衝動をいつも抱えるヘンテコな子でした。

学校では素敵な社会科の先生に恵まれたと思います。中学生や高校生になると、授業で教わったことと新聞の世界がだんだん一致していきました。教わった国が実在すること、その国が過去の繁栄ぶりとは裏腹に壊れかけていることを知って、感情移入するようになりました。とくに、1989年前後のことは今でもよく覚えています。ソウルオリンピック、昭和の終焉、天安門事件、ベルリンの壁の崩壊、ルーマニア革命、バブル崩壊、湾岸戦争、ソ連崩壊など、世界はガラガラと変わっていきました。ちょうどこのころ、アメリカの惑星探査機ボイジャー2号が人類史上初めて海王星に接近したり、ハッブル宇宙望遠鏡が打ち上げられたりして、科学雑誌も沸いていました。静かな宇宙の写真を見て意識が遠のき、激動の世界との乖離に私の想像力は追いつかず、闇に浮かぶようにふわふわしていました。当時から今に至るまで地元愛知県では、荻野目洋子さんのヒット曲「ダンシングヒーロー」(1985年リリース)に合わせて盆踊りを舞う奇習があり、夏のオレンジ色の夕暮れと太鼓の音が、変貌する世界や黙する宇宙と渾然一体となって記憶に残っています。

夏色に霞むボイジャーとイメルダさん(私の中の記憶)

大学生になって一人暮らしを始めると、私はとたんに新聞を手にしなくなりました。独りで定期購読する余裕はありません。でも、それ以上に自分の世界が広がることに夢中だったのでしょう。私はついに、活字で学んだものに実際に触れるために旅を覚えるようになっていました。特に、中近東によく脚を運び、トルコの古代ヒッタイト遺跡も、エルサレムの岩のドームも、テヘランの旧米国大使館も目にすることができました。誰の役にも立たない確認作業をしただけなのに、たまに帰省しては、両親が相変わらず地方紙を購読しているのに満足できず、全国紙を勧めたこともありました。知識と経験を得て私はちょっぴり生意気になっていました。

入国目的を聞かれても英語が拙くて、執拗な尋問を受けたイスラエル

若い自分を責めるつもりはありません。良いのか悪いのか、この確かめグセは今でも残っています。他人が論じることを受け入れたり批判したりする前に、必ず原史料となる石の碑文やパピルス文書を読み返すようにしています。研究者の意見を聞くことよりも、古代人の伝えようとしたことに耳を傾けるのが使命だと思っています。だから、典拠となるものを明確にしないとスッキリした気持ちになりません。職業病なのでしょうか。

でも、すべての物事は必ずしも白黒はっきりできません。消しゴムのなかった古代人が残した文書は、意味不明な箇所や間違いが少なからずあります。そこに論じる面白さがあるわけですが、一方でそもそも書き間違いではないのではと疑うこともたくさんあります。私たちが解明できていないだけで、文書は正しいことを伝えているかもしれないのです。しかし、滅んでしまった文明ゆえに、永遠に確認しようがありません。古文書を頼りにする文献史学という学問は、このように潜在的なジレンマを抱えています。とくに、物語の場合はそれが顕著に現れます。というのも、作り話は史実と嘘の間に存在するからです。古代エジプト人は主人公や時代を昔の王に仮託するのを好みました。「〜王の時代に」などと始まる記述はたくさんありますが、それが歴史的記述なのか、完全な物語なのか判断できない場合、研究者は「歴史的な事実に基づいた物語」などという方便を使って史料の位置づけを試みます。単なる創作だから、無視してよいとはなりません。無視してよいなら、研究者は必要ありませんし、私は職を失います。

そんなわけで、研究者の立場は総じて、現存する史料にはすべて意味があることを前提としています。例えば、ものすごく卑猥な挿絵のある文書も、宗教的な意味がある可能性を担保に、研究史料としての価値づけをされます。この理屈に従うと、私たちがポルノに親しむような個人の自由は考慮されません。落書きやイタズラも歴史の歯車に組み込んで文脈化して考察するのです。でも、それで本当にいいの?と問いかけるもう一人の自分も常にいます。古代人に会えるなら、尋ねてみたい。「いやぁ〜、ちょっとした出来心で作っちゃったんだわ〜」なんてあっさり言われることだって実はあるんじゃないかと思うのです。それとも、民主主義的価値観に染まった現代の私の無理解なのでしょうか。芸術作品のような文脈から逸脱したものが古代では許されないという前提は、正当だと言い切れない気がどうしてもするのです。

そうかもしれないです

そうして、今も模索を続けています。白と黒とグレーを。未熟な私は、グレーという中間色を理解するまでに何十年かかりました。人を理解するための学問には、己の人生経験が不可欠なのだと今更ながら痛感しています。そして、すべてが白だという研究の大前提に対して、旅をしてやっぱり白だったことを確かめただけの若い頃とは違い、黒もあるんじゃないかと小さな声で主張できる図々しさが身についたように思います。

実家で両親とまた同居を始めました。相変わらずの地方紙ですが、満足しています。国内外を問わず、どんな大手のオンライン媒体にも誤謬が散見されるのとは異なり、紙媒体の新聞は確かさという付加価値を守り続けています。変わったのは、テレビ欄に代わって地元の情報が載る地域記事に目を通すようになったことでしょうか。宇宙にまで広がりかけた若い私の世界は、一見縮んでいるようですが、それこそが生まれて初めて自分に向き合うということなのでしょう。私は母の子宮に戻っているのかもしれません。ただいま。すっかり頭でっかちになって、錠剤の力を借りないと眠れなくなりましたけれど。


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