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「SWAN SONG」感想

生きている人、いますか?

お疲れ様です。とりぞーです。

今年も夏が終わってしまいましたね…

次は涼を感じるゲームをプレイしようと選んだら、とんでもない作品を引いてしまいました…

◇基本情報

・ブランド Le.Chocolat
・発売日  2005年07月
・ジャンル ファンタジー
・分岐形式 単線型

◇パッケージ

・商品名称 SWAN SONG
・購入形態 DL販売(FANZA)
・購入価格 1,500円(税込)
・同梱特典 なし

◇傾向

長 ★★★☆☆  ※定価に対するテキスト量
重 ★★★★★  ※精神的なしんどさ
熱 ★★★★☆  ※燃える展開の有無
楽 ★★★☆☆  ※ギャグの冴え
泣 ★★★☆☆  ※全米が泣くか
感 ★★★★★  ※余韻を感じるか
難 ★★★★☆  ※頭が良い人向け
新 ★★★★★  ※斬新さがあるか
エ ★★☆☆☆  ※濡れ場の数・文章量・CG数
幸 ★★★☆☆  ※ハッピーエン度

◇推奨攻略順

Nomal→True

※Nomal後にTrue√解放。実質固定。
※BAD√は分岐後短いものが多いため、都度踏んでから本筋に戻るのもあり。
※セーブ前のテキストが読めないので、良さそうなシーンは早めにセーブしておくことをオススメします。
※スキップ機能はあるものの、視点変化の演出が飛ばせないので、周回するのは面倒です。選択肢の数が少ないので、都度セーブしてしまうことをオススメします。

◇プレイ前の印象

 ”絶望メーカー”。
 そんな仰々しい二つ名を持つシナリオライターを、あなたはご存じでしょうか? もしあなたが「知っている」と答えるならば、申し訳ないけれどそれは100%知ったかぶりであると断言してみせます。なぜならこの二つ名は私が勝手につけ勝手に呼んでいる、極めて私的な渾名に過ぎないからです。ごめんなさい(テヘペロッ
 とはいえ誰も知らないそんな二つ名でも、人によっては推察で当ててみせるかもしれません。瀬戸口廉也とはそれほどに個性的で、圧倒的な存在だと言い切れる作り手であると私は思うのです。
 とてつもなく人聞きの悪い言い方ですが、私はこの人ほど人を殺すのが上手い作者を知りません。「マブラヴ」シリーズや、アニメの「まどマギ」「ゆゆゆ」等、絶望をウリにする残酷な展開の物語は、今や巷に溢れんばかりに出回っています。しかしそれらが大抵は重要なキャラクターが”残酷に”殺されてしまうものであるのに対し、瀬戸口作品では、主要キャラにもモブキャラ達にもそれぞれの人生があってそれが失われてしまう瞬間の等しい”あっけなさ”が、たまらなく心を抉るのです。
 殺陣のシーンで沢山の人が次々に死んでいくシーンでも、殺される一人ひとりの個性をワンセンテンスで紹介しながら斬っていったり、ノリにのって最高潮の順風満帆なその頂点で自殺してしまったり。読み手をリードするというより、振り落としてやろうとでもいうかのように、私たちを揺さぶり苦しめ弄ぶ、罪な書き手なのです。それによってどれほど私が絶望を乗り越え、涙の数だけ強くなってきたことか。それが彼を”絶望メーカー”と呼ぶ所以なのです。

 さて、なぜ今になって私がこの作品をやろうと考えたかというと、それは私があまりに無知であり、今日までこの作品のシナリオライターが瀬戸口廉也氏であることを知らなかったからでした。
 もちろん作品自体の存在は発売当時から認知しており、ハードボイルド系のシリアスな話なんだろうなと思いながらも、Le.Chocolatというブランドに馴染みがなかったせいもあってか、あの頃に同種の作品を量産していたニトロプラスの作品の一つだと勘違いしていたくらいで、虚淵玄氏を信奉していた私はその他作品として十把一絡げにしてスルーしてしまっていたのでした。
 今でこそ知らないオタクはモグリだと言われるくらい有名になった虚淵氏ですが、Fate/Zero執筆前の当時は全くそんな気配もありませんでしたし、まだPC文化が未発達だったあの頃には自分だけが知っている神様の一人だったのです。完全にかぶれていた当時の私は、ニトロプラスというブランドを二分して、まるで漫才コンビのように、虚淵”じゃない方”の作品を蔑視していたのです。この場を借りて謝罪致します大変申し訳ございませんでした。。。今日は瀬戸口廉也の名前だけでも憶えて帰ってください!

 また、これまでプレイしてこなかった理由として、パッケージイラストに購入意欲を削がれてしまったというのもあります。というのも、登場人物の一人が全裸で雪上に寝て空を見上げるカットを正面から描いたイラストで、初心だった若き日の私には文字通り手を出しにくかったですし、「この娘がメインヒロインなのか」と思うと性的魅力には欠けているように感じてしまいました。ハードボイルドもシリアスも大好きでしたが、それでもやっぱりえっちな魅力も欲しい欲しがり屋さんだったのです。エロゲのパッケージといえば、表はカッコよく!裏はえちち!これがスタンダードだったのでした。オタクTシャツも表面は無地やロゴで、バックプリントででかでかとキャラが描いてあるものが売れる原理と同じなのです(多分)。さて、今にして思えばこのパッケージにも意味があったと感じるのですが、それは後述致します。

 最後にひとつ懸念があったとすれば、それは購入価格でした。去年にFANZAのワンコインセール(500円)で売られていた時期があったことは覚えており、底値を知っているとそれより高い値段ではやすやすとポチれないのが人間心理の難しい所なのです。ついメルカリの過去の販売価格と比べてしまったり、ヤフオクの落札済価格を調べてしまう人間のサガ。
 最後にもう一度繰り返します。瀬戸口廉也というネームバリューが、全てを覆して私を購入に駆り立てたのです。購入価格はFANZAの秋キャンペーン対象で1500円でございました(やすっ)。

◇プレイ後の印象(ネタバレ控えめ)

 「立ち絵がない…だと…!!!」という衝撃。
 立ち絵は衣装のバリエーションや表情の豊かさによってキャラの魅力を引き立てる重要なシステムだと思うのですが、しかし各キャラを思い浮かべると、常に無表情な司、常に張り付いたような笑顔を浮かべる田能村、常に卑屈に口の端を吊り上げている鍬形…うーん、これは立ち絵いらんな、と納得せざるをえませんでした(笑) 物語の舞台設定上、衣装も変える必要ないですものね。よく考え尽くされて、省エネされた斬新な手法だと感心しました。それもグラフィックに頼らずともシナリオで描写ができる自信があっての判断だと思いますが。

 また、複数視点で語られていく物語というのも、なかなか新鮮だったと思います。ぱっと私が思いつく作品だと「Aster」「カタハネ」「ルートダブル」「すばひび」「俺翼」あたりでしたが、どれもこの作品より後に出たものなので先達にあたる作品になるのかなと背筋が伸びる気持ちになります。逆にシナリオの雰囲気などは90年代作品に近いような気もしていて、そういう意味では伝統を継承しながらも文字通り新たな視点を取り入れた先進的な作品だったと言えるかもしれません。(なお、「Ever17」は本作以前の複数視点のようですが、未プレイのため言及は避けます。近々プレイしたいと考えています)

 キャストの面でもかなり強かったように思います。
 なぜかキャラ名と同じ名前でクレジットされている佐々木柚香さんは、明らかに石橋朋子さんの声でしたね。まだ名義が決まる前だった等の事情があれば理解できるのですが、既にこの作品より前に「君望」などで裏名義作ってますし、なぜこうなっているのか謎でした。しかしどこか芯の弱さを漂わせる声は役にふさわしかったように思います。
 あろえの草柳順子さんはハマり役でしたね。無邪気さというか、純粋さ・優しさのようなものを兼ね備えている声を持つ方だと思うので、最初こそ面喰らいはしましたが、振り返るとぴったりだったなと感じました。
 そしてなにより北都南さん。彼女のイメージと少し違う役どころだなと想い新鮮な気持ちでいたら、True√に入ってまさかの設定が明かされて驚きました。胸に飛び込んでくるあのシーンのあのセリフは、彼女の曲芸作品での声のイメージが強く心に刻まれている人にとっては、これ以上ない破壊力を秘めていたように思います。

◇とりぞーのお考え(ギタギタ)

 この作品について私が何か語ることに意味があるだろうか、とは凄く考えました。作品の良し悪しではなく、この物語は明確な何か考えや結論というものを持っていたわけではないと思うからです。誤解を恐れず言葉にするのであれば、この物語のメインは生き様であって、結果どうなるかや原因がなんだったかという部分ではなく、落とされた世界でいかにして生きるか、という部分が見せどころだったのではないでしょうか。
 私は何か芯となる考え方のある作品が好きで、それを常々”哲学”がある作品、というように表現しているのですが、そういう意味ではこの作品は”哲学”があるとは言えないのではないかと、そう考えたのです。
 しかしそれでも、ネットで他の方の感想などを掘り起こすと、「そもそもこの世界が何だったのかわからん」とか「文章はいいけどお話は不完全」みたいな感想や、「災害に立ち向かう話」だとか「悲劇の中で成長する話」みないな読み方をしている人が多いようで、それ自体は勿論悪いことではないしどう考えるかは各人の自由なのだけれど、私とは随分と受け取り方が違うのだなぁと感じたので、”これってそもそもどういうお話だったの?”という部分について語ることにも、価値があるのかなと思いました。

 さて、いつも通り結論から言いましょう。この作品が描いているのは、人間というのは孤独の中でただ生きていく存在なんだ、ということだと思います。
 一見すると、災害で一人投げ出された主人公が、数人と仲間になり、組織の一員となり、他の組織と統合して大きくなり、被災後の地獄のような世界を生き抜いていく、他者との関わりや繋がりを賛美するような物語であるかのように見えるかもしれません。しかし、私は真逆であると受け取ったわけです。
 なぜなら、この物語の最後に、”救い”がないためです。ラストシーンについては各々解釈の余地はあるでしょうが、事実として何かによって救われたという描写はなく、救いに至る物理的な手段が提示されたわけではないでしょう。向日葵の種を植えてそれが満開になる。それは確かに”希望”であるようにも思えます。しかし、本文で司が雲雀にツッコんでいるように、向日葵の種が食料となって生きる人々の飢えを防ぎ物質的な豊かさをもたらすとは、どう考えてもあり得ません。その”希望”は、あくまで精神的なものにとどまっているのです。
 ではこの作品は何を描こうとしていたのかと考えた時に、それはひと言にするならば”孤独”なんだろうと私は考えました。

 なぜそう考えたかと言えば、その最大の切っ掛けはあろえという存在でした。あろえは何のためにこの物語の登場人物として存在したのでしょうか。最初はヒロインの一人なんだろうと思ってましたが、最後までやり通してみると、特に誰かと恋仲になるわけでもなく、何か重要な役割があるわけでもないように思います。言ってしまえば、あろえが存在しなくともこの物語には一切影響がないように思える、ということです。
 しかし私は考え進めていくうちに思い至りました。あろえの存在意義は、存在しなくても変わらないという点にこそあるのではないか、ということです。それは言いかえれば、彼女が完全に孤独であり、孤独な存在として完成している、とういうことです。
 あるとき雲雀は言います。「あのね、あろえってきっと、ナカマっていう考え方がないんだよ」と。彼女の見ている世界は何もかもが孤独でバラバラなんだと。そしてその世界は恐ろしいものだよね、と。
 そう、あろえはある意味で完璧な存在でもあるのです。先の見えない絶望的な世界の中で、常に他者や他の集団と諍い争いながら悩み苦しんで生きている登場人物たちと比べ、あろえの存在のなんと超然としたものであることか。誰もがあろえのように在れるのであれば、それは幸せなことなのかもしれません。しかし、それは人間の感覚からすれば病的であり狂った世界なのです。
 あろえが非人間的な存在であるということは、彼女の行動によってもしめされていると考えます。それは彼女がせっせと制作している、砕けたキリスト像の再生という行為です。いわば彼女の非人間性が”神”という存在にも仮託されているわけです。
 だからこそ、Nomalエンドであろえの死が物語の終わりであり、司があろえの作ったキリスト像を大地に突き立てようとする象徴的な行為によって幕を閉じたのだと私は確信しています。また逆に、BADエンドの一つとしてあろえが鍬形に凌辱されて終わるというのもありましたが、これもまたあろえの聖性の喪失・失墜という結末が、理想を穢すことによる人間の生の苦しみからの解放を意味していたのでしょう。
 この物語の絶望的な世界、それは勿論現実の世界を強調したものであるわけですが、その中で幸福に救われるためには狂気が必要なのです。逆に言えば、世界に救いはなくただその絶望の中で苦しみながら生きていくしかない、ということになるのです。
 しかし人間は当然苦しいのは嫌いです。少しでも豊かに、幸福に生きたいと望む人は多いでしょう。私だってそう思います、しかし、「人間は幸せになるために生まれてきたんだ」と主張して憚らなかった法僧・瀬戸内寂聴氏もまさに先週(2021年11月9日)お亡くなりになってしまいました。合掌。
 あろえという存在は、人間の生に救いがないということ、孤独の中で苦しみながら生きていくしかないということを、逆説的に体現したこの物語になくてはならない存在なのではないでしょうか。それ故に攻略ヒロインでないにもかかわらず、パッケージ表紙を独占することになったのでしょう。

 さらに考えを推し進めます。
 この物語が”孤独”を描こうとしたのであれば、さらに腑に落ちるものがあります。それは、この物語における主要メンバーたちの役割です。
 この作品の語りはこの手の作品には珍しく複数視点いわゆる群像劇の体裁をとっていますが、それは個々の語り手の存在がそれぞれ異なる役割を果たしていたのではないか、と感じるのです。
 それは何かと言えば、人が孤独という絶望に立ち向かうために縋るもののバリエーションだったのではないでしょうか。
 司は、ピアノという”芸術”に心酔していました。
 鍬形、はルールという”権力”に飲み込まれていきました。
 田能村は、自らの持つ武術という”武力”に最後まで頼りました。
 柚香は、司(や犬)という”他者”に隷属していました。
 雲雀は、正しい考えという”正義”に拘泥しました。
 妙子は、言うまでもなく弥勒菩薩という”宗教”に染まっていました。
 芸術・権力・武力・他者・正義・宗教。これらは全て人間が世界のなかで自らの存在を打ち立てる根源的な思想基盤であると言えます。
 そしてこれらの多様な手段は多かれ少なかれ反発し合い、”ナカマ”という繋がりは脆くも崩れ去っていくわけです。
 そうして考えると、この物語が複数視点で語られるのは必然であり、また、その語り手としてあろえが含まれていない理由もまた、明らかでありましょう。

 最後に。
 冒頭で述べてはいますが結論を繰り返します。
 この作品が描いているのは、人間というのは孤独の中でただ生きていく存在なんだ、ということだと思います。
 孤独に苦しみながら、救いの無い世界を生きていく。しかしそこには希望もあるのではないかと。それは”祈り”です。人間が嘘でも何かに縋り生きようとする意志を持ち続ける限り、たとえそこに意味や価値や幸福や救いがなかろうと、向日葵に喩えられる人間の生命力というものは、脈々と受け継がれていくのです。
 作品タイトルのつけ方も素晴らしかったと思います。いや、このタイトルがあったからこそ、この物語が生まれたのかもしれません。

「白鳥は死ぬ間際に一声だけ美しく啼くという伝説がありますが、ご存じですか?」
(中略)
「私は思うのです。一生をあの絞め殺される寸前のような醜い声でしか啼けないとするならば、白鳥の声というのはみじめで救いのない声になってしまいます。でも、最後に美しい声で歌えるという物語をそこに作れば、たとえ誰もが嘘だと知っていたとしても、そこに希望を見いだすことが出来るのです。この伝説をモチーフに取り入れた先達は、それぞれの自分なりの想いをこの夢の歌に見ています」
「……いや、嘘だと知っているからこそ、そこに隠された願いが、実際に聞こえている白鳥たちの鳴き声の醜ささえも美しく輝かせるのでしょう。それは見るものの心次第で色を変える孤独な美しさなのかもしれませんが。……私はこのありかたこそが、祈りの本質だと考えています。切実なのに空虚で、哀しくはありますが、必要なのです」

 ”救い”はなくとも”希望”はあり得るのです。
 むしろ”救い”がないからこそ、”希望”は輝きを増すのかもしれません。
 その”孤独”は、あなたの心次第でいかようにも変化する、とても美しい存在なのではないでしょうか。


 ではまたノシ


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